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靖国問題を問い直す9つの視点
 
 
───議論の前提に誤りあり
 
 
by 斎藤吉久, SAITO Yoshihisa
 
 
 
1、公有地内神社を標的に
 
 北海道砂川市空知太(そらちぶと)。北隣の滝川市との境を流れる、石狩川の支流・空知川のほとり、市発祥の地といわれるこの地に鎮(しず)まる空知太神社は、この地方屈指の古社です。明治の開拓民は必ず参拝し、成功を祈願したと伝えられ、境内には開拓功労者の顕彰碑や明治期の道路工事で犠牲となった囚人たちの慰霊碑などがあります(『砂川市史』砂川市、昭和46年など)。由緒ある地域の守り神ですが、宗教法人ではなく、常駐する神職もいません。管理は住民らが行ってきました。
 
 その神社がいま、反ヤスクニ派の標的となり、裁判闘争に巻き込まれています。原告らが問題視したのは境内地が市有地にあるからで、市に対する公開質問状や監査請求のあと、平成16年、平和遺族会の代表者と中国帰還者連絡会の活動家の二人が「神社に市有地を使用させているのは政教分離違反」と札幌地裁に訴えました。
 
 歴史的に見ると、全国に約8万社あるといわれる一般の神社の場合、これはお寺も同様ですが、明治維新後、上知令によって社寺境内地が国有化されました。空知太神社の場合は、判決文などによると、明治25年ごろ、開拓民たちが五穀豊穣を願い、いまは小学校がある隣接地に祠(ほこら)を置いたのが始まりとされ、その後、北海道庁に境内地の御貸下願を提出して認められ、神社が建てられました。つまり、そもそも公有地にあったことになります。神社の持つ公共的性格に加え、北海道特有の歴史の浅さが背景にあるのでしょう。
 
 時代が代わり、戦後の国家管理の廃止で、一般の神社は国有境内地の払い下げを受けましたが、空知太神社はこの制度変革に洩れてしまったようです。その後、隣接する小学校が拡張することになり、建設用地として境内地に白羽の矢が立ち、神社は一人の住民が新たに無償提供した近くの私有地に移転しました。ところが固定資産税などの負担が残ったことから、住民が砂川町(当時)に境内地の寄付を願い出、代わりに無償使用が認められたのでした。
 
 反ヤスクニ派の運動家たちが、靖国神社とは直接結びつかない、こうした公有地内の神社に目をつけたのは、つい最近です。今春、原告敗訴の最高裁判決がすべて出揃い、決着した一連の小泉靖国参拝訴訟の次に狙い撃ちにされているようで、空知太神社以外にも長野・信州大学構内神社について訴訟が起こり、北海道ではほかの神社へ飛び火、拡大しそうな気配があります。「公有地内の神社が合憲なら、靖国神社の境内を国有化できる。国家神道の復活が避けられない」というのがその言い分です。
 
 
2、議論の前提に誤りあり
 
 いわゆる靖国問題はいつまでたっても議論百出、法廷闘争が続いて出口がいっこうに見えてきません。なぜでしょうか。
 
 一つの理由は、一口に靖国問題といっても、内容が論者によって一様でないからでしょう。憲法の政教分離問題なのか、A級戦犯の合祀問題なのか、歴史検証の問題なのか、みんな一緒くたでは解決の糸口が見えてくるはずはありません。
 
 しかも議論の前提にはしばしば誤りがあります。藤原正彦・お茶の水女子大学教授が『国家の品格』で指摘したように、「どんなに論理の展開が正しくても、出発点となる前提が誤りなら、結論は絶対的な誤りになる」とすれば、まともな問題解決は最初から期待できません。逆にいえば、ハナから問題解決を望まない、批判のための批判なら、当然、議論の前提など省みない堂々めぐりが続くことになります。
 
 しかしそれでは済みません。そこでまことに僭越なことですが、以下のような9つの視点で論点を整理し直し、議論の前提に立ち返り、歴史と事実を踏まえながら、本当は何が問われるべきなのか、筆者なりに靖国問題の再検証を試みたいと思います。
 
