SAITO Yoshihisa’s Archives H1201SR
 
 
「君が代」反対論を批判する
 
───多様性の中心に立つ天皇
 
 
 
 
 
 今上天皇の即位10年を祝う官民の祝賀行事が催された11月12日(平成11年)、東京大学では教職員・学生ら250人が、「日の丸」掲揚の強制に反対する集会を開いたといいます。国旗国歌法の成立から数カ月が過ぎたいまなお、彼ら反対派を駆り立てるものはなんでしょう。
 
 東京都立大学前総長で名誉教授の山住正己氏(教育学)は、日の丸・君が代問題をはじめ、文部省の文教政策を一貫して批判し続けてきました。昨年(平成11年)7月には共産党の推薦を受けて、衆院内閣委員会の中央公聴会で国旗・国歌問題について次のように公述しました。
 
 「『日の丸』は太陽信仰に発するもので、戦国時代の武将がこれを旗としたり、鎧(よろい)につけていた。幕末には咸臨丸がマストに掲げて太平洋を渡った。しかし日本全体の国旗を定めたということはない。日章旗は明治維新以後、学校教育と軍隊の力によって国旗として定着した。学校では『神国』日本にふさわしい天来神授の国旗と教えられた」(「赤旗」紙面から要約)
 
 日の丸は近代日本の神がかり的軍国主義の産物である、と語っているようにも聞こえますが、国旗・国歌推進派の1人、京都産業大学の所功教授(日本法制史)の『国旗・国歌の常識』と比較すると、事実関係がだいぶ違います。
 
 たとえば、所氏は、旗に太陽を描く発想は、皇室の重要儀式で掲げられた黄金の太陽、「日像」のドウ(はばヘンに童)に起源があり、赤い「日の丸」は平安末期ごろから武将たちによって用いられたと書いています。ところが、こうした歴史は山住氏の『学校と日の丸・君が代』などには触れられていません。また、所氏は、幕末から日の丸が日本の国旗としての権能を慣習的に果たしていたとするのに対して、山住氏はあくまで成文法にこだわっています。
 
 君が代については、山住氏は『学校と日の丸・君が代』では、『古今和歌集』の「詠み人知らず」の歌から説き起こしながらも、明治初年のフェントンによる作曲に一気に話が飛んでしまいます。所氏によれば、10世紀初頭には詠み人さえ不明なほどであった古歌が長い間に祝い歌として広まり、宮廷ではもちろんのこと、神社仏閣の行事に用いられ、江戸時代には小唄、長唄、浄瑠璃などに折り込まれて庶民にも親しまれていたというのですが、山住氏はそうした実態には目を向けず、もっぱら作曲に着目して、「軍人を除くと一般の大人は『君が代』など知らなかった」と断定しています。
 
 山住氏は衆院内閣委での公述を、「日の丸・君が代問題は歴史的にとらえ直す必要があり、それを抜きにして容易な判断はできないことを、しっかり考えていかなければいけない」との言葉で結んだようです。歴史的に考えることは大いに同感ですが、大学者のいう意味はまさか史実をつまみ食いするということではないでしょう。
 
□ニューヨークに「日の丸」を掲げた幕末の曲芸団
 
 山住氏は『日の丸・君が代問題とは何か』に、「『日の丸』『君が代』の問題はどうしても天皇と天皇制をどう考えるべきか、というところにゆきつく」と書いています。山住氏ら日の丸・君が代反対派がするどい矛先を向けているのは、国旗・国歌問題というよりも、間違いなく天皇統治そのものです。
 
 山住氏は『天皇をどうみる』で、「紀元節」の歌を歌わされた昭和10年代の小学校時代を振り返り、「人間も日本国民である限り、草木と同じく、天皇になびき伏す存在でなければならないとされていた」と批判しています。
 
 しかし山住氏の歴史へのまなざしは戦時下の暗部のみに集中しすぎているように感じられます。国民もしくは民衆の中に息づいてきた天皇像は古来、もっと多様であり、敵愾心をむき出しにしたような山住氏の日の丸・君が代批判とは縁遠い大らかささえ見受けられるのではありませんか。
 
 たとえば、筆者が生まれ育った福島県の川俣、飯野、月舘地方はかつて「小手郷(おてごう)」と呼ばれ、養蚕と機織りが盛んでしたが、その地名は皇室にまつわる悲しくも美しい伝説に由来しています。
 
