初公開!『ドラッグ』のカラー図版


ー素敵な装幀の本ー

本の中には、装幀が素敵なので、思わず買ってしまう本がある。オリヴァー・サックスの本がそうだった。池袋のジュンク堂で手にとって開いて、おおっと思った。後で調べると、日本語版のタイトルは「色のない島へー脳神経科医のミクロネシア探訪記」となっている。遺伝的に色覚異常者が多い地方では、どのような色遣いが見られるのだろうか? 例えば、どんな服を着て、どんなカーテンを飾るのだろうか? 通常の感覚とは異なる色彩感を味わえるのだろうか? そんな興味に惹かれたサックスは、先天的な色覚異常の代償であるかのように、異常に感度の良い眼、つまり暗視カメラのような眼を持った学者と共に旅に出る。

色を識別する仕組みと、光と影を認識する仕組みは、人間の眼では別物なのだ。眼の不思議はいろいろある。例えば、最初は真っ暗に思えても、目が慣れてくると見えるようになる。これは別の機能が働くようになる結果なのだ。まるで、人間がかつては、ほとんど真っ暗闇の中で生活していたかのように。

このような関心を装幀が見事に表していた。私が持っているのは、ペーパーバックだが、ハードカバーはどんな装幀だったのだろう? これが私の本の表紙だ。サックスの強い関心の対象のひとつであるソテツが中央にある。あんまり意識していなかったのだが、欧米でソテツや巨大な羊歯を見ることは稀なのである。

ーモノクロか? カラーか?ー

モノクロ映画が特別な意義をもつことはタルコフスキーのこだわりでも分かるだろう。絵はがきのような色遣いは嫌いだとタルコフスキーは言う。黒澤明監督がなかなかカラーで映画を撮らなかったのも、やはりそれだけの意味があったのだ。だから、黒澤さんが意を決してつくった『どですかでん』は、特に、そう冒頭の部分は夢のように美しい。技術革新を才能豊かな人物がただちに使うかどうかは疑わしい。チャップリンはトーキーが一般的になっても、ずっとサイレント映画を作り続けた。当然だろう。サイレントならではの、暗示、示唆、ジェスチャー、動き、飛躍による映像づくりに習熟した監督なら、当然のことだ。手紙を開封するとき、地獄の扉が開くような、恐ろしい音がするのは、むしろ感慨をそぐのではないかと言うわけだ。

ータルコフスキーのサウンドトラックー

タルコフスキーの音の入れ方は信じられないほど刺激的であり、繊細だ。そのうち、サウンドトラックについて書いてみようと思う。ただし不思議なことに、タルコフスキーは『サクリファイス』などで音声を同時収録せず、役者にアフレコをやらせている。自分の裸の心の奥底をさらけ出したような告白のところも、アフレコをやらせている。そのため、役者連中は不平をぶちまけている。「あれは自分のげろを食わされるようなものだ」と、恐ろしい言い方をしている。タルコフスキーがいつもぎりぎりの生き方をしていたから、他人にもそれを求めたのだろうか。それとも、ソ連での映画作りのルーティーンに従っただけなのだろうか?

話が脱線した。

タルコフスキーの、とりわけ、後期の発言はモノクロのほうがカラーよりも優れているという趣旨のものが多い。しかし、これは裏を返せば、色彩はそれ自体で何かを主張するということでもある。光と影の知的な構成に対して、多彩ないろどりは、個性の強い存在が自己をそれぞれに主張しているのに似ている。赤は現前する。青は遠くで凍り付いている。黄は溶けていく。

ーモノクロの世界からカラーの世界へ、あるいはその逆ー

サックスの本のカバーについて書いておこう。サックスの本はカバーを一枚めくると、このような絵柄になる。つまりカバーの中央部は円く切り抜かれていて、その下に描かれたソテツが見えているというわけだ。何としゃれた装幀だろう! モノクロの世界から一気にカラーの世界に突入するのだ。タルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』は長いモノクロのストーリーの後で、突然バーンとルブリョフのイコンの鮮やかな色の奔流が始まった。この逆、つまり色の世界からモノクロのコントラストへの劇的な変化は、私たちも経験する。冬のある朝、目を覚まして外を見ると、まばゆい銀世界がひろがっているときだ。color

ーゲーテの色彩論ー

シュタイナーは、ゲーテの科学の方法を受け継ぎ、それをさらに拡張発展させた。その考え方が分かりやすいのが、植物を例にとるときだ。先に挙げた3色、赤、青、黄は、植物の花の段階にはじめて現れる。葉は緑色をしているのが普通だ。だから、シュタイナーは、緑色は無生命(鉱物物質)に生命(植物実質)が宿った色なのだと言う。ということは、人間の皮膚が緑色になったら、危ない。魂が身体から逃げ出した色だからだ。


ー植物のかたちは、その味や薬効と関係がある?ー

メースの『シュタイナー医学原論』に収められた論考「ドラッグ」は、奇形の植物とでもいうべきもの、あるいはそこから抽出されたものと、それが人間の精神に与える影響とを関連づけようという興味深い内容だ。

ー世界から見捨てられて育った女性の描いた絵ー

その中でも、ユダヤ人の少女が描いた絵とメースによるその解釈は、衝撃的だった。1940年に両親はナチスの迫害に耐えかねて、亡命したが、子どもをつれていく余裕がなかった。そのため、典型的にユダヤ人顔の4歳の彼女は「家から家へとたらい回しにされるお荷物」になり、「信じられないほどの孤独と不幸を経験した。」そのトラウマは、戦後に両親が帰ってきて、実社会に入っても、消えることがなかった。それどころか、「ますます打ちひしがれたようになり」精神科の治療を受けることになった。そのときLSDで75回の治療を受けて、その治療の一環としてLSD意識で経験したイメージを描いたのだった。

