4 ワインと古代ローマ遺跡


●酔っぱらった地上最初の人

  史上はじめて酔った人間は誰だか、ご存じだろうか。
 その人の名は、ノア。旧約聖書の「創世記」に出てくる「ノアの方舟」の主人公である。
 人間の祖先であるアダムとイヴが楽園追放以後、地上に増えすぎた人間とその悪を、一度掃除しようと、神が大洪水を起こす。そのとき、まったき人ノアに箱船を作らせて、彼の家族と地上の生き物のうち清浄なものを、すべてひとつがいずつ乗せることを赦す。
 四十日間豪雨が降り続き、地上に残った生き物はみな死に絶える。そこで、神は水を引かせ、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福を与える。人間も含めて生き残った生き物たちは、子づくりにはげむ。生まれ変わった大地にノアは、神に感謝しつつブドウの栽培をはじめる。そしてワインも作りはじめる。
 ワインができて、それを飲んだノアはある日酔っぱらってしまった。テントの中で真っ裸になって眠りこけるのだ。それを見た末の子が、外にいた兄弟たちに知らせる。兄たちはテントに入り、父の上着をかけてやる。
 酔いが覚めたあとノアは、何故か末の子が兄弟たちに告げ口したことをののしる。
 「呪われよ、カナン。奴隷の奴隷となって兄弟につかえよ」。
 身勝手なノアの言葉だ。
 カナンとは、ヘブライ人(ユダヤ人の祖先)が神から約束されたと信じる「蜜と乳が流れる地」の名前。いま、イスラエルが征服している地域。末の子とはヘブライ人の祖先ということになる。この呪いで、かれの子孫が流浪の民にさせられることになった。酔っぱらうと怖い。

●ワイン作りの最古の記録

 ワイン作りの最古の記録は、紀元前4000年、文明発祥の地の一つ、チグリス河畔に生活していたシュメール人の都市国家ウルの遺跡から出土している。かれらはワインを作り、一日の終わりに、夫婦や友人たちと酔うほどに飲むことを楽しみにしていた。ビールもかれらが発明している。これがノアの方舟の物語の原型とされている。
 また、古代エジプトでもワインを作っていたことを示す墳墓の壁画(紀元前1600年ごろ) がある。これらのワイン醸造技術を世界に広めるきっかけをつくったのは、古代カルタゴを建設したフェニキアの商人たちであった。
 チュニス郊外の、古代カルタゴの中心であったピュルサの丘の頂上にあるカルタゴ博物館の1階に入ってみる。そこには、背丈ほどもある紡錘形の大きな土器が数多く展示されている。全て地中海の海底から引き上げられたワインとオリーブの壺。フェニキアの商船が積んでいたものである。かれらは、北極星を利用して夜間でも航海できる勇気と操舵技術をもっていたが、嵐には勝てず沈没したものと思われる。 チュニスには、カルタゴ時代当時の軍港と商業港の跡がある。当時の復元図を見ると、その実利的な威容に仰天させられる。
  ワインの醸造技術は、まず、かれらから古代ギリシアに伝えられ、そこから古代ローマに伝わった。古代ローマ人は、技術を誇りにする民族の特色を発揮して、ワインの貯蔵法に改良を加えた。樽熟成技術を創案し、はるかに長い熟成をしたワインを楽しむようになった。このことによって、ワインの需要が増え、古代ローマに莫大な富をもたらした。
 その富が古代ローマ帝国の領土を広げ、繁栄を保証し、ローマ市民のただれた頽廃をもたらすこととなった。

