追憶のルドルフ・シュタイナー

マリー・シュタイナー

1932年10月

マリー・シュタイナー

私たちは今月に、ある人間集団の指導という重荷を担うことがルドルフ・シュタイナーの運命であったその日の30周年を祝おうとしています。 その決意がなされたのは、霊科学の仕事に加えて、自由な人格たちを、高い道徳的な理想に至るまで、芸術の生きた理解と把握に至るまで、人間の義務と人間の奉仕とは何かという、より包括的な意識に至るまで、教育するためでした。多くの嵐と難所を避けるべく、彼は、人類の現在と未来の発達に適応した神智学の担い手たることを目標とする協会という船の舵をとりました。古代の叡智の神聖さを鋭敏に理解しながらも西洋の課題と目標を包括するものであり、キリスト衝動の中心的意義の認識が生まれうるものとしての神智学。そういう理解を築き上げる疲れを知らぬ歳月の積み重ねが、就任の日から続くことになりました。というのも東洋寄りの神智学協会の活動は、現在と未来の課題に対する感情を目覚めさせなかったからです。ひとは過去に驚異の目を向けることで満足し、現在の力と、それ以来人間性に生じ、人間の進歩に貢献しなければならない変化を一顧だにしなかったのです。ブラヴァツキーによって新たに告知されたにも関わらず、十分には理解されなかった古代叡智に教条的に固執する姿勢を目の当たりにして、ルドルフ・シュタイナーはさしあたり留保の態度を採っていました。神智学サークルの求道者たちは、その道の途上で押し寄せてくる謎の解決を自力で探ることが出来ませんでした。しかしそのために、東洋と西洋とキリスト教が神智学において出会うことがないのかということについて、正確な問いが提起されました。深い心の認識を満足させるようなやり方で、有機的発達、因果の連鎖、そしてキリストの行為に光をあてることが出来ないだろうか? そのときに初めて、ルドルフ・シュタイナーはそういう人たちからの招待を受け容れて、彼らと共に働く可能性を見いだしたのでした。この欲求、この憧憬がまず彼にもたらされる必要があったのでした。それがあって初めて、西洋のキリスト教的秘教が東洋に傾斜する神智学に与えるべき衝動として、明確に公式化された課題が、彼にとっても可能となったのです。神智学はこの衝動によって限りなく豊かにされるでしょう。それにもかかわらず、私たちが知っているように、多くの人々は知識が豊かになったことを快く思っていないのです。

「人智学」という、より気取りのない名前が、東洋と西洋を、ミクロコスモスとマクロコスモスを、認識において結合するために、自我意識に至るこの道のために、選ばれました。その名前は謙虚な想いから、また、人間から神への認識の道が自己認識から宇宙認識へと至るがゆえに、選ばれました。そして新しい衝動に明確な性格付けが与えられました。「人智学は、人間における霊性を宇宙における霊性へと導くことが出来る認識の道である。」

思考の計り知れない豊かさ、ルドルフ・シュタイナーによってその講義で賦与された精神の富の異様な豊饒さは、彼の連続講義を単一のカテゴリーに収めて、狭い定義の枠組みを入れることをしばしば困難にしています。それらの講義は凝縮されたエネルギー源です。そこからは、火花が四方八方に散乱し、近くも遠くをも照らしだし、根元の始まりに飛び込み、時空よりもさらに沈潜し、それから再び精密な細部を取り出すのですが、それらは時には些細に見えるかも知れませんが、暗示的な重要性と新たな光の力を保持しているのでした。そのような細部の蓄積されたダイナミックな力の全体から、何かが、運命の厳格な法則のように、嵐を孕みながらも、浄化の火を孕んで、生まれます。

私たちは、現在の困難な時に先行し、世界大戦となって爆発しましたが、その後にも未曾有の争乱となり、近い将来にも継続するであろう勢力たちの作用に、より深い意義を認識します。それが何故招来しなければならなかったのか、どんな咎の償いをしなければならないのか、私たちに何が求められているのか、私たちは理解します。限りなく印象的な歴史絵図が、さもなくば見逃される細部をこのように精密に構成することから、そして、人間的な事象が浮き彫りに見える力強い宇宙的−人間的背景から、私たちの前に立ち上がります。