ードラッグによって見られた霊界ー

メースは、LSD意識で見られた映像もまた、霊界の映像に由来することを意外な方法で明らかにする。ただし、その映像はLSD意識によって歪められていて、その結果、見ている本人には真の認識を獲得することが出来なかったのだが。メースは、シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』の記述と関連づけて、非常に興味深い解釈を提供している。

色彩が魂の経験と不可分に結びついている以上、LSD意識で見た心象風景は、カラー図版のほうがそれだけで多くを伝えることであろう。

ー本邦初公開のカラー図版ー

これから紹介する図版は、『シュタイナー医学原論』ではモノクロで掲載したものだ。ここには、日本初公開のカラー図版を掲載する。このような色遣いに何が見えるだろうか? また、重複する部分があるために、本には未掲載となったものも数点、掲載することにする。


drug1 第1の絵。
「がらんとした廊下。」
窓から分かるように「光は外側に」ある。
孤独の表出。
世界から疎外された「私」の心象風景。


drug2 第2の絵。
同じように「私」は「独りぼっちで」「外側に」いる。
「廊下」の窓のそばに近づいた感じ。
空間形成にゆがみやひずみが見える。


drug3 第3の絵。
「心臓に穴が空いて」いる。
「私」は「暖かさをまったく感じていない。」
「虚ろに感じて」いる。


drug4 第4の絵。
「私」の「絶望が極限に達した姿」。
煉瓦の壁に重く囲まれた圧迫感が痛々しい。


drug5 第5の絵。
疎外感がむき出しで出ている。
それと同時に、か細い手足が、何かを守る砦のように、組み合わされているのが見える。
「私」を取り囲む壁が赤と青であることも興味深い。
メースは次のように言う。
「私」が「魂の内に、見えないかたちで保持しているもの」が示されている。
「私」は「自分自身を『外側から』見ている」。


drug6 第6の絵。
「何か『他界』の印象」。
「私」以外の、「他の『存在たち』が見え」る。
「私」は「手で顔を覆って、ほとんど屈みこんでいる」。
「恥ずかしさ」からなのか? 
「感覚的印象が抑圧されたときに初めて啓示しうるような経験の描写」なのか? 
「私」は『千と千尋の神隠し』の千尋のように、異界に参入しなかったのだ。


drug6-1 この絵は、『シュタイナー医学原論』の図版から省かれたもの。
第6の絵よりも、多くの存在が見える。
「私」は他界の存在たちと向かい合っているのだが…


drug6-2 この絵も図版から省かれたもの。
左側に見える影はうなだれているように見える。
これは、右上方に描かれた超感覚的存在を正視できない「私」の姿だろう。
前の絵に大勢現れた存在のひとりに「私」は近づいたのだろうか? 
そして「私」が見つめようとすると、その存在は光となって溶けていくのか?


drug7 第7の絵。
ユダヤ人である「彼女の天国のイメージ」、「神のイメージは聖書(「出エジプト記」)に出てくる7つの大燭台、メノラーの表象と容易に結びつ」く。
ということは、左下に顔を隠した姿が見えるにもかかわらず、この絵は「私」の「見神経験」の表現ということになる。
そこからメースは「私は自分の体が溶けるのを感じました」という別のドラッグ体験を引用する。
たとえ、この「見神経験」をドラッグによる幻想と呼ぼうとも、こうした経験が人間に与える影響は、幻想ではなくリアルなものだ。
無視できない。


drug8 第8の絵
「生命の徴(しるし)がまったくない木」、「むしろ動物のような存在の印象」。
メースは「魔女の木」と名付ける。


drug9 第9の絵。
自画像。
「鼻の根っこから3本の手と腕が生えて」いる。
この絵は次の第10の絵と深い関連がある。


drug10 第10の絵
こちらはセッションの直後に描かれた。
第9の絵は、自分の描いたものが何か分からなかったために、もう一度描き直されたもの。
そのため、この絵で「植物状の形態」であったものが、第9の絵では「腕」に変えられている。
メースは、この第10の絵のほうがより正確だと言う。


強引に要約をしてみよう。これはとても危険なことだが、問題提起を兼ねて、思い切ってやってみよう。

『シュタイナー医学原論』138頁の結論から引こう。

ドラッグによる霊界参入の可能性が指摘されたわけだが、自らを霊的存在と実感する機会すら、彼女にはなかったようだ。まるで不法な手段で霊界に参入したかのようだ。

ー私たちはすでに霊的存在であるー

それでは、自らが物質的な世界で生きていることを自覚しながら、霊的な認識を深めていく、少なくとも、自らがすでに霊的な存在であることを認識する方法はないのだろうか?

ー大自然の生命現象に覚醒した意識で参入することー

メースは、ルドルフ・シュタイナーがドラッグについて話していないと断った上で、こういう。ルドルフ・シュタイナーは

「人間の魂の構造を徐々に変える修練について話しています。…たとえば、植物やその他の生命形態、つまり芽を吹き成長し繁殖し、衰微と崩壊と枯死に関連するあらゆる現象を熟視する訓練です。」

LSDの変成意識の経験からも読み解けるようなくだりが、シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』にあるという指摘など、刺激的なのだが、これ以上書くのはやめよう。


引用文献
Oliver Sacks, The Island Of The Colorblind. Vintage Books 1998
L.F.C.メース『シュタイナー医学原論』平凡社 2000年


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