新連載 腎不全とつきあいながら@     谷川 俊太郎                 

 

 私は今年平成8年の4月から専従スタッフとして町田ヒューマンネットワークに勤めています。

 平成7年3月にそれまで勤めていた電子部品の製造工場を退職し、1年間の失業期間を経て現在に至っています。

 ところで私の障害は何かというと、慢性腎不全です。現在はCAPD(連続携行式自己腹膜透析)という、お腹から出ている管を通して1日に4回、透析液(2000ml)を入れたり出したりすることによって、普通なら腎臓が行う仕事(血液中の老廃物や余分な水分を尿にして体の外に出す)を行っている状態です。

 

  「学校検尿で引っかかった」

 

 私の腎臓がおかしいのがわかったきっかけは、小学校3年生のときに行われた『学校検尿』というものでした。それまでの私は、学校から帰るや否やバットとグローブを持ち出し、近所の友達と近くの広場でボールが見えなくなるまで遊んでいる、勉強そっちのけの野球少年でした。しかし、今考えると友達たちより随分疲れるのが早かったように思います。再検尿の結果もNG。そして近くの診療所で再度の尿検査と血液検査をしてもらったところ、町田市民病院でもっと詳しい検査をした方がよいだろうと言われ、入院をして詳しい検査を受けました。後に両親に聞いた話では、この頃に「ゆくゆくは『血液透析』が必要になるでしょう」と医者から言われたということです。

 その後、町田市民病院から世田谷にある国立小児病院に紹介され、また検査ばかりの入院を2度して、今度は新宿の東京女子医大に紹介されました。そして、東京女子医大に行ったその日に、当時はまだ見たことも聞いたこともなかった、『血液透析』というものをやることになったのです。シャント(血液透析のための血管の手術)の手術もすぐに行われましたが、血管がちゃんと使えるようになるまでは『腹膜潅流』という透析を行いました。それは、一日置きにお腹のなかに管を入れ、そこから液を入れたり出したりするもので1回につき5時間から6時間をかけて行うものでしたが、治療の始めにお腹に管を入れるとき、これが痛いの痛くないのって……なんと表現すればよいのか、お腹のなかを手さぐりされているような感じとでも言えましょうか。恐さと痛さと気持ち悪さで、管を入れるたびに泣き叫んでいたのを覚えています。

 

  「第1期血液透析を始める」

 

 しかし、2週間締でシャントが使えるようになり、血液透析に本格的に入ってゆくことになりました。その頃から自分でも気持ちが前向きになっていったのは、なんとなく覚えています。いま思うと検査、検査で自分がどうなってゆくのか全然わからない状態のときよりも、透析という具体的な治療が目に見えたということと、「透析が軌道にのったら退院出来るからね」と主治医に言われていたことが、私をそういう気持ちにさせていたと思います。また、ほんのささいな自分の行動で、そのときの自分の気持ちに気づいたように思います。それは、9階にあった私が入院していた部屋から2階の透析室に自分で行くようになったり、「水分は控えなさい」と医師に言われ、それならば普通の缶ジュースは量が多いからだめだけどヤクルトなら少ないからいいかなと思い、1階の売店に買いに行ったときだったと思います。

 その後は大きなトラブルもなく退院し、血液透析をしながらの生活に入って行きました。しばらくは、東京女子医大に通いましたが、なにせ町田から新宿までを1日おきに通うのはきついというのと、学校にもできるだけ行くために町田市内の町谷原病院に透析を受ける場所を移しました。町谷原病院では午後からスタートする透析時間を選ぶことができたので、透析をする日でも午前中は学校に行くことができました。

 透析は午後1時頃から始めていましたが、最初に太い針を2本、腕の血管に刺さないといけませんでした。その針を刺す人が、当時小学校4年生の私にとっては大問題でした。

 「★★先生はいやだ、☆☆看護婦さんがいい、☆☆さんじゃなきゃやだ」などとわがままを言い、よく透析室のスタッフを困らせていました。でもそのわがままにはきちんとした根拠がありました。いまでも鮮明に覚えていますが、★★先生の場合はとても痛いのに(痛いのはあたりまえと言えばあたりまえですが)、☆☆看護婦さんの場合は極端に痛みが弱かったのです。一度なんかは「えっ」と思うほど痛みを感じなかったことがありました。私は自分の腕に針が刺されるのを凝視するタイプでしたので、見ていて確かに刺さっているのに、本当に痛みを感じなかったときはビックリしてしまいましたし、針を刺されるのを1回しないで済んだような得をした気分にもなりました。そして、子ども心にその看護婦さんが針を刺すのを見ていて、「ていねいだなぁ」と思っていました。

 透析に入って2年がたとうかという頃、決まった曜日に来ていた北里大学病院の医師が、最初に私の両親に『生体腎臓移植』の話をし、当然、私にもその話はやって来ました。