昨年6月に沖縄名護市の伊地美香さんが中学校からの帰りに拉致され、その後県民挙げての大捜索が行われた。今年1月1日、容疑者の供述により、沖縄北部の山中から中学生の遺体を発見したという事件である。沖縄では美香さんのポスターが全県に張られ、県民挙げての捜索が行われていた、という。
全国紙の『朝日』『毎日』『読売』、地方紙の『北日本』、ブロック紙の『北陸中日』、英字新聞の『ジャパン・タイムズ』の遺体発見の報道(97.1.3)を見た。事件の地元の『沖縄タイムス』はインターネット版(1.4)を見た。
この事件の被害者が性的に被害を被ったことがわかった時点で、「亡くなられた少女の名誉から名前を出さないほうがよい」と、被害者匿名にして性犯罪であることを示す「不明女生徒、遺体で発見」(東京版14版)としたのが『朝日』である。「偏西風」という福岡版のコラムには「他の大半のメディアは実名、顔写真付きだったが、横を見るより、読者をまっすぐ見つめて議論を続けていきたい」と『朝日』の判断が読者の意向に沿ったものであることが強調されていた。私はそこで、うーんとうなった。
実際、私たち「メディアの中の性差別を考える会」は、強姦され殺された女性は実名で報道というメディアの慣行に疑問を投げた(『メディアに描かれる女性像ー新聞をめぐって』(桂書房))が、匿名にすればそれでいいかというと、そうではない。
とりわけこの事件は6月の拉致以降、2万枚のポスターによる公開捜査と地元民2500名による捜索が行われている。パソコン検索で調べたところ、『朝日』で「伊地美香」さんのニュースは17件もあった。これが美香さんの事件であることは「みんな知っている」。こういう条件でも性犯罪だから匿名にするのが読者の希望だろうか。レイプが常に匿名で報道されるのは、女性をモノ化するレイプを報道が追随することになるという主張もある。私はこれでいいとは決して思えない。
また、「見知らぬ男たちによって拉致された15歳の少女が殺害されるまでの時間は容疑者によると約2時間だった」(朝日1.4夕福岡版「偏西風」)と殺されるまでを想像させる。どのような暴力性を持った犯罪かということは文面では明らかにされない。そうした匿名報道が性犯罪であるという「事実に即した」報道で、「少女の尊厳」も守ったと言えるのだろうか。何が疑問が残る。「少女だから人間の感情としてより痛ましい」(朝日東京本社読者広報室)というのは、実は「乱暴」は「わいせつ」なことで女性を「キズモノ」にするという性意識が払拭されていないのではないだろうか。
一方、『沖縄タイムス』はこの事件が「学校現場での拉致、全県民を巻き込んでの捜索ということで今さら匿名にしても明らか。社会的影響が大きいので、そのこと(性犯罪)には踏み込まない方がいいという判断」(社会部長)で実名報道を通し、性に絡んだ犯罪であることには触れない記事にした。『毎日』と『北日本』『北陸中日』『ジャパン・タイムズ』も同様の対応であった。このように性犯罪を隠蔽するのも、実は匿名報道と同じ性意識から来ているのではないだろうか。
95年9月沖縄の地で起きた米兵による「少女暴行事件」の報道を地元社が控えた理由が思い出される。沖縄タイムスの金城・屋良記者が「家族や親族の屈辱、恥辱」を少女の苦痛と恐怖とともに挙げている(『総合ジャーナリズム研究』155号)。性犯罪は「恥辱」であり、「少女だからより痛ましい」というのは、性犯罪が暴力犯罪であることへの認識が弱い。「減るもんでもないから」と女に性交渉を強要するレイプ文化と共通する認識である。メディアに限らず、これまで多くの女性も共有してきたものだ。
『読売』は、実名で顔写真、捜索現場の写真つきで、「乱暴」や殺害、遺棄の方法を詳しくセンセーショナルに報道していた。報道の目線が犯罪の暴力性より性的被害の痛ましさに集中している。この記事の見出しは「拉致少女」であり、その含意は「少女への恥辱」である。むしろそれをもっとも露骨に表象している。結局、「少女の恥辱」報道から抜け出た報道はなかった。
