人間の本性と四季の神秘

ルドルフ・シュタイナー

1922年12月24日 ドルナッハ

現代にふさわしい様式で私たちの思念を深めたいなら、昨日指示したやりかたで、言い換えると、人間の霊的指導から今日の人間の課題が何であるのかを認識するために人間進化の過程をふり返って見るのが一番良いでしょう。もちろん、見逃してはならないのが、クリスマスの思念の最も重要な部分は、始まったばかりの夜にキリストの光が人間性の進化に射し込んだことです。この出来事によって、ゴルゴタの秘儀が地球の生に統合されることによって、地上の人間の生に、それとともに地球そのものにも、意味が与えられたのです。

昨日ゴルゴタの秘儀以前には夏至に秘儀で祝われた祭りがどれほど重要な役割を果たしていたかをお話ししました。夏至の時に、人びとは地球と共に、自らの存在を宇宙へと開き、魂と共に地球の彼方の諸圏に帰属する力たちと結合することができました。ある民族の間では秘儀の指導者たちが、夏至に、私たちの聖ヨハネの日に、人間の魂が神的霊的諸世界にみちびかれうる道に従って、感情に浸透された思念の世界を神的霊的勢力たちに捧げる様子が話されました。彼らがそうしたのは、一年の行路で自らを現すものは何であれ、夏至に、地球が宇宙のひろがりに翼をおおきく広げるときに、こうした思念が神的霊的存在達たちによって賦与された恩寵であると感じない限り、ルシファー勢力の誘惑にさらされると気づいていたからです。

私はさらに、人類の一部にとって冬至の祭りがごく自然に夏至の祭りに取って代わるという進化過程が生じるさまを、示しました。現在のつまらないクリスマスの思念にすら、この冬至の祭りの名残があります。冬至の夜の救い主の誕生は宗教的共同体か、自らの心の静けさを感じる人間たちによって、祝われます。なぜならば彼らは、霊の光への道を再び見いださねばならないと感じていて、一年のこの時期に、おのれの奥底に降りていくとき自分が地球とその生にきわめて似ていることを意識するからです。というのも、地球もまた、宇宙から閉ざされているからです。雪の衣に包まれて、地球は宇宙空間で自らに内攻する存在として生きています。

ところが、クリスマスの思念は主に夏至の祭りを祝っている時代にすでに、ある役目を果たしていました。しかし、キリスト教以前の時代にはクリスマスの思念の意味は現在の意味と同じではありませんでした。当時高貴な太陽霊はまだ宇宙に帰属していて、地球に降りてきていなかったのです。地球と共に人間が宇宙で孤立していると感じたとき、夏至の時の人間の魂の状況の総体は現在とは異なっていました。そしてゴルゴタの秘儀ずっと以前に主に南で祝われた秘儀に注視をおくるなら、この状況がどんなものだったかを私たちは分かるようになります。それらの秘儀への参入は、当時の秘儀参入の科学は、参入者に古いやり方で授けられました。また古代の民族の中で、この秘儀参入の科学は参入者が世界の書を読めるようになることにありました。紙に書かれた死んだ文字が伝えるものを意味するのではありません。宇宙の存在たち自身が伝えるものを指しているのです。宇宙の秘密を洞察するものは、地球上で成長し繁茂するものすべてが徹頭徹尾、宇宙の広がりの星々から輝き降りてくるものの映像であると知っています。

この宇宙的な読解を習得する者は、現代の私たちが死んだ文字によってはるかに単純な読解を習得するように、植物のひとつひとつに宇宙の秘密の一端が明かされたしるしを見なければならないと知っています。植物や動物の世界に探究のまなざしを向けるとき、この探究がそれ自体で読解であることを知っています。このようにして古代の秘儀参入者はその弟子に読み聞かせたのでした。彼らは弟子に本を読んだのではなく、いわば歳神の霊感の下で一年の行路の秘密について、人間の生におけるその意義について、経験したことを伝えたのでした。このように古代の叡智は世界の存在たちと出来事において人間の生に関わるものを読み解いたのでした。いにしえの賢者がそうしたことを弟子に伝えたとき、彼らは歳神のような神的霊的存在たちに霊感を授けられたのでした。