 『日本書紀』には6世紀末、崇峻(すしゅん)天皇が蘇我馬子を排除しようとされ、逆に暗殺された、とありますが、小手郷伝説では、政変後、天皇の妃・小手姫は、北海に流された王子のあとを追って旅に出た、この地方に落ち延びた姫は人々に蚕を飼い、機を織ることをお教えになり、70歳のとき泉に身を投じ他界された、と伝えています。
 
 川俣には姫をまつる機織神社や、終焉の地とされる湧水池があり、人々は最近まで機を織った織り留めを小手姫に捧げるのを習いとしたといわれます。
 
 
 面白いのは、この地方に生まれた異色の人物・高野広八です。いわゆる博打打ちですが、曲芸団の後見人となって幕末から明治初年まで欧米諸国を巡業し、喝采を浴びました。日本の曲芸団の海外興業の最初であるのはもちろん、広八一行こそは幕府の発行する御印章(パスポート)を手に洋行した民間人第一号だといいます。そして、海外で日の丸を掲げた最初の日本人のようです。
 
 そのことが分かったのは、20年ほど前、広八の実家で克明な巡業日誌が発見されたからです。日記によると、慶応3年(1867年)4月、一行はニューヨークのブルックリンで、軽業の興業に先立って6頭立ての馬車に乗り、日の丸を押し立てて、似内パレードを何度も行いました。
 
 儀式的で中身の薄い国会での国旗・国歌論議に引き替え、日本の民間人が海外ではじめて日の丸を掲げたのが軽業師たちであり、遊び人であったという歴史がこのうえもなく愉快に聞こえます。(『広八日記』飯野町史談会編、安岡章太郎『大世紀末サーカス』、宮永孝『海を渡った幕末の曲芸団』など)
 
 明治以後、小手郷は日本屈指の機業地へと発展し、大正期には福島県唯一の工業地帯ともいわれるようになるのですが、産業の隆盛を精神的に支えていたの「小手郷伝説」という皇室の物語なのでしょう。
 
□阪神大震災で生まれた新たな「天皇伝説」
 
 ここには山住氏ら日の丸・君が代反対派が思い描く天皇像とは明らかに異なる天皇像があります。
 
 小手郷のほかにも、神武東征の際、天皇が船出されたと伝えられる宮崎県日向市の古い港町美々津には、航海の安全を祈願したという場所に小さな神社があって、境内には天皇が腰掛けられたという「御腰掛岩」があり、町ではお船出にちなんだ「起きよ祭り」が行われます。また、「漂白の山民」と呼ばれる木地師たちは、文徳天皇の第一皇子ながら皇位継承の機会を失い、出家し、隠棲された「悲運の皇子」惟喬(これたか)親王を祖神とする篤い信仰を千年以上も守り続けています。
 
 これらは全国的に珍しいというものではありません。それぞれの地にそれぞれの皇室の物語があって、それらが多様で豊かな日本の文化を形成してきたのではないでしょうか。
 
 もちろんそれらを昔話、あるいは作り話と笑う人もおられるでしょう。そういう人たちは、平成7年の阪神大震災を思い起こしていただきたいのです。あのときワシントン・ポスト紙(1995年2月1日付)は、被災者をお見舞いになった天皇皇后両陛下が震災から2週間後、被災者をお見舞いになったことを大きく取り上げ、震災2日後に訪れ、被災者からあざけりと不平とに迎えられた村山首相とは対照的に、感謝と感動の言葉が聞かれた。両陛下の訪問であたたかい気持ちが芽生えた。震災後、迅速で果敢な救助・救援活動を実行することができず、5100人の人々を犠牲にした政府に対する批判や非難に歯止めがかかった、と書きました。
 
 この記事が日本の新聞ではなく、アメリカの新聞に掲載された、というのが面白いところです。神戸のような進歩的都市住民と天皇との交わりであることは強調されていいでしょう。新たな皇室の物語がこのとき生まれたといえませんか。
 
 天皇と国民との社会心理学的な関係は多種多様です。同様に、日の丸・君が代に対する国民の思いも多様です。長い歴史を持つ国旗・国歌なら、人々の喜びや悲しみなど、さまざまな思いがこめられているのは当然でしょう。山住氏は「戦場で、あるいは出征兵士を送る際に打ち振った旗」「侵略者のこわばった醜い顔をもった音楽」(『学校と日の丸・君が代』)とのお考えですが、一面的といえないでしょうか。
 