 ①宗教政策論としての靖国問題=日本の政教分離政策には全体的な一貫性がない。神社には厳格な分離政策が追求される一方、仏教・キリスト教には緩やかな分離主義が採用されている。
 
 ②A級戦犯合祀批判としての靖国問題=靖国神社は「A級戦犯」を合祀してはいない。戦争犯罪を神聖視しているわけでも、戦争犯罪者を神と崇(あが)めているわけでもない。
 
 ③歴史批判としての靖国問題=遊就館の展示が「侵略戦争肯定」と批判されているが、靖国神社に特定の歴史観はない。慰霊の世界に次元の異なる歴史批判を持ち込むことは意味がない。
 
 ④司法問題としての靖国問題=客観的事実に基づいて司法判断を下すのが裁判所の役割だが、ヤスクニ裁判では往々にして一昔前の誤った近代史理解にしばられて判決文が書かれている。
 
 ⑤メディア問題としての靖国問題=靖国神社を「軍国主義のシンボル」と批判する大新聞があるが、戦前、靖国神社をシンボルに仕立て上げたのは同じ大新聞の商魂である。
 
 ⑥キリスト教問題としての靖国問題=教会指導者が強調する「戦前の迫害」に実証性はない。「国家神道復活」を恐れて、批判を繰り返すのも、虫歯予防に抜歯するようなものである。
 
 ⑦中国問題としての靖国問題=首相の靖国参拝が中国国内で問題化したのは中国の内政問題からである。対日強硬派が改革派を牽制する道具として靖国参拝が利用されたのである。
 
 ⑧韓国問題としての靖国問題=韓国の国立墓地には「軍事独裁者」の墓もある。抗日・反共のシンボルだが、日本の皇族、歴代首相は表敬している。一方、韓国要人の答礼はない。
 
 ⑨天皇にとっての靖国問題=昭和天皇の側近者のメモなどからA級戦犯合祀を不快とする「天皇の心」が明らかにされたと指摘されるが、大御心(おおみこころ)とは日々移ろう私人的「心」ではない。
 
 以上が靖国問題を問い直す9つの視点ですが、ここでは紙幅の制限上、このうちのいくつかについて検討し、そのうえで問題解決の方向性を探ることにします。
 
 
3、一貫性なき政教分離政策
 
 まず、日本の宗教政策の一貫性の無さです。
 
 冒頭に紹介した空知太神社のケースでは、札幌高裁は今年(平成19年)6月、原告の訴えを認め、「市が町内会に祠などの撤去を請求しないのは憲法の政教分離原則に違反する」と、一審に続いて違憲判決を言い渡しました。
 
 ここに神いませり、と祖先たちが崇敬した信仰対象に、出ていけ、と迫るのは尋常ではありません。それだけ厳格な政教分離の考え方を採っていることになりますが、この裁判がそうであるように、厳格なのはもっぱら神社に限られます。こと神社に関する場合は訴訟が起こり、公機関に宗教的無色中立性を求める絶対分離主義の判断が示される一方、仏教やキリスト教の場合は、緩やかな分離政策が採られ、不統一性に疑問も持たれないでいます。
 
 敗戦後、占領軍はいわゆる神道指令を発し、「国家と宗教の分離」を名目に神道への圧迫を加え、駅の門松や注連縄までも撤去しました。「国家神道」こそ「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉だと誤って理解していたからですが、占領後期には「宗教教団と国家との分離」という緩やかな政教分離主義に解釈変更し、それゆえ松平参議院議長の参議院葬は神式で行われ、吉田茂首相の靖国参拝も認められています。
 
 独立回復の前日には昭和天皇の御臨席のもと戦没者の追悼式が新宿御苑で行われました。いまも終戦記念日には政府主催で戦没者の慰霊追悼行事が行われます。東京都には都慰霊堂があり、外郭団体が主催する仏教教団持ち回りの慰霊法要が行われます。長崎市にある二十六聖人記念館・記念碑は市有地に宣教団が建てたもので、その後、市に寄贈された記念碑では毎年、野外ミサが行われます。また地方自治体の多くは公営墓地や斎場を所有・運営しています。
 
