小津映画の視覚の快楽DVDの発売に合わせて、小津安二郎の映画を観ている。ちょうど晩年から戦後へといくらか時代をさかのぼるように見ていることになる。 ストーリーは毎回似たようなもので、主人公の思想上の苦悩や社会的不平等が描かれるような、高尚なものではない。誰が結婚するかとか、結婚生活がどうだとか、家族の誰かが死ぬとか、誰にでも起こることが淡々と映し出されているだけだ。 たぶん、誰にでも起こるような平凡なことは、それが平凡であるだけに、アプローチによっては普遍に通じるのだろう。死の神秘、結婚の不思議、子どもの残酷な快活さ、夢と現実の悲惨なギャップ。 小津は志賀直哉を畏敬の目で見ていた。それを、作家に対する映画人の劣等感という人もいる。けれども、今となっては、小津映画の普遍性を前にして、志賀直哉は日本語圏の限界にほぞをかむのではないのか? だいたい、志賀直哉の簡潔で無駄のない文体が日本語の理想とされていたことなど、誰も覚えていないのだろう。太宰治がその権威の前でじたばたし、のたうち回ったことを誰が知るだろうか? 小津の映画の楽しみ方はいくつもあるのだろうが、私が最も惹かれるのは、彼の造りだす空間造形の大胆さ、一見素朴そうで実は何とも狷介な構図だ。これは大きなテーマなので、何を言っているのか見当がつかないという人も多いだろうが、やはり指摘しておきたい。つまり日本家屋の空間の知的かつ官能的な構成である。 光と闇がむつみ合い、対立しあい、垂直と平行に、四角四面に縛られているようでいながら、緊張と緩和が意外な形で画面に定着されている。そして、それを照らし出し反射する窓ガラス、室内空間を相対化する中庭、庭先におかれた石仏という仏教的なアイコン。 一見薄っぺらなフィルムに平面的にへばりついたようでいながら、モンドリアンのように遠近の音階を響かせる空間の階調。 まあ、こんなことを考える人は少ないのかも知れないが、ジェームズ・タレルの光と闇と陰影を利用したイリュージョン空間としての日本家屋への入れ込みようを知ると、やはり分かる人には分かるのだなと感じる。 実は、このテーマは人間精神と空間意識という普遍的な主題と結びついているが、多くを述べるのはやめよう。 松竹から出ているDVDは高価すぎるとか、圧縮がひどいと、大きなブックサイトに書かれたりしているが、それは不当だ。よくやっていると、私は言いたい。少なくとも、私は小津の色彩感覚が見事であることを、このDVDのおかげで知ったのだし、小津の空間の見事さも実感したのだから。 以下に、DVDから見事な構図のいくつかを実例として掲げておこう。 最初に挙げるのは、「お茶漬けの味」から。小津のセットは塵一つ落ちてない。すべてがピカピカに磨き上げられていたというが、それはそうだろう。鑑賞者は下手で夫婦がお茶漬けの用意をするのを見ながら、右手の冷蔵庫の扉に映った室内と、そこを移動する2人の映像が幻のように映るのを、無意識にしろ目にしているのだ。 次は「彼岸花」から。画面右上、小津お気に入りのラジオと、画面左下奥のやかんの赤が、手前に置かれた急須の渋い茶と、三角形を形成して、画面を引き締めている。後ろのガラス戸、竹の塀、すだれが迫ってきて、室内に閉塞感をもたらしている。 松竹のデジタル修復がどれほど成果を上げているかを示すために、小津生誕90年の時に録画したヴィデオから同じシーンを見てもらおう。色合いの違いだけでなく、左のやかんの一部が削られて、画面構成を台無しにしているのも、確認してほしい。 ただしDVDは画面上方がいくらか削られているのも分かる。ビデオのほうは下が大きく削られている。 |