祖父 吉五郎 明治元年10月20日生
大正3年 祖父 吉五郎
吉五郎 名刺
明治元年10月20日生まれの吉五郎は自分の誕生日を自慢にしていたと言う。実際に改元の詔書が出され明治になったのが、10月23日だったからである。本店 庄助の元にはまだ多くの祖父の写真があったらしい。(吉五郎は昭和9年3月27日、隠居届けに因り家督を庄助に譲り転居している。)
近年、見知らぬお婆さんが本店を訪ね、自分は吉五郎の娘だと言う。話を聞くと自分の母は離縁された吉五郎の妻だと言う。その時お腹にいたのが彼女で、死ぬ間際に父親を知りたいと訪ねて来たのだ。家族は彼女を不憫に思い、吉五郎の写真をすべてあげてしまったと言う。
彼女はとても喜び、写真はその葬儀の際、一緒にお棺に入れられたと聞く。
現存する写真の一部は吉治によるその複製である。
離縁の理由は姑との不仲であった。吉五郎は養子であり、養母 浅代は気の強い女性であったと言う。(養父 庄右衛門は明治31年10月25日死去)
私の祖母 コウは彼の四番目の妻であり、吉治はその長男である。
さて、私の推測ではあるが、この祖父の写真は、祖母コウが受け取った彼のお見合い写真であった可能性が高い。写真の持ち主はコウである。婚姻届けが大正3年12月24日であることから、撮影時期は大正3年と推察できる。この時、吉五郎48歳、コウ30歳。コウには、亡き前夫(入夫 橋本 六太朗 大正2年12月死去)との間に二人の子供がいた。千代子(四歳)、健之助(二歳)、である。千代子は吉五郎の養女となり、健之助は橋本家を継ぎ、遠縁の乳母につれられて浅草山之宿に貸家し移り住んだ。(川原衛門 著「追跡 安藤昌益」より抜粋)
後年、橋本健之助は浅草で「占いの魚舟」と呼ばれる有名な易者となり、私達五人兄弟の名付け親ともなっている。余談ではあるが、我家に伝わる碁盤は健之助の形見である。
さて、私が江戸川区役所小松川支所にて、一時間以上粘ってやっと出してもらった故 吉五郎の戸籍謄本には謎が多い。伯母 松子は六女であり、末叔父 英夫は七男である。祖母 コウは吉五郎との間に四男一女をもうけているが、その間が抜けていた。本妻 カネの長男が庄助であり、長女は故 倉前ガツである。過去帳に因ると、カネは明治40年11月21日に亡くなっている。また、後妻 マサ(三番目)が大正3年5月24日に亡くなっており、男の子二人・女の子一人が、大正5年6月6日、同10月15日、昭和4年1月19日に続けて亡くなっていた。吉五郎が再婚を急いだ理由もここにあったらしい。当時、幼い子供が3人いたようである。前述の二番目の妻(名前は不明)には、もう一人女の子がいたとされる(前述のお婆さんの姉)。はて、女の子が一人足りない。その謎を解いてくれたのが、川原衛門著「追跡 安藤昌益」である。五女 「久子」 大正4年8月生まれ。久子は生まれてすぐ、コウの母方「もと」の叔母「てつ」の長男夫婦(大沢幸吉)に子供がいないため養女として貰われている。コウはこの子が可愛く、度々鈴木家に連れ帰ったと語られている。
このように、祖父 吉五郎は七男六女をもうけたのである。
口伝、鈴木秀子さん。亡義母 スイさん(庄助 妻)からの聞き伝えによる。
母 きみ子 大正14年1月4日生
昭和19年 母 きみ子
父 吉治の遺品の中からこぼれ落ちた小さな写真。縦 89ミリ、横 57ミリ。初めて見るその写真は、酷く傷んではいたが、デジタルによる修復を躊躇させた。この写真には父の歴史が刻まれていた。傷は直せても、歴史に手を加えてはならない。これも推測ではあるが、戦地からの手紙に「写真を送って下さい。」と言う記述もある事から、これは戦地に送られた写真ではないか。そして、肌身に付けて戦争をくぐり抜けた写真ではないか。傷んでいるのはそのためであろう。復員が 昭和21年6月、婚姻届けは昭和23年9月3日であるが、同年10月8日に兄が誕生している事から、また足入れ婚の風習もあり、実際の婚礼は昭和22年である。その間この写真は、父の支えとなったに違いない。さらに推測すれば、父の部隊は「昭和18年12月7日品川駅より鉄路にて行軍開始、翌昭和19年4月12日パプアニューギニアに向け上海を出航。」とある事から、上海出航以前に大陸へ送られた公算が高い。
写真の撮影時期は、振り袖を着ている事からしても、昭和19年、母 きみ子 成人式の1月である。
戦地記録は、歩兵第二百十一聯隊 住所録「楓舎」による。
鈴木洋品店と東京大空襲 昭和20年3月10日焼失
昭和9年12月平井