 これらは緩やかな分離政策によるものですが、反ヤスクニ派はGHQの政策変更の歴史については目をつぶり、憲法を教条的に解釈する絶対分離主義の立場で、GHQでさえ捨て去った神道撲滅運動に血道を上げています。
 
 行政は行政で、近年とみに公的追悼施設および追悼行事から宗教性を排除することにきわめて熱心で、日本の宗教伝統を否定したうえで、無宗教施設を各地に建設し、あまつさえ異国の宗教にすり寄っています。たとえば、広島・長崎には原爆犠牲者を悼む無宗教の国立祈念館が建てられ、阪神大震災10年の追悼式典ではキリスト教音楽が流れました。
 
 空知太神社訴訟の下級審判決のように、小さな祠といえども宗教施設であり、公有地内にあるのは「特定宗教を援助・助長・促進するもので違憲」というのなら、長崎県が取り組んでいる県内の教会群を世界遺産に登録する運動も憲法違反になるでしょう。しかしそうした声は聞かれません。問題にされるのは日本の民族宗教である神社だけです。
 
 反ヤスクニ派の裁判闘争が続き、完全分離主義に立つ判決が確定し、神道外しの宗教政策が続けば、信州大学の構内神社が更地にされたように、日本の公有地から神社や祠が、早晩、消えていくことになるでしょう。
 
 
4、A級戦犯を祀ってはいない
 
 靖国神社に関する誤解・曲解の最たるものは「A級戦犯の合祀」です。まるで同社が戦争犯罪を神聖化し、戦争犯罪人を神と崇(あが)めているかのようにことさら強調されがちですが、事実ではありません。したがって首相参拝に関して、「侵略戦争の指導者を祀る神社に首相が参拝することは侵略を正当化し、戦争責任を曖昧(あいまい)にし、偏狭なナショナリズムを刺激する」という批判も的外れです。
 
 逆説的ないい方ですが、靖国神社はA級戦犯を祀ってはいません。小泉首相の参拝について、あるメディアは「首相の靖国参拝で議論になるA級戦犯とは、この裁判で裁かれた指導者のことだ」と批判しましたが、「首相参拝で議論になるA級戦犯」と「東京裁判で裁かれた指導者」は必ずしも同一ではありません。
 
 「A級戦犯」は東京裁判の被告(容疑者)28人を指して用いられたのが最初ですが、裁判の公式用語ではありません。出所不明、概念も不明確な用語です。極東国際軍事裁判所条例は「重大戦争犯罪人(第一級戦争犯罪人、the major war criminals)」と表現しています。読売新聞が「A級戦犯」を使ったのは、「星条旗新聞」を引用した昭和21年1月の記事が最初のようですが、前日付の「Stars and Stripes」には「A級戦犯」の表現はありません。
 
 28人の「第一級戦争犯罪人」は朝日新聞法廷記者団がまとめた膨大な傍聴記録『東京裁判』などによると、「一地域に限定されない」戦争犯罪の容疑者の意味でした。あくまで容疑者で、裁判の結果は被告全員が有罪ではありませんから、「被告28人」「有罪判決を受けた25人」「死刑となった7人」あるいは「合祀された14人」を未整理のまま、十把一絡げに議論すれば当然、混乱を招きます。
 
 靖国神社に合祀されているのは、絞首刑となった7人受刑中に死亡した5人、それと公判中に病死した2人、の計14人です。禁固刑で服役し、その後、平和条約に基づき、国際社会の同意を得て、減刑、赦免、出獄した戦犯や免訴となった容疑者もいまはすべて鬼籍の人ですが、合祀されてはいません。
 
 「A級戦犯を祀る靖国神社」という場合の「A級戦犯」とは誰を指しているのか。28人の被告全員を意味するつもりなら明らかに間違いだし、14人を指しているのなら、終身禁固刑の戦犯は批判の対象とせずに、公判中に未決囚のまま死亡した被疑者を批判するという矛盾を抱えることになります。
 