これらの展望は、宇宙の原型的歴史とはるかなる太古の人間の歴史に沈潜しながらも、最も明るい光で現在を照らし出し、人智学協会の会員向けの講義に特別な力を帯びて現れます。それらの講義は中断を伴いながらも、たえず反復するリズムで、ルドルフ・シュタイナーが常住した場所、つまりベルリンとドルナッハで、多くの旅行に割り込まれながらも、行われました。これらの講義によって、少なくとも人間の小さな集団の良心を、世界戦争の勃発以前に私たちが生きていた、そして今も生きているこの瞬間の限りない重大さに目覚めさせなければならなかったのです。実証によって真剣かつ印象的に生活の細部のすべてを結びつけて、ルドルフ・シュタイナーは私たちに、運命そのものの声として、新たに覚醒された人間の良心として、語りました。そして、外部から、かくも堅固であると信じられたあらゆる支援が大勢の目前でよろめいたとき、歯止めの利かない本能の反動が根元的な力で生じたとき、混沌を克服するために、蓄積と構築をもたらす思想を形成することに努めたのは、まさに彼でした。人間性は彼の声を聞くには未熟すぎたのですが、それにも関わらず、可能な限りにおいて、光を混沌へと、少数の−確かに未熟な−しかし意欲に燃えた人間の集団によって、もたらさなければならなかったのです。そしてそこここで、実践的状況に参入する試みがあえてなされたのでした。今日の自称実践的現実主義者たちは、怠惰という無慈悲な武器のすべてを用いて、自分には奇妙に思えるもの、霊界について語るもののすべてを軽蔑を込めて退けたのでした。それにもかかわらず、私たちが知っているように、生きた思考はその瞬間を超えて生き、再び新しい姿で立ち上がる力を保持していました。結果を期待すらせずに仕事をすることが、生きた思考の義務です。それが関わる問題は、人類の救出です。その純粋さによってその思考は苦難と試練の時を通過しながら徐々に目覚めつつある魂たちへの道を見いださなければなりません。彼の霊視が疎遠になることを決して望まなかった生活の実践と理解そのものから、ルドルフ・シュタイナーは、生のあらゆる領域を包括し、精力的かつ創造的な衝動で、科学、芸術、世界観と宗教的活動といった多様な領域に浸透できる認識の科学を創造しました。

このすべてに参加することは、昔も今も、高次の生を感じることです。雪によって浄められ、太陽の光線によって生気をえた空気を、力を与えて癒してくれる空気を、呼吸することです。この高次の現実の領域に、人間の生命に注がれる宇宙的に整えられた現実の領域に、参入するとき、ひとは息を深く吸い込みます。宇宙的実在が人間の生に意味を与え、今でも人間の運命の未来の映像を形づくっているのです。意識を強めることによって人間は、思考においてますます高次の存在の領域を把握できるようになります。

私たちは、私たちに畏怖をもたらす光輝を放つ霊的宝を譲り受けています。それによって、私たちは暗黒時代−カーリユーガ−の力が打ち砕かれて克服されたさまを目にすることが出来ます。私たちは実際まだ内部に闇を抱えていますが、光はそこにあるのです。そして、その光は闇に落ちた人間からも、遠ざけられることがないのです。

キリスト衝動の新しい啓示においてルドルフ・シュタイナーが私たちに与えた光は、人類に2度目の霊的覚醒をもたらすことでしょう。その光のために人間意識の新しい形式の鋳型が作られなければならなかったし、その新しい意識に光は自らを注ぎ込むことが出来るのです。霊的覚醒だけが救済を可能にすることでしょう。

もはや感覚魂の諸力は、合理主義の時代が招来したあれらの障害を克服するのに充分ではありません。また、キリスト教秘儀参入の道を歩む聖人と神秘家が経験したような熱情、中世に知られていた最も神聖な感情の光輝も熱烈な思いも充分ではありません。

しかし、賢明な神意と人類の指導者たちは、新しい時代が開始する以前に既に、来るべき未来の要求に人々の魂を徐々に整えることになるキリスト教秘儀参入の新たな道を切り開いたのでした。

この道、キリスト教的薔薇十字の道は、とりわけ意識魂の諸力に呼びかけます。従って人間の人格の力を強めること、人間に人生の一回性の意義を充分に感じさせることもまた、その課題でした。研鑽によって、想像認識と観想によって、それは人間を大宇宙へと導き、人間は自らの内に大宇宙が反映されているのを再び発見したのでした。

しかし人格の諸力の十全な意味は、徐々に自我を霊性の意識的な把握へと導くことが出来たのですが、そのためには、再受肉の認識を、人格の諸力を発達させなければならなかった人間性のその部分から、しばらくの間隠す必要がありました。