□多様な社会を統合する「天皇の祈り」
 
 多様な皇室の物語を生み出しているものは天皇の祈りなのでしょう。日本の天皇は「祈る王」「祭祀王」といわれます。「地上の支配者」であるヨーロッパの国王とは異なります。
 
 順徳天皇という方がおられます。鎌倉時代、承久の変の失敗で、父・後鳥羽上皇、兄・土御門上皇とともに配流となりました。その順徳天皇が若き日に宮中のしきたりを書きつづられたのが『禁秘抄』で、その冒頭には、「およそ禁中の作法は、神事を先にし、他事を後にす」と、何よりも神事を優先させなければならないことが明記されています。天皇にとってもっとも重要なことは神祭りなのです。順徳天皇がことのほか重い天皇の使命を、皇室存亡の危機のまっただ中で明言されたことは重要です。
 
 天皇は日々、祈られます。『禁秘抄』には「恒例毎日の次第」という一章があって、天皇が毎朝、身を清められたあと、京都御所・清涼殿の石灰壇(いしばいのだん)に立たれ、東南の方角に向かって、伊勢の神宮ならびに内侍所(ないしどころ=賢所)、各神社を遥拝されることが記されています。
 
 これは明治になって皇居が京都から東京に遷(うつ)られると、侍従が宮中三殿にお参りする「毎朝語代拝」に様式が変更されたが、天皇は御代拝のあいだずっと御座所でお慎みになられ、祈りの精神は受け継がれています。
 
 天皇の祈りの精神がもっとも濃厚に示されるのが、即位後に行われる天皇一世一代の大嘗祭でしょう。秘儀とされる大嘗祭の儀で、新帝は皇祖天照大神ほか天神地祇に、手ずから神饌を供され、祈られます。
 
 天皇は何を祈られるのでしょうか。神社の祝詞(のりと)に相当する「申詞(もうしことば)」は天皇直伝で一般には知られないのですが、14歳で即位された順徳天皇に父・後鳥羽上皇が大嘗祭の直前、その秘儀のことをお教えになったことが後鳥羽上皇の日記(建暦2[1212]年10月25日)に記されています。
 
 「伊勢の五十鈴の河上にます天照大神、また天神地祇、諸神明にもうさく。朕(ちん)、皇神の広き護りによりて、国中平らかに安らけく、年穀豊かに稔り、上下を覆寿
(おお)いて、諸民を救済(すく)わん。よりて今年新たに得るところの新飯を供え奉ること、かくのごとし」(「後鳥羽院宸記」=『皇室文学大系4』所収)
 
 天皇はひたすら「国平らかに、民安かれ」と祈られるのです。
 
 大嘗祭の神人共食の儀礼で用いられるのは米と粟のご飯であり、白酒黒酒(しろき・くろき)の酒です。大嘗祭は一般には「稲の祭り」といわれていますが、神事のなかで米と粟の比重に格差は認められず、正確には「米と粟の祭り」というべきです。
 
 その点、近畿大学の野本寛一教授(民俗学)が、この神事は「稲作民の米と畑作民の粟を統合する象徴的儀礼」と理解できる、と語っているのは注目されます。
 
 古代の日本社会には稲作民もいれば、畑作民もいた。海の民もいれば、山の民もいた。先住民も渡来人もいた。神々から与えられた命の糧による食儀礼を通じて、かけがえのない命を共有し、多様な社会を統合しようとする古代人の奥深い哲学を感じさせます。
 
 戦前・戦後を通じてもっとも偉大な神道思想家といわれる今泉定助によれば、「天皇統治の本質」は天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅にあるように「安国と平らけくしろしめす」ことだといいます。「しらす」政治とは民意を知って統合することで、「うしはく」政治つまり権力による支配ではないとするのです。
 
 帝国憲法は「大日本帝国は万世一系の天皇、これを統治す」と規定していますが、この「天皇の統治」は本来、「しらす」の意味でした。憲法起草の中心にいた井上毅の原案には「日本帝国は万世一系の天皇のしらすところなり」となっています。天皇統治は権力支配ではないことは明治の憲法制定者たちには自明であったようですが、私たち現代人、とりわけ国旗・国家反対論者たちには理解しづらいもののようです。
 