 今年の春、国会図書館は1200ページにおよぶ「新編 靖国神社問題資料集」を公表しました。戦犯者の靖国神社合祀をめぐる経緯についての文書なども含まれていますが、注目すべきことに、厚生省が「東京裁判の刑死者および獄死者」として合祀を進めていたのは12人でした。
 
 新資料集の公表後、新聞各紙はいっせいに論説に取り上げ、論評しました。たとえば朝日新聞は、旧厚生省が戦犯合祀に深く関わっていた実態が浮かび上がったと指摘しました。国に命を捧げた殉国者を認定できるのは国以外にはありません。多かれ少なかれ、国が合祀の過程に関わることは当然で、批判は当たりません。また読売が書いているように、厚生省が昭和41年にA級戦犯の祭神名票を神社に送ったあと、神社が実際に14人を合祀したのはそれから12年後で、国と神社は「一体」ではありません。
 
 この点、毎日が「神社側が抵抗していた」と指摘しているのは注目されます。靖国神社が一民間の宗教法人ならば、誰を合祀しようがまったくの自由ですが、当時の靖国神社には、神社が戦後、宗教法人となったのは占領軍のいわば強制によるものであり、神社本来の国家的性格を回復することが先決である、という判断があったのでした。
 
 雑誌「正論」平成18年12月号掲載の拙文「知られざる『A級戦犯』合祀への道」に書いたように、戦犯の減刑・赦免は国民の強い要望と、関係各国の決定に基づいています。戦犯合祀のきっかけは、昭和30年の沖縄・ひめゆり部隊88人の合祀で、当時の朝日新聞によれば、厚生省の職員はこのとき「やがて軍人、民間人を問わず、祀られるだろう」と語り、「読者応答室から」には「靖国神社では将来、戦犯刑死者などの合祀を考慮しています」とあります。
 
 
5、戦前を清算していない大新聞
 
 今年(平成19年)の春、靖国神社の例大祭に安倍首相が真榊を奉納したのを一部のマスコミが問題視しました。4月下旬に三権の長などが真榊を奉納したのを、翌月になって「首相が奉納」と報道し、「ナショナリズムの地金を小出しにする限り、ジレンマから抜け出せない」(朝日)、「不参拝を明言したら」(毎日)などと社説で批判しました。
 
 とくに朝日の社説は「忘れてならないのは靖国神社の性格だ」と指摘し、「隣国を侵略し、植民地化した戦前のシンボル。その歴史はいまも遊就館で正当化されている」と一刀両断にしていますが、侵略戦争というのなら、それを煽った大新聞の責任はどうなのでしょうか。
 
 朝日新聞は平成7年、連載「戦後五十年 メディアの検証」でみずからの戦争責任を検証し、「日本のメディアは軍・政府の統制を受けていた。統制は満州事変以降、太平洋戦争末期になればなるほど厳しさと細かさが増していった。新聞側はその流れに強く抵抗できないまま次第に迎合していく」と振り返りました。そして昨年の「歴史と向き合う」では、朝日新聞が満州事変を機に軍部との「全面対決」から「変節」した背後には「右翼の圧力があった」とさらに踏み込みました。
 
 昭和6年10月1日の大阪朝日の社説は、それまで堅持してきた「中国ナショナリズムの積極的肯定の理念」と「東北各省は中国の一部という認識」を捨て、満州国の設置が必要だという主張に転換したのですが、なぜ転換したのか、連載はその謎に迫ったのです。そして、外力に屈した結果であり、新聞は時代の犠牲者だと結論づけたのです。
 
 けれども、歴史の真相はそうではなく、大新聞はジャーナリズムよりビジネスを優先させ、むしろ積極的に戦争の時代を演出したのではなかったでしょうか。そこで利用されたのが靖国神社だったのではないでしょうか。
 
