腎不全とつきあいながらB
「移植後の8年間」
移植した腎臓での生活は、血液透析のときとは比べものにならないくらい体が楽でした。疲れを知らないとまではいかないまでも、そう言ってしまいたくなるくらいの違いがあったと思います。ただ、移植した腎臓の入っている所(私の場合は右腹部)を強打しないようにということは医師から言われていました。しかし、体を動かすこと、汗をかくことの気持ちよさを久しぶり(もしかしたら初めてだったかもしれない)に感じ、危険かなと思うようなことも随分やってしまったものでした。
たとえば、高校のときの体育は一応見学をしてレポートを提出するという形をとっていたにもかかわらず、放課後の柔道場の掃除のときにマットを敷き、ジャンケンで負けた奴が一方的にプロレス技を掛けられてしまうという遊びに積極的に参加していたりもしました。ちなみに技の種類はブレンバスター、バックドロップ、パイルドライバー等でした。また、車の免許も高校の在学中に取得することができました。工業高校だったせいか、車の免許を取ることについては一応は禁止されているものの、先生たちも「黙認」という感じでした。というように移植をしたことでいろいろなことを楽しむことができました。
しかし、よいことばかりではなく、薬の副作用などでいろいろな症状が出てきてしまったりもしました。薬は免疫抑制剤といって、移植した腎臓が拒絶反応を起こさないようにするためには不可欠な薬なので、飲まないというわけにはいきませんでした。
私の場合は、ムーンフェイス(顔が丸くなる)、肝機能の障害、緑内障などが具体的な症状として出てきました。
ムーンフェイスに関しては、ただ顔が丸くなるだけなので、直接体がどうこうということはありませんでした。また、肝機能の方は一週間締注射をする治療により、落ちつきました。緑内障に関しては、1日2種類、全部で6回の点眼をし続けなければなりませんでした。薬の副作用という点ではこの締度でした。あとは点眼しながらだろうが、顔がまん丸だろうが、ずっと移植した腎臓が機能し続けてくれさえすれば……と、思っていました。
「『CAPD』※と出会う」
しかし、現実には腎機能の数値はじわじわと悪くなってゆき、移植をして8年を経た19歳の秋に、医師よりまた透析を考えなければならない事実を伝えられました。
この時から、「また、透析か・・・」と、もやもや、ぐずぐず、いらいらの日々が始まってしまいました。
そんな気持ちを引きずりつつ、院内にある医療相談室を訪ねたときに、聞いたことのない言葉に出会いました。
『CAPD』 − 当時、私の担当の医療ソーシャルワーカーがその存在を教えてくれました。どうも血液透析よりも社会生活に向いていて、食べ物や水分の制限も緩いらしいということでした。血液透析に対する印象が悪かった私は「それにする、CAPDってやつにする。」と、その存在を知ったその日のうちに決めていました。しかし、CAPDとやらに少しの明るさを感じることができたとはいえ、透析には違いないし、さわったことも、見たこともない、『CAPD』。不安は尽きませんでした。
少しづつ腎機能が低下していってたということもあり、今すぐ透析をしなければならないというわけではありませんでした。そういう意味では小学校4年生のときになんの知識もないまま、その日のうちに透析をせざるを得なかったときとは違い、いろいろなことを考えたり、見たり聞いたりする時間的余裕はありました。
そんなとき、「CAPDで行こうと思っているなら一度、実際にCAPDで生活している人と会ってみますか」と病院から言われました。何しろ書籍によるほんのすこしの知識しかなかったので二つ返事で「ぜひ」とその人に会わせてもらうことにしました。
当日、腎センター内の1室でその人に会うことができました。ちょうど、CAPDをこれからやるというところで、どういうふうにやるのかも見せてくれると言ってくれました。その人は当時18歳でとても元気よく、具体的に実際の手技を見せてくれながら、大きな声で一回の透析(通常「バッグ交換」と呼んでいる)の一部始終を説明してくれました。
実際にCAPDを目の当たりにすことができたせいか、それともCAPDというものを行いながら元気に過ごしている人を目の当たりにしたせいか、その日の帰り道、私の心の中のもやもや、ぐずぐず、いらいらはどこかに消えていました。
※「CAPD]……連続携行式自己腹膜透析。お腹の管を通して、1日に数回、自分で透析液を出し入れする透析。