「破戒」から: 校長の姿

島崎藤村原作、市川崑監督、宮川一夫撮影、市川雷蔵主演の「破戒」をフィルムセンターで観た。

ヴィデオでは何度も観た作品だが、映画館で、しかもフィルムセンターの好条件で観ると印象がますます深くなった。

たとえば冒頭の大自然のシーン、そして父を突き殺すことになる雄牛のアップ。小さなテレビ画面、巨大な闇を従えた光と影の戯れを再現しないディスプレイは、それらの映像の力を再現することが出来ない。

また、すっかり印象が変わったというか、その真価をはじめて実感したのが、音響効果だ。芥川也寸志の弦楽によるメロディーはいささかセンチメンタルで、ストーリーの悲痛な面をさらに厚塗りしているようで、気に入らなかったのだが、今回はその印象が薄らいだ。それどころか、音入れの繊細さが気に入った。なぜだろう?

何度も画面に響くお寺の鐘の音がそれぞれに別の意味合いで聞こえてきた。見事な構成だ。和田夏十の脚本の見事さを示すといえようか? あるいはやはり芥川也寸志のセンスがすぐれているのか? あるいは監督の手柄か?

鐘の響きというのは、キリスト教でも仏教でも、倍音を重層的につくりだすものだ。倍音が聞こえるということは、それまで存在しなかった音が生成されるということだ。新たな音が生み出されるということだ。たとえば、ムソルグスキーの「展覧会の絵」の「キエフの大門」。たとえばタルコフスキーの不朽の名作「アンドレイ・ルブリョフ」の巨大な鐘作り。たとえばワグナーの「パルジファル」の秘儀参入の鐘(クラウディオ・アバドの新しいワグナー・アルバムに含まれる「パルジファル」からの楽曲抜粋は、ワグナー最後のこの謎の問題作の奥義に大きく踏み込んでいる。マエストロ・アバドは、「パルジファル」演奏のために、ワグナーの指示通りに鐘を新たに製造している。「ルブリョフ」に登場する若者のようだ)。

丑松がはじめてお寺に行ったときに聞こえる鐘は、宗教の厳粛さを居丈高に示すかのように、恐ろしく強圧的に突然に響いて、私たちを驚かせる。それは、私たちがこれから、多くの苦難と苦悩を目撃する覚悟を問うかのような響きである。

そして、最後に、父との約束を破り、「破戒」の結果、東京に新天地を求める主人公のもとに、教え子の子どもたちが駆けつけるときにも鐘が響いてくる。遠くから聞こえてくる鐘の音は懐かしく、私たちの心を慰撫する。

その鐘は、身寄りのない寺男、その姿からたぶん愚鈍だと思われる、しかし優しい心根の寺男がついているのだった。

一方には、部落民として、また知恵を得た近代人として懊悩する主人公がいる。そして、その近代を支えるように、寡黙で、知能はすぐれないが、あらゆる苦悩と差別をあきらめと共に受け入れて生活をする寺男がいる。

和田夏十さんの脚本には、映画で描かれた世界が、映画で描かれていない広大な世界のごく一部にすぎないことを告知する端役が、非常に知的な操作で、書き込まれている。

たとえば「ぼんち」。

だが、それはまた別に書くことにしよう。

さて、あの鐘の響きによって、市川監督は、厳しい寒冷の地で生活する信州飯山の人たちにとって、仏教がその当時の生活のなかで何を意味するのかを、「音化する」ことに成功しているとは言えないだろうか?

