

ピーター・コーツはニュージーランドのテレビ・プロデューサー。ジェイムズ・グリーグのドキュメンタリー「生命の火花」を完成した。その経緯を記した手記である。
ジェイムズ・グリーグはこう書いている。
「私にとって、土は「生命の火花」を持っている。 土を火にかけると、液体の要素が追い出され、固定化された形のうちに土が死んでいき、二度と可塑的になることができなくなる、そんな熱のレベルがある。 ともあれ、その土は、美しければ、生命の似姿を伝え、私たちの「生気」を目覚めさせ、そして健康な全体性への力となることができる。」
私は生前ジム・グリーグとの付き合いは長くはなかった。多分、10カ月ほどだった。だが私は昔から彼の仕事に深く共鳴してきた。ジムの人とその芸術について私が制作するドキュメンタリーに協力してもらえるか、依頼すべく、マタラワへ向かってワイララパの道を運転したことを今でも思い出す。電話でおしゃべりするより、何より、目と目で話さねばならない。貴重な多くの時間をさいて面倒を聞いてもらうように、芸術家に頼むには、そうするのが一番なのだ。
1985年の11月だった。彼の陶芸はいつも私の賛嘆の的だった。その形態は独創的で、ニュージーランドの大地の姿とその植物形態の活発な成長が反映されていた。他のニュージーランドの陶芸家の追随を許さぬものがあった。多くの者が伝統的な形態と装飾を依然として踏襲していた。そんなものは1960年代に、ジムは卒業していた。当時この私もロンドンのイーリング・ポリテクニックの夜のクラスで陶芸に夢中になっていた。陶芸家になろうとは思わなかったが、そのお陰で私はどんな技術が必要かを鑑賞する目を開いたのだった。そして私の陶器収集熱に火を付けた。
ジムは黙って私の申し出に耳を傾けた。長期計画の番組で、ドキュメンタリーに含まれる素材の実際の決定権が自分にもあることになると聞いて初めて、ジムは同意した。それはちょうど私には幸運とも思える時期だった。彼は1986年3月ウェリントン・シティ・ギャラリーでの展覧会と、その年の後半の京都、東京、大阪での三つの展覧会の作品の準備に追われていた。これだけの仕事が差し当たりあれば、制作風景を映像に収めるには十分であろう。彼の作品の背景にある哲学的理念の精華を聞き出し記録するにも十分であろう。
ジムは、ひと中で目立つたちの人物ではなかった。きゃしゃでどこか青ざめた風貌だったが芯は強かった。体が「僕はおとなしく恥ずかしがりなんです。」と言ってるとしたら、その目は情熱と火とユーモアの閃きを宿していた。施設で孤独に過ごした若き日々のお陰で彼はファンタジーと集中力と内面化する力を授かったのだ。どれも皆独自の芸術哲学を築き上げるのに大切な能力だった。
彼は日本でカメラを廻すことにとても熱心だった。とても熱心だった? 正確には、言い張った、と言うのが正しい。彼は、日本人が自分の作品を認めてくれただけではなく、陶芸を芸術形式として地位を認めてくれていると、肌で感じていた。一方私のほうは、テレビ界の上層部に、芸術というものはニュースやスポーツや「カントリーカレンダー」に劣らず重要なもので、時に必要なら海外取材する価値があると、説くのはどんなに難しいか、承知していた。
ニュージーランドでは陶芸家はろくろで作るものだと思われているが、ジムの多くの作品は板状の陶土から作られるか、その手で造形され形を整えられるのだった。四つの展覧会の作品を完成するのにジムにのしかかったプレッシャーは相当なものだった。それ以前に彼は、集中できない、うまく仕事ができないと感じていた。このため食物アレルギーになってしまった。ジムは海上雅臣氏に宛てた手紙で、それは「多分新しい発展段階を準備する内的闘争だったのです」と書いている。しかし、手紙を書いた頃には既にジムは自分が問題を解決し新たな強さと洞察を生み出したと自信を持っている。
