「海辺のカフカ」を読んだ
仕事で頭に疲れがたまって来ると、私は無性に小説を読みたくなる。ブームとか巷の話題とかには関心が低いせいか、今まで村上春樹は読んだことがなかったのだが、2002年の秋、タイミングよく知人にこの本を勧められるがままに買ってしまった。
疲れた脳ミソには純文学の方がいい。読み終わったあとのズッシリ感がなんとも言えない。エンターテイメント系では、どうも読後感に乏しい。心に何かが残れば、不思議に疲れが取れていく。この小説は、どっちなんだろう?。村上ファンには怒られそうな動機が生まれて、読んでしまった。
ストーリーは昔の集団昏睡事件からはじまるのだが、途中から現在の少年が主人公だと分る。サイキックエネルギーなどのモチ−フがちりばめられた不思議な仕立てで話が進む。以前神戸で起きたショッキングな事件「サカキバラセイト」を思い出す。さすがにベストセラー作家なのだろう、登場人物の描写や場面もあざやかで、上巻を読み終わったころには、「少女劇画マンガ!」を読んで(見てい)る気がしてきた。
本筋は、一般からかけ離れた猟奇的な父親と嫌々暮していた主人公である息子が、15才の誕生日の前夜に母を探す旅に出て四国に渡り、この世の彼岸を彷徨ったり、限り無くそれらしい女性と巡り会って交わったりしながらの「危ない」遭遇を描く体験物語となっている。
14、5才の少年は、多感である。死後の世界、エロチックな目覚めと憧れ、自己のルーツとアイデンティティへの意識、狂気、あるいは超現実の世界など、自分の少年期を振り返ってみても常識の範囲を逸脱して、関心の領域が高揚する時期である。そうしたモチーフにあった特異な脇役を登場させて話が進むのだが、本筋は境界(少年に訪れるハードル)と通路(ハードル越え)の展開として読めた。それをメタファーと気づけば、連想したり読み替えたりして気楽に読み進むことができる。東京から西に向った少年は、まず四国に渡って自身も求めるようにして図書館に落着く。そこが、物語の交差する舞台となって話がだんだん見えてくるのだが、例えば何で図書館なのか作者の意図が臭ってきた。
話がそれるが、人智学のルドルフ.シュタイナ−は、人間の成長は7年きざみで意思、感情、知性を順番に発達させて、それらのバランスが7年×3段階の21才で偏りなく成長して真っ当な大人になるといっている。これでいくと14才から15才は、ちょうど感情の発達が終わって知性の発達に移行する時期に当る。物語りのなかで、作者はこの少年をどこに向わせようとするかと問ってみる。図書館は知性のメタファーであったと考えれば察しがついてくる。15才になった少年は、図書館に巡り着くのだ。観念的に言えば、そうならざるをえない。
こうした メタファーがこの小説では特徴的なのだが、その行き着く先は神話である。その神話となれば母と父は、なじみの登場人物である。両性具有者もしかりである。父は主人公の行動の起点となり、目ざすのが母、調停するのが両性具有者とみてとれる。その両性具有者は、母らしき人が館長をつとめる図書館の司書として少年を仲介し、設定した「境界」に関してニュートラルなガイド役をこなしているのは、いかにもである。
結局、その館長と少年は交わるのだが、自身を母とは名乗らなかった。その後彼女は死ぬ。村上はなぜ名乗らせなかったのか。小説はそんなものだと達観できない私は考えてしまう。文脈上明かせないだろうというのも察しがつくが、少年の母親にどうしてもしたくなかったのである。
言うまでもなく母と名乗れば、彼女は一少年の個別な一母親であり、会えてよかったで終わるか、近親相姦のイメージが付着する。新たな神話は、どの時代においても、現実の了解不能な負の事件から発想され、作家のイマジネイションでふくらむことがあっていいと思う。村上は、現代に合わせて神話的なストーリーを構想したのだ。余談だが、巷の識者はこれをどう評価するかで意見が割れているようである。
小説なりの作品を観賞者としてだけでは味わえなくなって、私は久しい。ついついこれはどう作っているのか、分野は違うが同じ「もの」の作り手として作品を眺めてしまう。例えば住宅と文学とでは表現媒体も機能も住人も何もかも違いそうだが、小説にも空間があると思っている。歩いて建物は体験するように、読むことで小説を空間体験する。そこには練られた計画が有る。作者の思いやデザインに触れる。村上春樹の作法は、なんとなく建築に近いようだと気づく。
この小説は、出くわす境界と通路を登場人物に絡ませて綿密にスケッチして、15才の少年が遭遇する平面図を描いたといえないか。日常的な生活空間から、はみだすものが浮上した時、異次元が意外と近いところにあったことをあらためて気づかされる。
追記:070320
この小説の中味は、1970年代ごろ流行った、記号論、サンボリズム(シンボリズム)などの表象論を連想させる。当時、建築家の磯崎新は、都市が実体/機能/構造/象徴の段階で発展するというモデルを提示してその4段階目の象徴論で都市を語っていたが、建築も象徴論の言説で語られることが流行っていたことを思い出す。私は当時学生だったが、現代建築がどういった論理や考えで出来ているのか興味があって、この分野の人文学系の本を読んでいた。そこには、神話のことが沢山でていたのだ。古今東西を見ても象徴の一つ典型が神話だからである。
昨年の新聞記事によれば,「海辺のカフカ」が西欧の多くの国で売れているそうだ。神話的モチーフが新鮮だったのだろうか。あるいは、村上春樹的神話の語り口が受けたのかもしれない。
翻って、現代の建築デザインの世界では神話的モチーフとまるで正反対の動きのほうがこのところずっと活発だったのである。神話的な仮面をはがしていくような指向も含めてである。そんな状況のなかで、神話という言葉が(嘘を含んだ)真実というような意味で使われているのが、気にかかる。
本来の神話はもっと、精神的で心豊かなものだったはずです。その神話というものが今はスライドして消費社会のシステムに組み込まれてしまっているように思えてくるときがあって、残念でならない。その辺の気持ちを、この小説はさりげなく、そしてうまく救ってくれているところがいいのだろう。