誰が、ヒエラルヒアにおいて原初の力、アルカイの位階に帰属するこの歳神だったのでしょう。彼は、秘儀参入の科学に通暁したものが心を高め近づいた存在でした。そうするときに、春に芽吹く植物からはあることを、初夏にみのる果実からは別のことを、秋に紅葉し果実が熟すとき別のことを、木々が雪片の下で輝き、大地がその岩石もろともに雪のヴェールで覆われるときまた別のことを、読み解くことを可能にする力と内的光を歳神によって賦与されたのでした。この「読書」は春夏秋冬、丸一年続き、そこには人間という存在そのものの秘密が師弟の間で明かされたのでした。そしてまた新たな循環が始まりました。

歳神の霊感の下でこうした古代の秘儀参入者が弟子に教えたことは次のように伝えることができるでしょう。最初に、弟子たちの注視は春に明かされるものに引かれました。雪が溶け太陽が力を増してきた時です。植物の最初の芽が地球のよみがえった諸力から現れてきています。弟子は、草原に生える植物と森の木陰に生える植物が宇宙の秘密について別のことを話すさまに気づかされます。弟子はさまざまな植物において太陽の熱と光が円い葉やギザギザの葉となって宇宙の広がりから別の話し方をすると自覚させられました。

そしてこのように歳神の影響と霊感の下で明かされることを通して、大地そのものから芽吹く文字によって、秘儀の師は弟子たちに、当時の様式で、人間の肉体の秘密のヴェールを取り去ったのでした。

師は大地の何が物理的なものを生み出すのか、指し示しました。植物に飛び込む大地の諸力を指し示しました。弟子の注視が差し向けられる大地のいたるところに、違う「文字」がありました。これらの文字はー生きた植物存在であり、生きた動物形態なのですがー今日の私たちが個々の文字を組み合わせて言葉にするように、組み合わせられました。このように春の生に参与するときに、人間は自然のなかで読んだのでした。歳神の賦与する秘儀参入はこの読みにありました。また春の終わりが五月の頃に来ると、人間はこんな印象を抱きました。今私は人間の肉体がどのように形作られ、宇宙の子宮からかたどられるのかを理解する。

それから夏が来ました。偉大な宇宙のロゴスの同じ文字と言葉が使われましたが、この文字が形を変えるさまが弟子に指摘されました。今や太陽の光線は流れ方を変え、その光と熱は作用を変えて、人間の肉体の秘密を語った新芽は太陽に自らを開いて花となっています。これらの彩りさまざまな花が今や弟子の使う文字でした。花の一つひとつが、太陽の光線が大地から上昇する植物諸力に愛しいくちづけをするさまを弟子に感じさせました。花咲く植物となって大地の諸力の上方で織りなす宇宙的諸力のすばらしく繊細で優しい過程に、弟子は大地が宇宙の広がりの中へと出ていこうとするさまを読みとりました。大地が自らを宇宙へと、遠い星々へと開くとき弟子たちも大地と一体となって生きました。無限の彼方で大地そのものと共に生きました。

この無限の彼方に隠されていたものは、花咲く植物である文字たちを眺めるとき、人間に自らを現しました。ひとはこれらの文字から、霊界から地上の物質存在へと降下するとき、自らのエーテル体を形成するために諸天のあらゆる方向からエーテル実質を集めるさまを読みとったのでした。このように人間は地球と宇宙の間でやがて再び宇宙的言葉となって生じることすべてから、このエーテル体に収められた秘密を読みとることができたのでした。宇宙的言葉のしるしは、それが夏至の時に植物を開花させて動物に特定の生命形態を与えることによって、まさに地表に刻み込まれているのです。

秋が近づくと弟子は宇宙的言葉の文字が再び変化していくさまを目にしました。この頃太陽の熱と光は退いていき、植物は夏の間に太陽そのものが大地に伝えたものに頼らざるをえなくなります。その代わりに、植物は夏の間に受け取った花咲く生命を吐き出しますが、それと同時に、植物が内側に種子諸力を担っている限りは、その子宮内部に植物の生命の周期を完了させる熟した果実を発達させます。人間の方は実る植物に大地そのものの表面に宇宙的言葉が刻んだもののヴェールを取り去ります。そして秋に動物の生命が採る形態が明かしうるものの謎を解明しました。秋が近づく頃に鳥の渡りに、下等動物と昆虫に生じる変化のすべてに、宇宙の最も深い秘密を読みとりました。昆虫世界が大地に避難所を求めて、それが被る形態の変化に、死の沈黙に直面して大地が自らに収縮し引きこもるさまに、それらを読みとりました。人間は、宇宙で大地が思いに沈むさまを読みとりました。