ジムの陶芸について一つだけ言っておこう。彼は結果にすっかり満足することは一度もなかった。その結果、彼の作品は一度も停滞しなかった。「私の作品は変容[変態]の大きなサイクルを描いているように見える。個々の作品が自己完結しているというよりはむしろ、私の生涯を賭けた創造が一個の作品となるだろう。」大きなエンブレムの形姿は、作品にふさわしい理想のサイズを見いだす試みが自ずと発展したものだった。その実現のため、彼は自分の建築技術の総てを注いで、建築技法を編み出し、大きな作品を焼く窯を建てねばならなかったのだ。ジムは元来オークランド大学の建築科で学んだのだ。私は今でも彼が土で創造した形態の幾つかを見ると、彼が陶芸に転身しないで建築家の仕事を選んでいたならどんなものを作っていたか、考えずにはおれない。多くのニュージーランド建築の根底にある理念の貧困さを見るにつけ、その思いは募る。
予定された展覧会を本決まりにするために1986年5月にジムが日本に行く前に、私は彼が形態を生み出し、焼き入れし、釉薬をかけるシークェンスを撮影した。ウェリントン・シティ・ギャラリーでの展覧会の模様も少し撮影した。インタビューのセッションを一回取ったが、年の暮れにもっと取る計画だった。私は翌年ジムと一緒に日本に行って、フィルムの総仕上げとなる素材を撮影出来ると、その時は思っていた。そこで途切れたのだ。ジムは京都たち吉ギャラリーでの個展の準備で9月に再び日本に行った。私に宛てた最後の手紙はこう終わっている。「敬具、元気でね。」・・・私がもらった手紙で健康に触れたのは、これだけだった。
ジムは個展開催直前に京都で死んだ。小さな旅館の一室だった。強度の心臓発作だった。個展を組織しジムと最後の時を共に過ごした伊藤哲氏によると、前兆は全くなかった。記念すべき個展を目前に控えた気持ちの高ぶりが恐らく、徐々に亢進しつつあった発作を増幅したのだろう。
葬儀は京都でおこなわれた。ジムの畏友、陶芸家藤原雄氏の慟哭の声は京都の山の頂にまでこだました。そうやって古来から日本人は死者を哀悼してきたのだった。遺骨は飛行機でニュージーランドに戻り、追悼式が爽やかな日差しのマタラワの自宅の庭で行われた。半円の環をなす、まるでストーンヘンジのような、エンブレムの列柱はその生をわかち持った感謝の言葉を捧げるジムの愛妻ロンダを取り巻いていた。それは勇敢な、心にしみる行為だった。愛と信頼に満ちた、ジムとロンダの関係を象徴していた。二人とも芸術家だが、お互いの創造力をくじくようなことは決してなかった。
追悼式の後で私はドキュメンタリーをどうすべきかロンダに聞いた。「ジムの望んだようにあなたが仕上げて欲しい」と彼女は熱を込めて言った。日本を訪れることが今やさらに重要な課題になったと実感した私は、前進を続けた。
私の計画に援助を得るのは依然として困難だったが、ニュージーランド具象芸術アカデミーの開会式での偶然の出会いがニュージーランド・ナショナル・バンクの援助と日本での撮影の最終決定を引き出したのだ。私は撮影に2日、時差を克服し文化の違いに慣れて、インタビューしたいと望む人々と連絡を取り、東京と京都を往復するのに3日確保することが出来た。日本で何かしようと望むなら、成功か失敗かは誰の紹介なのかにかかっている。誰があなたのために扉を開くかに。私の扉はロンダ・グリーグが開いてくれた。ロンダの扉はジムが開いた。アジア人を妻としていることもあってー私の伴侶アニーはビルマ人であるーその文化に慣れるのは比較的楽だった。日本人の友人が言っていたように、私は既に「もう一息のところ」まで進んでいたのだ。それにジムが日本で博した名声があれば、私が出会った人々から最良の協力と援助を得たのも不思議ではあるまい。
時間は短く、ロケ地も限定する必要があった。東京のインタビューはニュージーランド大使館の美しい日本庭園で撮影した。京都では河井寛次郎記念舘と清水寺だった。どちらも河井寛次郎の作品を研究したジムの生活の中心点だった。ジムが河井寛次郎という偉大な陶芸家の思想に深い親近感を抱いていたことは、日本の人々がジムの芸術の真価を認めるのに大いに貢献していた。