●エスカルゴが眠る地下都市遺跡

チュニジア国内には、必見すべき古代ローマ遺跡が数多くある。
 まずチュニス郊外の古代カルタゴ。フェニキア人の都市国家カルタゴを破壊し、塩までまいて地上から抹殺したのは古代ローマ人である。その彼らが100 年後の紀元前29年に、同じ地にローマの植民市を建設した。そこが、経済活動に地の利があることに気づいたからである。
チュニジアは、現在も北アフリカ随一の農業国であるが、当時からブドウをはじめとした農産物の豊かな生産地であったのだろう。2世紀にはつぎつぎと巨大建造物が建てられ、ローマ、アレクサンドリア(エジプト)に続くローマ帝国第3の巨大都市となる。
 アルジェリアとの国境に近いブラレジア遺跡にも、訪問者を驚かす仕掛けがある。
 地上には、公共浴場の門らしい建物がめだつぐらいで何もない。広大なガレキの中の道を奥へと進む。訪れたのは夏。夏枯れの雑草が繁る。その中に丸い白い綿毛をつけたような、一段背の高い植物の群れが点在して美しい。その植物に近づく。綿毛と見間違ったのは、夏眠中のエスカルゴの集団である。市場で食品として売られるカタツムリだ。
 茎から引き離して手にとると、貝殻の入口を和紙のような薄い膜を何層もはって、水分の蒸発を防いで雨期がくるまで眠っている。紀元前からこれら生き物の暮らしは変わっていない。感激したのは、これではなかった。
 この遺跡は、地下都市で有名。ここの住民は、夏は涼しい地下住居に、冬は1階の平屋に移って暮らすという、乾燥と酷暑の対策をしていた。現地のガイドがバケツの水を、地下住居のたたきにまく。白く乾いたタイルが濡れるとモザイクが鮮やかに浮き上がる。イルカと戯れるバッカス神。手には溢れるワインの盃。次に水をまくと、女性の肖像画。理知的な顔と涼しい目に見つめられ、心がときめく。どうやら、地下宮殿の王妃らしいとのこと。地下には噴水もある。ワイン蔵は後にここの支配者となったローマ人が造ったものらしい。
 実は、此処はハンニバル軍の騎兵を努めたヌミディア王国の首都であった。第二回ポエニ戦争後、ある事情でローマ側に寝返って、第三回ポエニ戦争のきっかけをつくった。その後、ローマ帝国の内乱のとき、反カエサル側について滅ぼされ、ローマの属州となるいわく付きの遺跡である。辺鄙なところにあり、観光客に荒らされていないので、風の音さえ昔を偲ばせてくれる。その音にまじって、誰かが笛を吹いていた。記念にゴルフボール大のエスカルゴの殻を、遺跡から持ち帰った。

●ワイン栽培のためのミニ・ローマ都市

 南北に延びるチュニジア国土の中央部にあるのがスベイトラ遺跡。遺跡の中に入るとすぐにオリーブを絞る工場跡がある。此処は、ローマの金持ちたちが、金になるワインとオリーブを収穫するために、紀元後1世紀に、砂漠に近い内陸地にもかかわらず建設したミニ・ローマ都市である。遺跡の側に涸れた川がある。当時はこの川を利用して、船でカルタゴまで収穫物を運んだ。
 古代ローマ人は、帝国を築きあげたころには、浴場で欠かせないオリーブと、食事中のワインがないと生きる価値がないと思う民族になっていたらしい。偶然の一致なのか、ローマ帝国の支配地域が、ブドウの生育限界とほぼ同じであることに、ただただ驚く。
 ワインの消費が増えた結果、ローマの属州でどんどんブトウを植えてワインを作らせ、それを船で運ばせた。そのための衛生都市を建設さえした。
 古代ローマ人は、都市は社会生活のために、地方は自分のためにあると考えていた。そして、都市とは、次に述べる都市の機能をもつ建物がなければ認めなかった。
 都心部に神殿、フォルム(柱廊が囲む回廊形式の中央広場)、バジリカ(裁判が行われる公会堂)があり、それらを囲んで半円劇場、円形闘技場、スタディアム、公衆浴場、娼婦館が点在し、その間を街路と住居と共同の水汲み場が埋めていく。街路の舗装と上下水道の完備はいうまでもない。公共施設を優先した結果、帝国の首都ローマ以外の都市でも緑が極端に少なかった。
 ローマ人は、工学的に応用できるもの以外は興味なかったので、都市づくりには執心した。そのため、征服地に建設する都市がどれも、ミニ・ローマになっている。それらの都市を、山や丘をけずり平坦にした街道のネットワークで結ぶほどの徹底ぶりであった。それが、物流をスムースにし、軍事的威力を十分に発揮できる要となった。
 ローマ人は、芸術分野には興味が薄かったらしく、ギリシア芸術をそっくり模倣して、自分たちのものとした。ギリシアは征服したが、文化はギリシアに征服されたとローマ人の歴史家が自嘲している。呼び名は変わっていても、ローマ神話の神様たちが、ギリシア神話の神々と同じなのは、こういう理由による。
 それでも、ローマ遺跡を訪ね歩く楽しさは、国ごとに大きく異なる気候や地形などの風土の違いを克服して、ミニ・ローマにするために如何に、当時のローマ人たちが土木や建設に工夫しているかを現地で見つけ出すことにある。公共施設だけでなく、娼家の造りや水洗トイレの構造、ワイン蔵など興味深い。
 チュニジアの東海岸沿いのエルジェムに円形闘技場がある。古代ローマ帝国建設の闘技場では3番目に大きく、保存状態はローマのコロセウムよりよい。この遺跡の最上階から闘技場を眺めると、その工夫の素晴らしさが納得できる。
 世界遺産になっているチュニジア最大のローマ遺跡ドゥガは、王宮の食物蔵や酒蔵をぜひ訪ねてほしい。此処の最盛期は紀元後4世紀で、1万人の市民が住んでいた。
 