このことは、9月の後半に祝われた祭りに非常に明確に表出されていて、今でも、ミカエル祭の姿で田舎に名残をとどめています。こうした祭りによって人々は宇宙へとでていく大地の道のすべてが閉ざされたとき、自らを物理ーエーテル世界の出来事と関連していない何かと結合しなければならないと想い出しました。彼らは魂を宇宙の霊的内実に向けなければならなかったのです。色褪せてしまったミカエル祭にすら、星々と太陽の外的な指導が力を失ったときに霊的に導くあのヒエラルヒアの霊に向かう人間性の追憶が今でも残っています。

人々がこのように読みとるすべてによってー観想でもある読みによってー人間のアストラル体の秘密に浸透されました。秋は、歳神によって参入し霊感を与えられた人々が自然の存在から人間のアストラル性質の秘密を読みとり、それらを歳神と共に観想した季節でした。

まさにこの秋の季節に、秘儀参入者が弟子にこう告げました。太陽のかんばせの前に立つ存在につかまれ! ミカエルという名で指示される、太陽のかんばせの前に立つ、この存在のことを考えてください。というのも、あなたが超感覚的世界に入る死の門をくぐらなければならないとき、大地の実存からあなたのアストラル存在に残っているものを再び通過しなければならないときに、その力を必要とするでしょうから。人間のアストラル体の秘密はこのように、実る植物に、また枯れる植物に、地中にもぐりこむ昆虫に、ロゴスとして、「言葉」として自らを明かすものから引き出されたのでした。真の人間性を自らの存在のこの部分に求めたいなら、まなざしを霊界に向けなければならないと人々はすでに知っていました。まさにこの理由のために、秘儀参入の候補者である人々の魂は、ミカーエルの名の下に祝うことが出来るあの存在に向けられたのでした。

しかしそれから、現在のクリスマスが中間にある季節が来ました。この季節は、歳神によって霊感を授けられ参入した人々が弟子に、水が雪片の芸術的な形態となって大地を覆うとき啓示される神秘を指摘するときでした。秋にすでに思索と観想になっていた読みは、今や内的生命になりました。これまでの季節では、外的物理的活動と平行していた、魂の観察だったものが、今や内的霊的活動になりました。読解は神秘的な深化になりました。自らの「私」なる存在の最も深い本質を包括理解できるのは、宇宙的言葉によって、宇宙的ロゴスによって、大地が雪のマントルに包まれたときに、大地の周辺と大地の上の生命が寒さによって収縮されたときに、自然に生じるあらゆるものに投影された秘密に傾聴するときだけだと人々は知っていました。歳神によって参入し霊感を与えられた人々にとって、歳神の書き物を冬の季節に与えられた指示から理解できるようになることが責務でした。大地の中に置かれた種子で、また大地の収縮諸力の内部で冬眠する昆虫の生で、活動する過程を追跡できるように観察力をとぎすませました。人間のまなざしは物理的光から物理的闇に導かれました。

ある秘儀で弟子はこう聞きました。今おまえは真夜中の太陽を眺めなければならない! おまえは大地「を通して」太陽を眺めなければならない。魂の眼が大地の中まで植物と下等動物を追いかけることができる力で浸透するなら、そのとき大地そのものがおまえの最奥の魂に透明になるだろう。宇宙に比べて、大地の諸力がもっとも収縮するときこそ、人間は大地「を通して」太陽を真夜中の太陽として眺めることができるようになるのです。そのとき地球が内的に霊化されるからです。それに対して、夏至に地球から宇宙へとまなざしを向けるとき彼らは肉体の眼で太陽を眺めます。深い冬の夜の真夜中時に太陽を眺めることは、歳神の秘儀参入者の弟子が学ぶべきことなのでした。そして秘儀の忠実な信奉者だが、自分は秘儀参入者になれなかった、あるいは秘儀の実際の弟子になれなかった人々に、真夜中の太陽が彼らに明かした秘密を伝えることが彼らの義務でした。

そしてますます次のような事態が古代に生じるようになりました。秘儀参入者が冬の深みに真夜中の太陽を指し示すとき、彼らはある意味で、弟子たちに地上の人間が自らの「私」が捨てられ見捨てられたと感じることを知らさざるをえませんでした。最も偉大な知識を保持する人々にとって、冬至の祭りは、地上の実存の中で自らの私に至る道を見つけることはできないという痛みと苦悩の祭りにますますなっていきました。彼らは、冬至にロゴスによって大地に書かれたしるしに読みとれるものから、彼らがその自我もろともに宇宙に捨てられたさまを学ぶべきなのです。というのも、彼らが感知したのは「大地」だけでした。「私」がもっとも渇望したもの、太陽の力は大地に覆われていたからです。太陽は実際、真夜中時に現れましたが、人間は太陽存在に近づく力が弱まるのを感じました。しかしながら、それと同時に、人間の私が宇宙で捨てられたと覚ることは、太陽存在が地球に来る、進化の行路で人間の存在に浸透するだろう、宇宙での孤立ゆえに苦しむ人間性を癒すために現れるだろうという予言的な指示でもありました。