 朝日新聞は戦時中、「戦争美術展覧会」「聖戦美術展」「大東亜戦争美術展」「陸軍美術展」など、国民の戦意を高揚させるイベントをいくつも手がけています(『朝日新聞社史・資料編』編修委員会編、1996年、非売品)。社史にはなぜか載っていませんが、昭和14年1月には靖国神社を主会場とする「戦車大展覧会」を主催し、戦車150台を連ねた「大行進」が東京市中をパレードしたこともあります。
 
 戦争は新聞ビジネスにとって時の氏神でした。「事変発生とともに朝日新聞の部数は増え続け、7年2月29日には『事変以来、今日にて東朝二十万、大朝二十七万余部増加』と記録される増加ぶりだった」(『社史』)のです。驚くべきことに、戦後の高度成長期を上回る勢いで部数が拡大し、収入は増大しました。「新聞は非常時によって飛躍する」と『七十年小史』(朝日新聞社、1949年、非売品)に歌い上げられているほどです。けっして時代の犠牲者ではありません。
 
 一方、戦前、30年にわたって靖国神社宮司の地位にあった賀茂百樹(ももき)宮司は戦意高揚どころか、平和を訴えています。晩年、病床で口述した「私の安心立命」(昭和9年)には「神ながらの武備は戦争のための武備ではない。戦争を未然に防止し、平和を保障するのが最上である」とあります。
 
 もし靖国神社が「軍国主義」のシンボルだというなら、「軍国主義」を煽り、神社をシンボル化したのは間違いなく大新聞でしょう。言論より商売を優先させ、靖国神社を利用して「戦争の時代」を演出し、「経理面の黄金時代」(『七十年小史』)を築いたのです。それが掌を返すように、いまさら靖国批判を繰り広げるのは責任転嫁であるばかりでなく、アジテーションという点では何も変わっていないのではありませんか。健全な朝日ジャーナリズムの復権を心から願うばかりです。
 
 
6、中国国内の熾烈な権力闘争
 
 小泉首相の靖国参拝が日中関係を凍り付かせたと理解されていますが、正しいでしょうか。
 
 今春、中国の温家宝首相が訪日しました。「氷を溶かす旅」を精いっぱい政治的に演出する3日間で、そのハイライトは中国首相としては初めての国会演説でした。
 
 30分余りの演説の前半は中国共産党流の歴史回顧でした。温家宝はしばしば話を中断し、みずから拍手して賛同の拍手を求め、日本の議員たちは素直に応えました。儀礼的な歓迎の意味合いでしょうが、その光景はまるで温家宝の中国中心の歴史観と主張に日本の議員が賛成しているかのように映りました。
 
 温家宝の狙いはそこにあったのでしょう。主演男優を盛り立てる大部屋俳優の役回りを日本の議員が演じさせられた政治ショーはそのまま中国にテレビ中継されました。日本を属国並に従わせる温家宝の演技は、中国の権力中枢、とくに政敵である対日強硬派に向けられています。
 
 9年前に来日した江沢民国家主席は「日本は中国にもっとも重い被害を加えた」と小渕首相に噛みつき、宮中晩餐会で無遠慮に日本の過去を批判し、行く先々で「正しい歴史認識」を強調し、顰蹙(ひんしゅく)を買いました。一方、温家宝は待遇の形式でも内容でも江沢民を凌駕しています。「対日重視」を唱えながら、それでいて「反日」江沢民以上に日本を押さえ付けたとなれば、強硬派も沈黙せざるを得ません。
 
 政権発足以来、胡錦涛・温家宝体制は日本を戦略的に重視する「新思考外交」を展開し、胡錦涛国家主席は平成4年5月、ロシアで実現した小泉首相との初会談で、靖国参拝にはまったく触れず、歴史問題を後景化させる方針をみずから示しました。日本の存在を抜きにして国が成り立たない中国にとって「反日」が国益に反することは明らかで、日本重視は当然でした。
 