この写真は戦後になってから、父 吉治によってなされた複製であり、オリジナルは不明である。前述の吉五郎の隠居届けに先立ち、昭和9年3月10日、吉治の分家届けが出されている。この時、吉治がまだ若かったため、吉五郎による後見開始届けも同日出されている。そして現住所 平井三丁目への転籍届けが昭和9年5月30日に出されている事から、平井支店の開店は昭和9年5月のはずである。ところが、伯母 松子の証言によると、一家は一時平井の別の場所に移り住んでいる。そして、施工した工務店による建物完成の記念写真のようであるこの写真には、「歳末大売出し」の文字が見える。鈴木洋品店 平井支店は、昭和9年5月着工、同12月頃完成と推察できる。その建築資金は、コウが遺産相続により得たようである。銀座の三井銀行へ度々通う様子が、叔父 英夫によって語られている。昭和9年12月、父 吉治16歳の冬、平井 鈴木洋品店は開店した。
しかし、昭和20年3月10日東京大空襲により、鈴木洋品店は本店・支店共に焼失する。
当時、家族は千葉県土気町に疎開していた。伯母 松子の夫 故花澤忠一郎の生家が土気町にあったからである。この日、平井で留守番をしていたのは、叔父 慊三朗ただ一人であった。駅周辺の家屋は、延焼を防ぐため取り壊しを受けていたが、店とそこから反対側はかろうじて破壊を免れていた。そこへB29 の来襲である。街は焼夷弾爆撃により大火災を起こし、叔父 慊三朗は燃え盛る炎の中を逃げ惑い、未曾有の大量虐殺を生き延びた。米国は一夜にして十万人以上の命を奪ったのである。
(叔父 故慊三朗 談)
同年12月14日、吉五郎は土気町において胃ガンのため亡くなっている。荷台に棺桶と燃やすための薪を積み、長い道のり火葬場までリヤカーを押して行ったと言う。(叔父 慊三朗談)
その時、吉治は南方、叔父 英夫はシベリヤにいた。
翌年6月、祖母 コウは復員した吉治と疎開先 土気町にて再会。コウは吉治にしがみつき、その場に泣き崩れ慟哭したと言う。(伯母 松子談)
大陸からの便り 語り部のいない300の写真
父 吉治。昭和16年11月12日
父 吉治。昭和16年7月22日 検閲印
このアルバムは、戦後になってから整理され作り直されたものである。写真の数およそ300枚。裏書きされたものや、中には検閲印の押されたものも多い事から、頻繁に内地との手紙のやり取りが行われ、無事を知らせる便りとして写真が使われていたようである。私には、その写真をアルバムに整理している祖母の姿が眼に浮かぶのである。小さい頃、父の引き出しから度々持ち出しては見ていたので、アルバムがあるのは知っていたが、詳細については全く聞かされていない。父が自ら写真を見せてくれた事は一度としてなく、隠しているようでさえあった。考えてみれば日本軍は侵略者であり、子供に話す内容ではなかったのだろう。父の部隊 第32師団 第211聯隊は、昭和14年2月に中国での占領地の警備・治安維持のため編成され、同年5月より華北の山東省で治安作戦に従事していたが、戦線穴埋めのため昭和19年4月、第14軍に編入され北濠に進出した。アルバムは昭和17年までの華北での4年間の写真が中心となっている。人によっては辛い記憶であり、中国の人が見たらどう思うかを考えると公開にためらいもあるが、貴重な記録写真である事に変わりはない。父は昭和17年11月満期除隊するが、翌18年12月再び同部隊に応召され南方戦線へ送られている。それ以後の写真は1枚としてない。
祖母 コウ 明治17年3月24日生
昭和22年 祖母 コウ
安藤昌益発見の元となった秘書「自然真営道」全101巻を代々秘蔵していた事で知られる橋本律蔵はコウの祖父である。生家の住所は南足立郡千住町大字中組九十八番地。若い頃の祖母 コウは行儀見習いのため三井家に通っていたと言う。8歳の時、母 もとは離縁。そして僅か11歳にして父 知宣も病死。自身も夫の病死により2歳の長男 健之助を残し鈴木家に嫁いでいる。(健之助には子供がいなかったため橋本家は断絶している。)
この遺影は叔父 慊三朗から私に託されたものであるが、元写真は父 吉治の婚礼に於ける親族集合写真であった。子供達も戦地から生きて帰り、その吉治の結婚式である。安堵した落ち着いた表情を浮かべている。同年 昭和22年10月29日、疎開先土気町に於いて静かに息を引き取った。享年64歳。













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