そのとき新時代の開幕に必要なものは、再びヨガの道を採用する道に戻ることでも、過ぎ去った時代の発達に適した姿をとったキリスト教グノーシスの道でも薔薇十字の道でもありません。新しい時代の要求に従って、新しい衝動が薔薇十字の道に与えられなければなりません。薔薇十字の道は、認識の最も厳しい道であり、その本質は、その名前を不当に奪ったすべてのまがいものとは無関係です。そしてその新しい衝動が、再受肉とカルマという偉大な真理を明かすことです。

薔薇十字は慎重にこれらの真実を隠してきました。ルドルフ・シュタイナーがそれらを告知する使命を受け容れるときまで、それらについて沈黙を維持してきました。しかし、薔薇十字のはたらきの結果、数世紀の経過のうちに、厳しい思考の訓練の結実として、鋭敏で知的な思考の帰結として、ヨーロッパの人間の意識にこれらの真理が輝き出たのでした。それは人間性の全体にかかわる深い関心事です。それによって、人間の発達の歴史がその真実の意義と意味を獲得するのです。それは、仏教におけるように、輪廻転生の轍から解放する目的を担った個の存在の問題ではありません。それを理解するためには、ゲーテとレッシングに注目するように言っておけばよいでしょう。

繰り返される地上の生によって進歩し、それらによって完成された個我を救出すること、人間に神的自我を再誕生させることは、キリストの行為であり、この行為のことを、ルドルフ・シュタイナーは繰り返しくりかえし、私たちの眼前に、彼の支配する途方もない認識力で、呈示してきたのでした。

ルドルフ・シュタイナーは、長いちゅうちょの後に、ドイツの神智学者たちの嘆願に同意し、彼らの仕事の指導者になることを決断しましたが、神智学協会が再受肉とカルマの教説の唱道者として世界に入ることをその使命と見なしたからこそ、そうすることが出来たのでした。彼がドイツでのこの運動の指導者になるように招かれる理由となった講座は、『ヨーロッパ中世の神秘家と近代的世界観』と『神秘的事実としてのキリスト教』でした。彼が運動にもたらさねばならなかった衝動は、このように明確に示されていたし、教えることに関して絶対的な自由が、彼には確保されていたのでした。彼自身、現存する霊的な寄与と絆をもつあらゆる時代の真のオカルティストの精神で、その寄与を生かし、それを進歩の道でさらに担っていくために働きました。彼は、新しい衝動によって、神智学協会を教条的硬直性から救出し、それに新鮮な諸力をもたらし、キリスト教の秘儀に欠けている理解を目覚めさせることがまだ望めたのでした。

急ぐことなく、ゆっくりと礎石を次々と加えていき、この理解の基礎を固める仕事をしました。考察し熟慮し試行する意識が、聴衆に発達しなければならなかったのです。従って彼は、聴衆の慣れ親しんだ用語を使い、徐々に事物の理解を拡大させて、理念が生きるようになることから始めて、より能動的な意識形態と近代精神に順応した用語が使えるところまで進んだのでした。基礎が出来あがったとき、新たな光が差し込む、より広い眺望を開くことが出来、地球の使命と人間としての私たちの課題を、今まで耳にされたことがない言葉で、明らかにすることが出来たのでした。

ルドルフ・シュタイナーが与えた連続講義のひとつひとつが、霊科学に新たに参入する人たちに、特に年代順に読まれるなら、計り知れない重要性を持っています。というのも、年代順に読んだときにはじめて、彼の思考の生きた有機的力を充分に経験できるからです。また、今や遙か遠い過去になった、当時の日常の出来事に関して、散見される評言すら、高い道徳的力と教育的な価値を有していて、こだわりたくなる意義を帯びています。客観的な真実を曇らせる方針と党派外交と個人的野心の作用によって神智学協会が蝕まれることに、強い反対の態度を採る必要がありました。現在これを読む方は、そういう意見の真意を必ずしも理解していません。主にそれは、肉体で出現する救世主を打ち立てて、彼にキリストの名前すら与えた、あの嘆かわしい行動を指し示しています。インドの少年、クリシュナムルティがこの役割に選ばれて、「東洋の星」が鳴り物入りで設立され、神智学協会はこの方針に秘められた目的に奉仕するものと思われました。このような粗雑なやり方で、ルドルフ・シュタイナーによってキリスト教的秘教の解釈に心を開いた魂たちを、横取りすることが望まれたのでした。それと同時に、ありとあらゆる中傷の武器を使った攻撃が、ルドルフ・シュタイナーに向けて開始されました。国際神智学会議が、1911年にジェノヴァで開催されることになっていて、ルドルフ・シュタイナーによる『20世紀の仏陀』と『20世紀のキリスト』に関する2講義が予告されていましたが、土壇場で満足な理由もなく、中止されました。ルドルフ・シュタイナーの言葉の影響を阻止するのが明白な狙いでした。こうした出来事について−当時の多くの人々には全く理解不可能だったのですが−シュタイナーはその年の講義で何度か触れる必要がありました。