これはすでに、痛みと苦悩の冬の祭りが南の民族の間で地上にキリストが出現する内的喜びの祭りに変わったという人間の進化の事実を指し示しています。そして太陽存在として啓示されたものが宇宙から地上存在に降下したことは、その出来事を象徴で告知した人々によって示されました。彼らは、古代の苦悩の祭りは今や歓喜の祭りに変容したというメッセージが地上のすべての人に発されたことを示しました。羊飼いの心の最も深いところで、言葉が鳴り響きました。「神性は宇宙の高みに自らを啓示し、平和は善意の人間に地上で生まれるだろう」そのように羊飼いの素朴な心に告知されました。

もうひとつの極で、宇宙的霊性の地球物質への入場のメッセージは魔術的知識にもっとも深く浸透されていた人々に、古代の星の叡智の残存する名残からやって来ることができました。

今日、クリスマスの神秘について語るとき、私たちはそれによって経験されるすべてを古代の苦悩の祭りを背景にして考えなければなりません。私たちは、人間の進化の行路に、人間が彼を重圧で押しひさぎ、大地に隷属させるすべてから自由になるように闘う力が入ったさまを思い浮かべなければなりません。私たちは次のように自分に言えるようにクリスマスの思念を定式化できなければなりません。冬の深みに地球が宇宙から退き、自己観想の時に入ると、昔の秘儀参入者に啓示した歳神の霊感は今でも真実である。人間は、人間の私の秘密が一年のこの秘密と関連していることを今でも理解できる。しかし、キリスト・イエスが地球の人間の生に入る映像に囲まれると、彼らは人間的な洞察から、識別をもたらす感情から、心の叡智から、聖夜の思念をあらゆる深みにおいて経験できるようになります。

しかしあらゆる時代に姿を現すキリストを追いかける意志をほんとうに持ったときにのみ、聖夜の思念を真に経験できるでしょう。古代の秘儀参入の科学の秘儀参入者の課題は、一年の行路から人間性の神秘のヴェールを取り去ることでした。私たちは年が何を啓示するかを理解できなければなりませんが、「人間の内的性質」を見入る眼をも持つことができなければなりません。そうするとき、人智学的霊科学は私たちに、心臓と肺に、脳に、人間有機体のあらゆる部分に書かれた文字が宇宙の秘密をどのように明かすかを示します。それは、かつての秘密が、歳神の霊感を受けたものによって、芽吹く植物に、動物に、彼らの地上での生き方に、ロゴスの文字となって読み解かれたのと同様です。私たちは人間の内的存在をのぞき込むことができなければなりません。人間の内的存在は文書にならなければなりません。そこから私たちは人間の進化の行路を読みとるのです。そのとき私たちはその進化の意味と目的に献身しなければなりません。そして内的ヴィジョンによって霊的諸力として人間性の進化に織り込み流れることを望むものと一体にならなければなりません。この進化は永遠に前進しているので、私たちはゴルゴタの秘儀と聖夜の秘儀を各時代に新たに経験しなければなりません。私たちはクリスマスの夜にベツレヘムで生まれる体を自ら求めた霊性が語ったことを十分に経験しなければなりません。「見よ、私はいつでもお前と共にいる、地球の日の終わりまで。」そのとき私たちは人間の存在をとおしてロゴスがたえず啓示されるのを聴く霊的な耳をも持たなければなりません。かつて人間が歳神の霊感に耳を傾けることができるようになったように、人間は人間性のこの神、キリストご自身の霊感に耳を傾けることができるようにならなければなりません。