●古代ローマ市民の一日

 ドゥガ市民はもとより当時の古代ローマ帝国の市民たちは、1日を2分するライフスタイルをしていた。
 朝8時か9時ごろから仕事を始め、午後1時で終了。パンとチーズかソーセージ、夏には冷水、冬は湯で割ったぶどう酒の一杯の昼食をとる。その後2時から開く公衆浴場へ。仕事の後で浴びる一風呂は人生の喜びであった。風呂からでると、付属施設の図書室で読書したり、娯楽室で気の合った仲間と過ごしたり、広大な庭園で散策したりして時間を費やした。その後は帰宅して家族と夕食。独身者などは、5時から開く娼家で夜を過ごす。
 食事は、王制から共和制の時代は、質実剛健をよしとした頃なので、パンとチーズを主にしたもので、ワインは祭りのときにしか飲まなかった。 第一ポエニ戦争で勝って、カルタゴからぶんどったシチリアは小麦の大生産地だったので、そこからの富で国力が豊かになりはじめる。衣食足りて贅沢にふけ、頽廃がはじまる。紀元前二世紀には、ギリシアから伝わってきたディオニュソス(酒神バッカスの本名)信仰が広まり、女性連がワインに酔いしれて、野山を裸同然で酔いしれて乱舞することが流行した。 ボジョレーヌーボーなどに殺到する近年日本の女性主導のワインブームに類似点がなきにしもあらず。
 帝国時代のシーザー(カエサル)のころは、食事は贅沢三昧。宴席の客を迎えるのにワインで手を洗わせることまでした。ポンペイ遺跡からの記録によると、ワイン一杯は金貨一枚の値段であった。その値段は娼婦との一夜の値段と同じであったという。
 帝国になってからは、兵士が糧食として携行する食料品には、甘口から辛口にいたるさまざまな産地のワイン(しかも特製のラベルを貼って)がかならず入っていた。  
 チュニジアの旅行最後の夜、首都チュニスの野外のローカルレストランで、ガイドと運転手を交えたツアー全員で最後の祝杯をあげた。チュニジアはモスレムの国だけど、お酒は飲める。ビールはチュニジア国産の「セルティアビール」、ワインは店主が勧める赤ワイン(ラベル名は記録したものを紛失したため不明)。しぶみがややあり煽情的な香り。カルタゴ人の汗という味わいが口に残った。 最近読んだ書物によると、ローマ人の頽廃の味のあるワインならイタリア産のモスカート、そのなかでも「ブックラム95モスカート」が一番とか。機会があったらお試しあれ。




おすすめホームページ:
santa 旅の絵本