 「国旗国歌法」制定の過程で、君が代の「君」が何を意味するか、という議論がありました。推進派も反対派も「天皇の歌」という考えに固まっていますが、もともとは長寿者へのお祝いの歌で、朝廷に用いれば聖寿万歳をことほぐ意味になり、広く歌われていたことから自然と国歌としての地位を得ていったと考えるのが適当であって、その意味では、「君が代」は「われらが代」であると同時に、天皇が統治される「天皇の御代」でもあるのでしょう。
 
 国旗国歌反対派の山住氏は「『君が代』は大日本帝国憲法の体制に賛同する者しか、心から歌うことのできない歌である」(『日の丸・君が代問題とは何か』)、「『君が代』が日本国憲法の精神に反することは多くの人が認めるところである」(「『日の丸・君が代問題』を考える」=「教育」1988年2月号)と述べます。「君が代」は「君主主権」の歌で、現憲法の「国民主権」とは両立しないという主張ですが、「君主主権」か「国民主権」か、という近代ヨーロッパ風の対立的議論こそ「君民一体」の天皇統治の本質から遠いのではないでしょうか。
 
□「戦争責任」を誰よりも痛感されご自身を責め続けた昭和天皇
 
 戦前と戦後、昭和天皇に侍従として仕えた木下道雄は『新編宮中見聞録』に、次のような天皇の戦前の逸話を紹介しています。
 
 昭和の初め、汚職事件の渦中にある高官の起訴について天皇の裁可を求める上奏書をもって内閣書記官が慌ただしく駆けつけてきました。一刻を争う上奏書でしたが、昭和天皇は司法大臣の起訴理由書を繰り返し御覧になるばかりで、なかなか裁可されません。しばらくしてようやく天皇は裁可の印を捺されました。書類を受け取り、部屋を辞する木下に天皇は語られました。「私が悪いのだよ」。
 
 のちに天皇はよく晴れた夕暮れ、天を仰ぎつつ、木下にたずねられました。「どうすれば政治家の堕落を防げるであろうか。結局、私の徳が足りないから、こんなことになるのだ」
 
 昭和天皇は罪を犯した官僚を憎むのではありません。汚職がはびこる世の中を憂い、ご自身を責めておられたといいます。
 
 そうした昭和天皇であればこそ、皇祖と国民に対して「戦争責任」を誰よりもつよく意識されていました。旧憲法下の天皇はあくまで立憲君主であって、国務大臣は天皇を補弼(ほひつ)する責任があり、天皇の詔勅は国務大臣の副書を必要としました。天皇は憲法上、無答責のお立場にありました。それにもかかわらず、昭和天皇は身を引き裂かれるほどの責任を痛感され、御自身を責め続けられたようです。
 
 昭和20年8月に長い戦争の時代は終わります。それは「敗戦」という日本が開闢(かいびゃく)以来、経験したことのない屈辱の歴史でした。国内だけでも数百万の尊い人命が失われ、かけがえのない美しい国土は無惨にも焦土と化しました。しかも「敵国」の軍隊が進駐し、日本はその支配下に置かれ、「国体」がおかされることになりました。
 
 みずからの治世にこうした未曾有の惨憺たる事態を招いたことについて、昭和天皇の御心中はいかばかりであったでしょう。終戦の詔書に「帝国臣民にして戦陣に死し、戦域に殉じ、非命に斃(たお)れたる者、およびその遺族に想いをいたせば、五内(ごだい)、ために裂く」とあるのは御実感であられたでしょう。国と民のために祈りの日々を送られる天皇であれば、なおのことでしょう。昭和天皇が最後まで推敲を重ねてやまなかったお歌は、「身はいかになるともいくさとどめけりただ倒れゆく民をおもひて」であったと聞きます(岡野弘彦「昭和天皇と和歌」=『昭和天皇御製集』所収)。
 
 山住氏は『学習指導要領と教科書』で、平成元年の日の丸・君が代斉唱を推進する学習指導要領改訂と「天皇の代替わり」とが重なったのは偶然ではない、と指摘し、昭和天皇の「重病」から続く一連の報道ぶりや多くの国民が記帳に詰めかけた「異常な光景」は「戦争責任を自分自身の手で追及できなかった戦後改革が、不十分であったことを示す以外の何ものでもない」と結論づけます。昭和天皇こそは「侵略戦争」をひきおこした張本人であり、「軍国主義者」だとでもいいたいのでしょうか。
 