神智学協会のレヴェルを非常に嘆かわしく堕落させた、そのやり方と自分が何の関係もありえないということを非常に真剣に力説する必要が生じました。このような言葉は、シュタイナー博士によって強い痛みを伴って、しかし強い力を込めて述べられました。深い感動を込めて、心のすべてを言葉に込めて、彼は人生の望みとして、彼が指導する協会が、オカルト結社が非常に陥りやすいありふれた陥穽に落ちないように、繰り返しました。彼らは厳格な真理の要求から逸脱して虚栄と野心の脇道へと誘い込まれてしまったのです。

そういう言葉は、彼の仕事を代表する人々の心に浄化の火として生き、温もりをもたらす思い出として魂の前に、その言葉をいつでも置くことが出来ます。

1912年にベルリンで行われた講義は、霊科学をめざす運動の精神の純粋さを救うためにルドルフ・シュタイナーがなさざるをえなかった苦闘に、何度も言及しています。霊科学を目指す運動は、隠された攻撃にいつでもさらされているのです。今や神智学協会の退廃は、その結果として、中央ヨーロッパ的人智学の仕事の自立を生み出しました。外的形態においても、1912年12月の暮れに「人智学連合」が正式に設立されました。

過ぎ去った歳月がそのリズムを伴って、思い出の前に特別な強さで再び立ち上がってきます。

三十年前、1902 年10 月20 日に、ルドルフ・シュタイナーはベルリンで人智学に関する最初の講義をなし、10 月21 日にはアニー・ベザントの神智学講義を要約しました。アニー・ベザントは、後に彼女に作用する不健全な影響下に、まだ陥ってなかったのです。20年前にルドルフ・シュタイナーは、彼の創始による人智学的に方向づけられた精神運動の精神を、アディヤールからのオカルト政策の突然の攻撃から、防衛する言葉を発する必要があったのでした。その言葉は、遺産として私たちに鳴り響き、今新たに当時の日々の思い出として公開されることになります。

それらの言葉は、ケルンで同じ年の十二月の最後の講義に見いだされます。そこでルドルフ・シュタイナーは、「バガヴァッド・ギーターと聖パウロ書簡」について語り、私たちの目の前にキリスト教認識の光で観た純粋な東洋の叡智を、夢にも思わなかった偉大さで輝き出したのでした。締めくくりの言葉で彼は、彼が創設した運動を担う人々に、自己認識を成し謙虚な姿勢を崩さないように、再三再四懇願しました。

反対勢力は眠りませんでした。今から十年前、1922年の大晦日に、ゲーテアヌムは炎上しました。後ずさりする敵手たちの間に立った人間の代表の木彫群だけが救出されました。私たちは、クリスマスにこの木彫群が、それにふさわしいゲーテアヌムのホールに大事に納められることを希望しています。

木彫群

1912 年になされた多くの講義では、キリストの姿が、芸術的にかつ映像的強さで、私たちに描かれました。当時、それを具象的に実現する可能性など、まだ思いも寄らない時でした。今芸術作品となって観ることが出来るものは、私たちの前に、言葉の力によって髣髴とさせられました。「そうです、キリストをこのように外的に具象的に表象すること−外的に「どのように」キリストを描くべきか−それはこれから解決しなければならない問いです。」既に昔からずっとなされてきた多くの企てに何か新たなものを加えることが出来る前に、まず多くの感情が人間の魂たちをとおして流れなければならないでしょう。その企ては、この地球の発達と自ら合体しようとしている超感覚的衝動であるキリストの本性を、何らかの方法で示す企てになるでしょう。今まで達成されたものには、キリストのそういう表象の最初の萌芽すら見いだすことが出来ません。というのも、そこには、成長する外的姿に体現されて、「驚異の衝動」、「共感の衝動」「良心の衝動」、これらの有機的な諸力が結集して現れなければならないからです。

