今年の二月初め、私は、ニュージーランドの陶芸家であるジェイムズ・グリーグさんから、次のような手紙をもらった。
「芸術は、国家や民族を結ぶ、とりわけ、西洋と東洋の潮流を結ぶ、平和的意志伝達の素晴らしい手段です。今この時に両者が出会うことは、特別重要なことです―いずれも、他者が保持してきたものを必要としています。全体性 (wholeness)を得るためには―。
私の芸術が、変容の要素とその人智学的特質と相まって一文化の相異の架け橋となることができ、日本の芸術愛好家から反響がある、ということに、感謝しております」
手紙には、色刷りの彼の作品がいくつか載ったパンフレットが同封されていた。彼が、1936年にニュージーランドで生まれたこと、濱田庄司とバーナード・リーチの弟子にあたるレン・カッスルに陶芸を学んだこと、1982年から1983年にかけて日本に滞在し、河井寛次郎の陶芸を研究したこと一これだけが、彼の展覧会を訪れる私の予備知識となった。
私は、陶器の良し悪しを見分ける眼を持っていない。その上、民芸運動についてもほとんどど知らない。ましてや、ニュージーランドでの陶芸家たちの活動など、仄聞すらしたことがない。だから、これから私が書くことは、ずぶの素人の抱いた一感想にすぎない。そのつもりでお読み願いたい。
ギャラリーに一歩足を踏み入れた時、私は既に未知の世界にいた。色とりどりの感情が私を襲い、私はひたすらそれを受容せんと耐えるばかりであった。知覚による受苦がひとまずおさまった私は、擾乱の源を探し出した。簡単に見つかった。彼の作品の持つバイオ・ダイナズム一作品の形そのものに宿る力である。ある陶芸家が、彼の作品を「彫刻だ」と評したのももっともである。
知覚可能なものの似姿として鑑賞するなら、ある花瓶はユリの類の球根に見えるし、ある皿は割られたクルミの実のようだし、あるものは内部を露わにした貝殻に覚しい。若々しい生命力にあふれた自然を持つニュージーランドの芸術家にふさわしい形成力の持ち>主であると、彼を称えるべきであろう。実際、何と力強い芸術なのだろう! あるいは、人体内部に詳しい人なら、ある作品が臓器の似姿であるのを指摘し、「見よ、人間の内部はこんなに力強く美しい器官があるのだ」と嘆賞するかもしれない。私はこの二通りの見方を首肯する。だが、それ以上のものが彼の陶器にはある。
ゲーテそしてシュタイナーに従えば、植物は収縮と拡張のリズムで、自然の階梯を昇ってゆく。種子として収縮したもの(種子の固さは、鉱物界の名残りである)は、茎として拡張してゆき、次いで節となり収縮する。葉で拡張したものは、萼となり収縮し、花弁となり拡張し、雄蕊雌蕊となり収縮する。色鮮かな花は、動物界への憧れとなり、香りを放ち、蝶などを呼びよせる。こうしたこと全ては、収縮と拡張のリズムを刻む心臓を内部に持つ私たちが、独力で観察し体得できる。そして、こうした全ての可能性(ポテンシャル)を秘めたものとして、種子を想像できる。意識魂が初めて世界を経験する時、焦らだったハムレットのように「たとえクルミの殻に閉じこめられようと、私は宇宙の主宰者だ」と叫ぶ他ないが、ジェイムズ・グリーグは、クルミの実に封じ込まれた要素を楽々と解放することによって、現代の「ハムレット」達にたとえ苦悩に彩られていようとも生きる喜びを与えてくれる。握りしめられた拳の形が何らかの力の結集を想起させるように、球根の膨らんだ部分には未来の植物のための滋養がたっぷりとためこまれている。もし球根が完壁な玉であるなら、栄養分はその中に永遠に安らいだままであろう。実際は、しかし、芽を吹く部分は鋭角に尖っている。直線と曲線、鋭角と鈍角、量塊と空虚、こうした
極性の鋭い対照が彼の芸術のダイナミズムを産み出しているのだが、その一方で、彼の作品は、芸術なんて言葉にはトンと縁はなくても、自分の仕事には一家言を持っている農民や漁師から最良の讃辞が来そうな気がする。「この腰つきの株は強い」とか「この丸みのある貝は、おいしい」と彼等から言われても不思議ではない。
自然の事物の形そのものに顕現する力を私は感じた。たとえば、一個の球根と屋根がらゆっくり落下する一滴の雨粒が類似の形を取る時、両者は共通する諸力に支配されている。彼の作品は、形態を生み出すこうした諸力のせめぎあう戦場となり、作品はいつも何かに「変容」しようとしている。
求心的な日本の志野の茶器も、彼が作ると、肉太になり、何物かへの変貌を願い、周辺がむくむくと動き出す。完全な円運動、円環に微妙な、殆ど見えぬほどの破碇が生じる。そんな形態に、日本人が出会う時、静的ダイナミズムが生まれ、内的観照へと誘いこまれる。「何も言う必要はない。なぜなら、私の内部はこれほど輝かしい実質に満ちているのだから。」省略と曖昧を美徳とできるのはこうした性向が私たちにあるからだ。そこへ、ジム・グリーグの作品が呼びかける。「私たちの外部にある自然は美しい。形と色のうちに、事物は、自己を呈示しながら、展開し生成をしてゆく。私たちの外にあるものを意識的に探求することは、私たちの内と外の照応と、私自身を探求することである。」
彼の陶芸は日本人を内的眠りがら目覚めさせる健康的な勁(つよ)いインパルスとなるのではなかろうか?

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