 しかし新外交は一年も経たずに挫折します。同年十月にバリ島で小泉首相と会談した温家宝は靖国問題に触れず、新外交を呼びかけましたが、帰途、同行記者団に心を許した小泉首相が「参拝は中国も理解している」と語ったことが報道されると、温家宝のメンツが失われたばかりでなく、党内強硬派の激しい批判にさらされ、建国以来最大規模といわれる反日暴動がおきました(清水美和『中国が「反日」を捨てる日』講談社+α新書、2006年など)。靖国問題を政争の道具とした対日重視派と強硬派との対立が激化しました。
 
 ところが小泉首相のたび重なる靖国参拝で反日強硬派は十分な政治的効果を上げられず、後退を余儀なくされたのでしょう。昨年(平成18年)8月15日の小泉参拝後、北京の日本大使館に押しかけた反日デモはたった20人と伝えられます。
 
 一方で、江沢民の権力基盤である上海市のトップ・陳良宇(市党委員会書記、政治局員)が昨年(平成18年)秋、汚職事件で失脚します。現職政治局員の解任を決定づけたのは江沢民の右腕といわれた曾慶紅・国家副主席の寝返りといわれ、牙城を切り崩された江沢民は公の場にほとんど姿を見せなくなりました。
 
 日本の将棋は相手から奪い取った駒を自分の駒として再利用できますが、中国の将棋(シャンチー)にはこのルールはありません。取った駒は捨てられるだけです。ところが中国の権力中枢では、相手の得意技を持ち駒にして切り返し、逆に相手を攻め立てるという丁々発止の政治闘争が見受けられます。まさに反日派の持ち駒だった靖国批判は胡錦涛派に渡りました。温家宝の国会演説はだめ押しの勝利の雄叫びのように聞こえますが、早くも新たな権力闘争の激化も伝えられます。
 
 中国の権力者たちにとっての靖国問題は政治闘争の道具に過ぎないのでしょう。歴史の事実や靖国神社の実態がどうであれ、政治的な利用価値があれば利用するだけです。中身の議論は意味がありません。
 
 
7、英米の国家的追悼儀礼
 
 以上、9つの視点を取り上げましたが、もう一つの視点を指摘することができます。それは靖国神社にとっての靖国問題です。これほど内外から批判にさらされているのに靖国神社からは反論がほとんど聞こえてきません。
 
 昭和7年、先述した靖国神社の賀茂宮司は、「靖国神社は軍人ばかり祀る。偏狭だ」という当時の社会的批判に答え、そのころ最先端のメディアだったラジオで国民に語りました。敗戦後、存亡の淵に立たされた神社を守るため、横井時常権宮司(ごんぐうじ)は占領軍と必死の交渉を重ねたと聞きます。明治天皇の思し召しによる神社創建の崇高な平和の精神を、世界に説明する宗教家がいずれは現れるのでしょうか。国際社会ではけっして「沈黙は金」ではありません。
 
 さて、この原稿を執筆中、靖国神社ではみたままつりがありました。参院選の最中で、国会議員が灯籠を奉納することをメディアは問題にしています。公職選挙法の問題はそれとして、政治は神社に関わるべきではないという発想が背後にあるのでしょう。しかし話は逆であって、靖国神社に関する最大の問題は国に殉じた国民の慰霊・追悼を60年以上もの間、民間任せにしてきた歪(いびつ)さにあります。祖国に一命を捧げた国民の慰霊・追悼は国家の当然の責務であり、いずれの国であれ、それぞれの宗教伝統に基づいた国家的儀礼が行われています。
 
 たとえばイギリスでは、国が定める追悼記念日に、国が主催する追悼式がセノタフ(Cenotaph)という国の戦没者追悼施設で行われ、国家元首、閣僚・政府関係者、さらに数千の退役軍人が参加し、献花・黙祷が捧げられます。イギリス国教会のロンドン司教による宗教儀式も行われます。
 
 アメリカは、厳格な政教分離主義の本家本元と一般に考えられていますが、「全国民のための教会」と呼ばれるワシントン・ナショナル・カテドラルがあり、しばしばホワイト・ハウスの依頼で、ミサ形式を基本とし、諸宗教の代表者が参列する多宗教的な追悼式が行われます。9・11同時テロの犠牲者やスペース・シャトル「コロンビア号」の爆発事故の犠牲者を悼む追悼式もここで行われ、歴代大統領夫妻が参列しました。
 
