ジェイムズ・グリーグ追悼、"CRAFTS"


マイケル・ヴォルカリング



"CRAFTS" の表紙と頁
英文 記事へ

NEW ZEALAND CRAFTS Volume 19, Summer, 1986 は、ジェイムズ・グリーグの告別式で述べられたヴォルカリングの哀惜の言葉を掲載した。


ジム・グリーグの告別式は自宅で執り行われ、家族、友人、同僚が参列した。彼の遺灰は日本から帰り、集まりの中央に置かれていた。

それぞれが彼の想い出を語り、ニュージーランド・エリザベス2世芸術院院長マイケル・ヴォルカリングが、他の多くの人々を代表して哀惜の辞を述べた。


私がジム・グリーグの噂を聞いたのは、熱気球に情熱を燃やす陶芸家としてでした。それは、とびきり根元的な興味の組み合わせで、いつも私の心に響いたものです。いずれの場合にも火のエレメントが使われます。一方では重力に抗するために、一方では表現目的に合わせて陶土を変容させるためにです。

1980年にハンセル彫刻展でジムの作品を目の当たりにしたときはじめて、こうした興味がジムにとって形而上学的対極を表象していることに気づきました。すなわち、重力は収縮と死を意味し、(重力に対立する)軽力が生命と成長を意味するということです。

そうした精神的な関心が、芸術家としてのジムの仕事の核心にありました。自然に現れるパターンと過程と形態は、彼の作品に霊感と追認を与える源泉を、尽きることなく提供しました。

自然はまた絆となり、ジムの知的な発達を刺激した2つの補完的な思想の伝統ードイツ・ロマン主義と日本の哲学と美学ーを結びました。

バーナード・リーチと濱田庄司の仕事を通じて、日本文化への橋を最初に提供したのは、ジムの師匠レン・カースルでした。この10年の場合、民芸運動の作家の模範が、ジム自身の創造的な発達に新鮮な衝動を生み出しました。

1979年に私は日本訪問の幸運に恵まれました。京都で、私は、河井寛次郎記念館と、素晴らしい登り窯のある彼の仕事場を見ることが出来ました。そういう状況で河井の仕事を見ることは、私に、河井の生活と芸術の間に深い連続性を確立しているホリスティックな価値観、生活と芸術を一体として見る感覚を、感じさせました。

ジムは、私より1年早く河井寛次郎記念館を訪れていました。この出会いの衝撃が、彼の成熟した作品のすべてを形成することになったのでした。

生活と芸術の両面で、ジムは、河井が成し遂げたような、この同じ統合性、高潔さを成就しようと努めていました。彼の芸術的な成就には、一貫性と、その蓄積があります。形態の実験として1980年に始まった探求は、自信にあふれた記念碑的な規模に達して、今年終わりました。

ジムの仕事はニュージーランドで比類ないものです。有用性という間口の狭い考え方によって、あまりにもしばしば萎縮してきた工芸に潜在する表現と彫刻の次元を、ジムほど、包括的に実証してみせた芸術家は他にいません。

彼の仕事はサー・ハーバート・リードの逆説の規範となっています。すなわち、「陶芸は、あらゆる芸術の中で最も素朴でありながら、最も難しい芸術である。すなわち、最も基本的なものであるがゆえに、最も素朴である。そして最も抽象的であるがゆえに、最も難しいのである。」という逆説です。

1983年からジムは、日本で作品を作り、展示することで、自分の芸術的発達の価値の確認を求めました。彼が生きているときに、ジムの仕事は、他の西洋の陶芸家が拒まれた日本での認知を成就したのです。日本は、彼にとって、まさしく究極の精神的な故郷となり、彼の創造的活動の焦点となりました。

ジムは、芸術が他の人間的経験を活気づけ、それと平行関係を生み出すことを十分に承知していました。彼は人生の行路を、創造行為と同じくらい深遠で複雑な形成過程と見ていました。もしかすると彼は、自分の人生の描いた円環が自分の美的な関心のパターンをなぞって反復するという事実に、自分にふさわしい何かを見いだすのではないかと私は思います。

彼は人生を、確信と強烈な集中力で生きました。私たちは、彼を亡くしたことを認めなければなりませんが、彼の業績をも称えなければなりません。ジムはもはや重力に挑むことは出来ません。しかし、彼がかくも寛大に仕事をしたために、彼の精神的な関心を示す恒久的なイメージは、火によって陶土に固定されて豊富に残されました。この事実によって、私たちがそれだけ 豊かな存在になっていることに思いを致しましょう。


ホームへ