全体像

キリストのかんばせは、まさにその表情が次のように告げるほど生き生きとしたものでなければなりません。ここに、この表象に、人間を大地の人間にしているものすべてが、感覚的欲望に関わるすべてが、隅々まで光り輝く「霊性」によって克服されている−このかんばせを霊化させたものによって克服されている、そう告げるほど生き生きとしたものでなければなりません。その顔には「昇華された強さ」がなければなりません。その強さは、良心の最高の発達と見なしうるものすべてを顎と口の独特の形で開示させることによって、引き出されたものです。その口は−その前に立つと、画家や彫刻家がそれを形づくりたいと願うとき−その口があるのは食べるためではなく、道徳と良心として人間性に育成されてきたものすべてを表出するためであると感じさせるものであるはずです。骨格のすべて、歯と下顎が同じものを表出していると感じさせるものであるはずです。このすべてが、そういう顔つきに表出されるでしょう。顔の下半分の形には非常に力強い力があり、それが流れ出ると、人体の残りの部分すべてをずたずたに切り裂き引き裂き、それがやがて、新しい形態になり、そうすることによって特定のエーテル諸力は克服されることでしょう。したがって、このような口元を表すキリストに、今日の肉体的人間に類似した体の形態を与えることは全く不可能でしょう。

もう一方で、キリストには「万能の共感」を物語る目を与えなければならないでしょう。そういう目だけが、内的な存在を見ることができるのです。印象を受け取るためにあるのではなく、むしろ魂もろとも他者の喜びと苦しみに参入するために外へ出て行く目です。

さらに、このキリストは、地の感覚印象に関する思念を宿しているとは想像できないであろう額を持っていることでしょう。その眉は、いくらか突き出て、脳のあの部分にアーチを描いています。しかし、同時に、その眉は、既に存在するものを思考する「思想家の眉」ではなく、むしろ驚異が目の上に突き出てゆるやかにアーチを描いて頭部に戻るこの眉から表出されていて、そうすることによって、いわゆる世界の神秘をめぐる驚異を表出していることでしょう。その頭部は、肉体を担った人間においては出会うことの出来ない頭部であるはずです。

キリストを描く行為の一つひとつが、実際、キリスト像の理想のようなものであるべきです。そして、進化の過程で人間がこの理想を達成しようと努めるときには必ずこの理想を志向する感情−霊科学の助けで、人間がこの最高の理想を芸術的に呈示しようと努める限り、次の感情がなければなりません。

「キリスト」を描きたいと願うなら、お前は既に存在しているものに頼ってはならない。むしろ、お前は世界の霊的な行路に霊的に没入することによって、3つの重要な衝動−驚異と共感と良心−によって、成就できるすべてが力になるように、自分の内で活動的になり、自分の全存在に浸透するようにしなければならない。

キリストのかんばせ
訳注
マリー・シュタイナー:(1867-1948) マリー・シュタイナーはルドルフ・シュタイナーの生涯の伴侶であり、オイリュトミー、言語形成など舞台芸術の発達のすべての出発点に彼女が立っている。この文章でも分かるように、ルドルフ・シュタイナーがオカルティズムに関わる仕事をする出発点にも彼女がいた。生前のシュタイナーの著作は彼女が設立した出版社から出版されたし、シュタイナーの講義録が彼の没後に出版されたのは、ひとえに彼女の献身による。彼女が記す序文はいつでも、シュタイナーの講義を読む大きな指針と洞察を与えてくれる。

30周年:ルドルフ・シュタイナーが神智学のサークルで講義を始めたのが1902年10月のことだった。それから数えて30年が経ったという意味である。

正確な問いが提起されました:イギリスとインドの知性に偏向した神智学協会に対して、西洋の思弁と芸術に根を張ったオカルティズムが可能でないのか、西洋思想の成果であるキリスト教と西洋哲学を踏まえたオカルティズムを目指すべきなのではないのか、そう問いかけたのがマリー・フォン・ジーフェルス、後にシュタイナーの伴侶となる女性であった。

勢力たち:もちろん、ここで言及されている「世界大戦」は第一次世界大戦のことである。マリー・シュタイナーの書き方から、その同じ「勢力たち」が第2次世界大戦を引き起こそうとしていることもまた明瞭である。だがしかし、当時それを透視できた人がどれほどいただろうか?