そのとき人間はキリスト・イエスの地上の霊的漂泊に関して聖書で伝えられたものの観想だけに限らず、キリストがそれ以来地上の生にある人間と一体化していて、聴こうとする耳をもつ人々にたえず自らをあらわしていることを理解するでしょう。現代の人間は、かつてクリスマスの祭りが秋のミカエル祭に続いたように、19世紀の3分の2が終わった秋に始まったミカエルの啓示の次に聖なるクリスマスの祭りが来るべきであることを理解できるようになるでしょう。それによって人間は地上の道のりに必要な霊の誕生を理解するようになるでしょう。そうすれば、霊化された地球は結局未来の存在形態と状況に移行できるでしょう。私たちは、年間行事のミカエル祭の後に年間行事のクリスマスの祭りがただあるべきではなく、自分の人間性から魂の深みで19世紀の3分の2が終わった時期のミカエルの啓示を理解し、それから真にクリスマスの祭りにいたる道を、言い換えると、知ろうと努めているまさに霊性に浸透される道を求めるべき時代に生きているのです。

そうするとき私たちは福音書の言葉「私はおまえたちに言いたいことがたくさんあるが、おまえたちは今それに耐えられない」を理解するでしょう。人間性は今、キリストが述べることをもっともっと耐えられる組成になっています。人間は進化を阻みたい、ゴルゴタの秘儀に関して乾いた文字でかつて記されたことだけを指し示し、時代を超えて人間に生きた姿で自らを現すあの秘儀の力を望まないものに耳を傾けるだけではいけません。現代は、世界の春に静止することを望む人々に耳を傾ける時でもありません。世界の春は外的物質的自然をもっとも輝かしい栄光で啓示していますが、霊性を啓示することができません。現代は、ミカエル祭から冬至の祭りへの道を見いださなければならない時です。ところが、この冬至の祭りは「霊性の日の出」を含んでいるべきなのです。人間と地球の進化で、私たちが外的生に、外的文明に、外的文化に今日光があるという錯覚に身を任せるなら、この道を見いだすことは決してないでしょう。そういうところには闇があることを悟らなければなりません。しかしこの闇に、私たちはキリストがイエスを通じて世界にもたらすことを意志した光を求めなければなりません。

羊飼いと東方の三王がクリスマスの夜に飼い葉桶への道を求めたのと同じ献身で私たちが求めるなら、同じ献身でまだぼやけているが、ますます明確になってくるであろう文字で人間の存在に読める足跡をたどるなら、そのとき、聖夜のキリストの神秘を新たに祝うことが私たちにゆるされることでしょう。しかし、それはもし私たちが「闇」に光を求める意志を持つならば、そのときにのみ生じるでしょう。

今日「科学」の名で、世界を明らかにせず、光をもたらす代わりに闇と不明瞭をかもしだすものをしばしば呼びます。(「明らかにする」という言葉は「光の明るさ」から来ているのです)。こうした闇は光を理解しなければなりません!

心の感情の深みで、また意志の最強の力で闇に霊の光を見いだそうとするなら、そのときその光は、偉大なクリスマスの夜に羊飼いと三王にイエスの誕生を告知した星がそうしたように、輝くことでしょう。

私たちはクリスマスの思念を人間の歴史的進化に収めることができるようにならねばなりません。新しいメシアを、新しいキリストを待つ必要はありません。自然を通して人間に多くが啓示されてきましたが、この数世紀でそれは私たちを物質の闇の中へと導いてきました。私たちは生き続けるキリスト・イエスの生きた理解によって今人間に啓示できることを待たなければなりません。

このように、私たちはクリスマスの思念を、伝統的な年中行事に固定せず、ベツレヘムの星がそうしたように私たちの道を照らし出してくれるように、流動的にしなければなりません。

私がこのクリスマスイヴにお話ししたかったのは、この光、この輝く星についてでした。皆さんが人智学的霊科学によって、純粋ですが弱々しく、霊感を授けられた意志を、聖夜に人類すべてにまさしく真実にもっとも確実に照り輝く星を追いかけるあのもうひとつの意志と結合させることを確かにすることをしたいと私は望んだのでした。

深いそして親密な静寂のうちでこの光に浸ることは、現代にとって最も深いそして最も真実のクリスマスの奉献です。他のすべては、実は、この真実のクリスマスの感情の外的しるしにすぎないものであるはずです。この思いを私たちはこのクリスマスイヴから明日のクリスマスの朝まで担うことができます。そのときこの聖夜は私たちにとって、単なる象徴でなく、生きた力になりうる象徴であることができます。私たちはまた、どれほど深く、あらゆる真実の人間において、未来へと導いてくれる、そしてそれと同時に、真のクリスマスの精励、世界史的クリスマスの夜にベツレヘムに生まれる体に受肉することを意志したあの霊性への精励である、霊的努力と結びつくべくように心を砕くことになるでしょう。

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