一方、アメリカでは91年4月、エドワード・ケネディ上院議員のおいケネディ・スミスを容疑者とするレイプ事件の報道で被害者実名報道がなされ、論議が巻き起こっている。当時、産経新聞ニューヨーク支局の千野境子は、騒がれたケネディ事件の引き金を引いたのが実はデモイン・レジスター紙のオーバーホルサー編集長とショーラー記者、被害者のジーゲンマイヤーという「3人の女性の総意と協力」からなるレイプ事件実名報道であったことを明かしている(『新聞研究』91年6月)。女性編集長が「匿名報道は近代ジャーナリズムの数少ない沈黙の陰謀」だという署名入りのコラムを書いた。それに意を決して名乗り出たジーゲンマイヤーにショーラー記者が取材した報道は、読者の反感や反発を買うことを心配したが、むしろ多くの賛辞が寄せられたという。そして91年のピューリッツアー賞を受賞している。
この実名報道の発端には、匿名報道は「レイプ犯罪のスティグマをいやすことにはならない」という編集長の考えがあった。レイプにたいする社会の認識を「恥辱」から「暴力犯罪」へと切り換えるための英断として実名報道がなされていた。レイプ事件を実名報道とすることの意図として、報道するものとされるもの両者間のフェミニズムに基づいた「レイプは暴力犯罪」をキャンペーンする共通の目的があったことを同じく女性記者である千野が明らかにしている。
そうした動きから現在日本で行われている「少女の尊厳」を守る匿名報道と「レイプを隠した」実名報道を見たとき、まだまだ日本のメディアが男社会であることを知らされる。実際、アトランダムに新聞社に電話して女性が応対されることは少ない。
だが、新聞社が読者の動向に関心を寄せていることも確かであった。担当者と話したが、「こちらもどうしたらよいか、悩んでいる。議論を投書欄や論壇に書いてほしい」という社や「難しい話で簡単に答えられることではないので、社会部長とお話ください」という社など現場でも対応が揺れていることがうかがわれた。「乱暴という表現を使っているけれども、それも適切かどうかもわからない。よりよい表現があれば教えてほしいくらいだ」「今後の裁判で、どのように報道するかも考えなければならない」など「レイプ事件被害者女性の扱い」が「人権問題」の範疇に入っているようであった。
乱暴された様子や殺害された方法などを詳しく報道することが事実報道だというのは言い逃れに過ぎない。単なる「のぞき見」と言われても仕方ないだろう。日本の新聞社のガイドラインでは、実名報道を基準とするが「遺族感情なども考慮して匿名にする場合もある」というだけである。それではあまりにも不十分だ。
95年9月の沖縄の「少女暴行事件」では、当事者女性がレイプ犯罪をなくすためにも自分の事件を告訴することを望んだと報道されていたが、女性たちの中に「レイプは暴力犯罪」という認識はかなり一般的になっていると思う。そうした時に、女性記者がマイノリティであるメディアの報道をどうするかは重要な問題であろう。日本でも性犯罪報道が転機に差し掛かっているという認識が現場にもある。今、わたしたちがこうしてほしいという提起をすることは重要である。
私は、被害者やその家族など取材対象の自己決定権を最大限尊重することがメディア側の「基本的人権尊重」の第1関門ではないか、と考えている。
今まで「メディアの表現の自由」が大手を振っているため、取材対象者の「どのように表現されたいか自己決定する権利」がないがしろにされてきた。女性に限らず報道被害が続出している中、特に「基本的人権」が顧慮される性犯罪報道においては、これまで剥奪されてきた取材対象者の自己決定権や自己定義権を最大限に尊重した報道を期待したい。
言説という権力の磁場において、取材対象者の権利を無視したプレスの自由は認められないはずである。
『沖縄タイムス』に聞いたところでは、地元社も被害者家族に「どのように報道されたいか」については問い合わせていないという。
どんな報道がいいか悩むのであれば、内部だけで悩まないで当事者や家族、あるいはそうした問題に関心を寄せる人々(女性記者を含む)に相談してほしいと思う。
また、レイプに声を上げにくい性の2重規範を私たちが自分の問題として議論していきたいと思う。
【『日本女性学研究会ニュース Voice of Women』, No.178,1997年 2月に掲載。一部変更】