二度目の霊的覚醒:最初の霊的覚醒は言うまでもなく物理領域:パレスチナで生じたゴルゴタの秘儀によるものである。だから「二度目の」霊的覚醒ということになる。ただし、シュタイナーによれば、キリストの再来は物理世界では生じない。キリストはエーテル領域、生命領域に出現すると説いた。その出現を自覚するかしないか、それが個人の道を分けることになる。

感覚魂:人智学用語。ルドルフ・シュタイナーが最も理知的に霊科学の用語を定義付けした『神智学』から引用してみよう。「四方八方から来る刺激に反応して、感覚作用が生じる。この活動の土台となっているものを感覚魂と呼ぼう。」人間が感覚魂を発達させた時代はギリシア・ローマ時代だった。

意識魂:やはり人智学用語。以下も『神智学』からの引用。「永遠なるものとして魂で輝き出るものを「意識魂」と呼ぼう。・・・最も平凡な日常の感覚作用すら意識に関わる。この意味で動物も意識を持っている。人間の意識の核心、言い換えると、「魂の内なる魂」、それをここでは意識魂という。」今こそ人間は意識魂を発達させる時だと、シュタイナーは主張している。

薔薇十字の道:マリー・シュタイナーが口述しているように、「薔薇十字」と昨今称するものは、ルドルフ・シュタイナーがそう呼んだ道とは無関係である。薔薇十字者は中世ヨーロッパの科学者であった。物質の振る舞いを客観的に追究していった。当時の錬金術が近代化学の基礎を築いたことを思い出そう。ニュートンもデカルトも錬金術や当時の神秘思想と深い関係があったのは周知のことであろう。もちろん、当時の錬金術の文献を読むと奇妙な詩的な記述があるのだが、そこには深い意義があるのだった。物質の行動を霊的な事柄のイメージとして把握することが、より多くの人間を救出するために、利用されることになったのだった。詳しい事情は、薔薇十字の秘教を参照されたし。

ゲーテとレッシング:ゲーテ(1749ー1832)言うまでもなく、ドイツ文学の巨匠。ルドルフ・シュタイナーは有機科学の父としてゲーテを再評価した。ゲーテの変態論は明らかに薔薇十字の知恵を踏まえている。再受肉の理念との関連では「ファウスト」を挙げれば充分だろう。レッシング(1729ー81) もドイツの巨匠。「ラオコーン」に再受肉への痛切な思いが明記されている。

クリシュナムルティ:クリシュナムルティ(1895ー1986 )。精神世界の本を読んだことがあるひとなら、彼の語り口、彼の魂の美しさに感銘を受けたことがあるだろう。ルドルフ・シュタイナーもマリー・シュタイナーも決してクリシュナムルティその人を批判しているのではない。ただし、クリシュナムルティ少年を利用した人々がいるのも確かだろう。「東洋の星」グループに関して、人智学の側からの証言が日本語でほとんど公表されていない現状を考えると、この文献は貴重であるだろう。

アニー・ベザント:(1847-1933) バーナード・ショウとの恋愛でも有名。ブラヴァツキー亡き後、神智学協会の会長として活躍したが、リードビーターの「霊視」に基づきクリシュナムルティを「世界教師」の再来としたことから、シュタイナーの反発を招いた。後に、インド国民会議のリーダーになった社会活動家でもある。

1912 年になされた多くの講義:クリシュナムルティ問題は多くの恩恵をももたらした。まさにその1912年にシュタイナーは聖書に関する連続講義をなして、多くの実り豊かな認識を与えたからである。余談であるが、シュタイナーがクリシュナムルティ事件から神智学協会を離脱して、人智学協会を作ったと誤解している人が多いが、それは事実に反する。まず、シュタイナーが指導していた神智学協会ドイツ支部は神智学協会から除名されたのである。そのため、ドイツ支部はほぼそのままで人智学協会に移行するのだが、ルドルフ・シュタイナーは新しい「人智学協会」に対して名誉職を得ただけだったのだ。新しいグループからも注意深く距離を保っていたのだった。政治的駆け引きを彼が労さなかったことがお分かりいただけるだろうか。

キリストのかんばせ:シュタイナーの手によるキリストの木彫、そこに彫り出されたキリストのかんばせは、不思議な表情をたたえている。西洋美術史に現れた多くの名画に描かれたその姿とは全く異なっている。その表情の意味合いを、マリー・シュタイナーほど、親密に具体的に解明した例を私は他に知らない。「驚異の衝動」、「共感の衝動」、「良心の衝動」をあわせもった「人間の代表」としてのキリストの姿である。

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