 韓国のソウルには国立墓地・顕忠院があります。毎年6月の顕忠日に首相直属の機関が主催し、政府、遺族、各界代表などが出席する追悼式では献花、焼香の儀礼が行われ、全国民が黙祷を捧げます。
 
 これら海外の事例を参考に、靖国神社の本来あるべき姿を取り戻す方法を考えてみます。
 
 イギリスのセノタフ方式なら、神社をまるごと国有化し、政府が主催する追悼式の祭祀を宗教団体に部分的に依頼することになります。宗教施設の国有化は政教分離上問題視する人もいるでしょうが、東京都慰霊堂などは公有施設としてすでに認められています。
 
 アメリカ方式なら施設の国有化は不要です。政府の依頼を受け、神社が国家的追悼行事を伝統儀礼にのっとって行い、政府要人が参列することになります。
 
 問題は特定宗教に偏しない多宗教性の確保です。あるキリスト教指導者が「反対のための反対だけでは賛同は得られない」と、「靖国神社を開放して、あらゆる宗教の使用に供するよう申し入れる」という代案を呈示したことがあります。しかし、靖国神社ではもともと遺族が数珠を手に昇殿参拝することも、社殿で「主の祈り」を捧げることも受け入れられています。例大祭に拝殿に掲げられる紫の幕は在家仏教教団の奉納です。境内でしばしば捧げられる黙祷は本来、キリスト教に由来するといわれます。自然崇拝も祖先崇拝も包含する日本の宗教伝統がそうであるように、靖国神社には最初から多宗教性が備わっています。
 
 
8、世界最古の追悼施設
 
 岩田重則・東京学芸大学助教授の『「お墓」の誕生』(岩波新書、2006年)によると、埋葬地などに拝礼の対象としての石柱の墓碑が建てられるようになったのは近世以後といいます。17世紀に宗門改めと寺請檀家制度が発足したのがきっかけでした。仏教には墓の概念はないようですから、神道・儒教の依り代(よりしろ)の影響でしょうか。
 
 幕末になって長州藩は他藩に先駆け、古来の忠臣の氏名などを記録し、祭祀を行い、招魂場を建設します。これが国事に殉じた志士を祀る招魂社、さらに靖国神社の源流といわれます(小林健三、照沼好文『招魂社成立史の研究』錦正社、1969年)。慶応元(1865)年に創建された下関・桜山招魂社の社殿の背後には250余の墓石が並んでいます。
 
 キリスト教には遺骸の埋葬地に墓碑を置き、拝礼の対象とするという発想は本来ありませんが、イギリスでは多くの人命を失った第一次大戦後、「The Glorious Dead」と刻まれた石造りの戦没者追悼記念碑セノタフが完成し、翌年にはアメリカのアーリントン墓地に無名戦士の墓が築かれました。儀礼としての献花はジャポニスムの時代に日本から伝わったともいわれます。
 
 今日、沖縄戦で落命した人々を悼む糸満市の「平和の礎」には戦没者の名前が刻まれています。韓国国立墓地の顕忠塔には殉国者の位牌が収められています。ニューヨークのスタッテン島には同時多発テロの慰霊碑があり、犠牲者の名前と横顔が刻まれています。
 
 それぞれ宗教的背景は異なるのに、同様に記念碑を建て、名前を刻み、宗教儀礼が行われています。靖国神社だけが批判されるのは理不尽というものですが、靖国神社はこれら国家的慰霊施設のなかで世界最古の施設といえそうで、歴史が古ければそれだけ克服すべき重い重荷を背負わなければならないのは致し方のないことかも知れません。
 
 
追記 この記事は産経新聞社発行の雑誌「正論」平成19年9月号に掲載された拙文を少し修正したものです。(2007年10月)
 
 
 
 
 
 
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