最近出版された本で市川崑監督は、住職も校長も一面的な善悪ではなく、善悪両面を持った厚みのある人格として描いたことを述べていた。

宮口精二演じる校長が出世欲にかられた俗物であるにもかかわらず、最後に教育者として初心を忘れていたと自ら認める場面がある。言葉で言えば、これだけで終わりだが、校長の姿の描き方はさりげなく、しかし非常に印象的だった。私にとって、この映画には非常に多くの発見があり、これは瑣末なものの一つにすぎないのだが、この名作を多くの人に観てほしいので、そのキャメラワークを指摘したいと思う。

もしかすると、テレビ画面でも洞察力のある人には分かるのかもしれないが、良好なフィルム状態で映画館で観るなら、この私でも強烈に実感したのだから、映画本来の力とは強いものなのだろう。

黙示されたものを自らの力で獲得することは、強い喜びを与える。またそうした表現方法は、たとえ意識に昇らなくても、長い間消え去ることのない不思議を魂に与えるものである。

溝口健二の映画(例えば「残菊物語」)は映像を見なくてもその美質の一端、つまり音世界の多様性と多義性を味わわせてくれ、それが世界そのものの豊饒と矛盾を開示するが、「破戒」の宮川一夫さんのキャメラは、校長の心の遍歴とその劇的な改悛をさりげなく、それでいて、とても印象的に黙示している。

もちろん、そのドラマは小さなものだ。丑松の苦悩とは比べるべくもない。また、和尚のように、校長もまた、良心を「眠り込ませる」ことがないとも限らない。この脚本家は冷めた目で人間を観察しているのだ。しかし、それでも、細部まできちんと作られた映像構成は見事だ。

***

近頃赴任してきた校長は、地元の有力者と語り合い、長年の功労を評価される喜びを表明して、その俗物ぶりを私たちにさらけだす。

有力者と校長

校長は、部落民の出自であるという噂の出た丑松を体裁良く退職に追い込もうと、自らの保身に腐心する。差別意識の強い地元の有力者から自分にどんな非難が浴びせられるか、知れたものではないからだ。校長の姿を輝く金牌が見守っている。

腐心する校長

そして、丑松の告白と土下座。彼は自分が部落民の出であることを子どもたちに話して聞かせて、いままで偽ってきたことを許してくださいと言って、教壇を降りて土下座をする。

この長回しのシーンは市川雷蔵の心のこもった美しいエロキューションが胸にしみる。子どもを愛し、いたわりながら、話すその言葉は美しく、真実にあふれている。子どもたちも泣いているが、もはや演技とも思えなくなる。

ただし、そういう本筋の話をここでするつもりはない。また、多くの人がすでに語っていることだろう。

私たちは、校長の姿がどう描かれているかを、さらに見ていこう。

有力者を父に持ち、丑松と同僚である土屋は、自らの偏見を改めて、校長に直談判する。

ーなぜ子どもたちが見送りにいってはならないと校長は言うのか?ー

土屋は、有力者である父親に告げ口をして、校長の立場を危うくすることもできると脅迫すらする。

土屋

その姿はこう描かれている。金牌は、土屋の言葉が激するとき、その体によって隠されている。それまで強い威光を放っていた世俗の栄光は、身を挺した諫言に隠されてしまう。地上を統べる太陽が日食によって隠されて、昼間に星ぼしの姿が空に見えるように。

立ち上がる校長

校長は、その脅迫に負けたのか、思いあたるところがあったのか、自らの席から立ち上がって、教育者の初心をどうやら私は忘れていたようだと述懐する。

告白

そのとき校長の姿は、自らの栄光の証である金牌をすっかり隠してしまうのである。

もちろん、これは偶然だという人もいるだろう。あるいは、意図的だとしても見え透いた、わざとらしい図式だと思う人もいるだろう。しかし、私には強い衝撃を与えた。

また宮川さんがこのような撮影実験を創造的に繰り返していたことを知っているから、これもまた、そうした技法のひとつだろうと思う。見事だった。

世俗の栄光が消えて、個人の魂の尊厳が輝き出す瞬間を映像によって表出することに成功したのである。詩的な連想を続ければ、室外からの強い太陽光が校長の頭部を取り巻くオーラのように輝いている。このような工夫の言い出しっぺが、市川崑監督であろうが、宮川一夫であろうが、それは問題ではない。

市川崑の言葉を借りれば、「宮川一夫さんは監督に同化するタイプ」なのだ。

ならば、この映画の栄光はこの映画の製作に加わった人々すべてに与えられるべきものだろう。  

***


市川雷蔵出演放送映画予定

ホームへ