私がインタビューした人々は、ジムとその芸術を知る日本人の縮図と言える。伊東成憲氏。伊東氏は東京赤坂の著名な赤坂グリーンギャラリーで個展を開く最初の外国人にジムを抜擢したのだ。梅原猛氏。梅原氏は近年まで京都芸術大学学長を務め、現在は新たに設立された国際日本文化研究センター所長であり、ジャパン・タイムスのコラムニストであり、新作歌舞伎の原作者である。それから、佐藤公俊。彼は、近年ずっとジムの芸術を熱烈に擁護し代弁し、ジムの文章を翻訳して来た。鷺珠江氏。寛次郎の孫娘であり、河井寛次郎記念館の学芸部員として彼と親しかった。海上雅臣氏。氏は東京銀座アートスペースでジムの回顧展を組織した画商であり批評家である。最後に、いずれにも劣ることのない重要人物、伊藤哲氏がくる。氏はジムの親友であり、京都たち吉ギャラリーの最後の展覧会の準備をしてジムと共に最後の時を過ごしたのだった。彼は当時から、芸術を通して、日本とニュージーランドの相互理解の発展を助成すべきだと唱導していた。
この人々が何を述べたか。その豊富さと含蓄の深さは到底私のドキュメンタリーには収まりきれないし、ここで書き記すことも出来ない。我がニュージーランドでは陶芸は芸術でありや否やで議論されているのだ。日本は別世界だ。彼の地で、陶芸は、用と美を兼ね備えた、重要な芸術として誇り高く存在している。次に掲げるのは私のインタビューから抜き出したコメントである。翻訳は園生バーンズがあたった。
梅原猛氏:
「二千年ほど前の古代日本には、今日グリーグさんの作品にうかがえるものとよく似た芸術がありました。彼の作品は遠き昔に私たちの存在と切っても切り離せなかったあの失われた空間意識を強く喚起させるように思えます。だからこそ彼の芸術は私だけに訴えかけるのではなく、数多くの日本人に訴えかけるのではないでしょうか? グリーグ氏とその芸術は偉大な一歩をまさに踏み出そうとしていました。彼が何をなしえたか見ることが出来なくなったのは残念でたまりません。・・・それは文明の発達の興味深いかつ意味深い実験になっただろうと感じます。それも今はかなわぬ夢となってしまいました。」
佐藤公俊:
「彼の陶芸で最も重要なことは、彼が、右と左、空虚と量塊といった対極を結び付け、そこから美を創造することが出来た点だと思います。一般の日本人にとって、美の最も大切な側面は繊細さであり生命感です。ですから、明確な表現は避けて、微妙な暗示的な方法で自己表現をしがちです。しかしジムは全然違いました。ジムの作品はいつも直接的でかつ意識的でした。ところがその結果実に神秘的な事が起きたのです。新しい美の創造が生まれました。しかもそれは新しいいのちに満ちていました。」
海上雅臣氏は、彼を、西洋に民芸運動を広めたバーナード・リーチと比較した。
「夢の中でリーチは「いつまで待てば? いつまで待てば?」とささやく声を聞きました。東洋と西洋の深淵に架ける橋を求めるリーチの呼び声は、思いがけない答えを得ました。遥か南の地、ニュージーランドからです。バーナード・リーチの呼び掛けに対する答えがジェイムズ・グリーグの作品に現れているということは芸術の持つ力の証しであります。」
日本語は微妙な言葉だと聞く。直接翻訳の出来ない人間関係とか愛着とか意味合いが陰にあるので、単なる逐語訳では翻訳できないのだ。言葉に詰まることのないように、インタビューはすべて日本語で行われた。日本語のわかる人達が話の内容を理解しやすいように、私は日本語をそっくりそのまま残し、字幕をつけることにした。
最近東京で催された回顧展は、海上雅臣氏によって「東と西を越えて」と名付けられた。25年前に濱田庄司や河井武一といった日本の陶芸家がニュージーランドを訪れ、バーナード・リーチと共に陶芸運動の初期の成長を促す刺激を与えた。ジェイムズ・グリーグはそうした始まりから現在の成長までを測ることのできる判断の基準を与えてくれたのだ。
ジェイムズ・グリーグはこう記している。
「陶器は不変である。すなわち割れこそすれ決して溶解することはない。この世界に、私たちがもたらすもの、世界から二度と去ることのない物、それに対する責任を心に留めておくことは、大切なことだ。」
ジムは自分の芸術と私たちに対するこの責任を感じていたが、もしかすると今こそ私たちのほうが彼の大いなる遺産の重要性を真に認識する責任を持つべき時なのだろう。
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