□戦後復興の先頭に立たれた昭和天皇
 
 皇室ジャーナリストの高橋紘氏によると、戦後の御巡幸計画が持ち上がるのは昭和20年9月の天皇・マッカーサー会見の直後だといいます。
 
 昭和天皇は側近に、戦争で傷ついた国民を慰めるため、全国をまわりたいと洩らされたようです。宮内庁総務局長の加藤進は、天皇のお気持ちを次のように記録しています。
 
 「戦争を防止できず、国民をその賛歌に陥らしめたのは、まことに申し訳ない。この際、位を退くことも一つの責任の果たし方であろうと思うけれども、私は方々から引き揚げてきた人、親しい者を失った人、困っている人たちの所へ行って慰めてやり、また働く人を励ましてやって、一日も早く日本を再興したい。このためには、どんな苦労をしてもかまわない。そう働くことが私の責任であって、祖先と国民とに対し責を果たすことになるのだと思う」(木下道雄『側近日誌』巻末の高橋の「解説」から)
 
 御巡幸は21年2月に始まり、天皇は戦後復興、国家再建の先頭に立たれました。敗戦で憔悴した国民は陛下のお出ましを感激をもってお迎えし、「ずいぶん苦しかったろうが、よく帰ってきたね」と引き揚げ者をいたわり、「親のいうことをよく聞いて、立派な人になってくださいよ」と子供を励ます昭和天皇に涙しました。天皇と名もなき国民の一体感が戦後復興の大きな原動力となり、無惨な敗戦がもたらした国家滅亡の危機を力強く克服させたといえませんか。
 
 山住氏は24年正月にマッカーサーが国旗の無制限使用・掲揚を許可したが、「多くの日本人はこの贈り物を喜んで受け取ったりはしなかった。……この旗を掲げた家はまれであった」と断定します。「国旗を眺めても、悔恨(かいこん)と慚愧(ざんき)あるのみ」とする阿部真之介の「日の丸談義」(「サンデー毎日」掲載)を引用し、これが「当時の日本人のほぼ常識に近い見解であったろう」(『学校と日の丸・君が代』)と理解するのですが、そうでしょうか。
 
 大金益次郎侍従長の『巡幸余芳』によれば、昭和22年8月、天皇が訪れた秋田市の社会事業施設「聖心愛子園」では公然と「国旗」が掲揚され、室内は「日の丸」の小旗で飾られていました。当時の日本人は国旗を出すことを遠慮するような卑屈な心持ちに成り下がっていたが、この施設の平然たる態度に、大金は「心中、恥ずかしさに堪えなかった」と書いています。この施設が、いまや全教会をあげて国旗国歌反対を叫んでいるかに見えるカトリックの系列であることは注目していいでしょう。
 
 民とともにある天皇はいつの時代も、国家の栄光ばかりではなく、苦悩のただ中におられます。平時ばかりではなく、戦時においても、国民全体の統合の象徴です。同様に、国旗・国歌は国民の栄誉ばかりではなくて、悲しみを背負っています。だからこそ天皇であり、国旗・国歌なのではありませんか。
 
□「まつろわぬ民」のために祈る天皇
 
 「天皇に私なし」といわれますが、天皇はひたすらすべての民のために祈られます。
 
 東大紛争当時、警視庁の治安担当警備課長だった佐々淳行氏は、『東大落城─安田講堂攻防七十二時間』に次のように書いています。
 
 ──安田講堂の攻防が決着したあと、秦野章警視総監が内奏のために宮中に参内した。昭和天皇から御嘉賞のお言葉があれば、機動隊員の士気高揚につながると期待されたが、内奏がすんで帰庁した秦野氏は妙な表情を浮かべていた。
 
 「天皇陛下ってえのはオレたちとちょっと違うんだよなァ。安田講堂のこと奏上したら、『双方に死者は出たか?』と御下問があった。幸い双方に死者はございません、とお答えしたら、たいへんお喜びでな、『ああ、それは何よりであった』と仰せなんだ。機動隊と学生のやり合いを、まるで自分の息子の兄弟げんかみたいな目で見ておられるんだな」
 
 「公正無私」を第一義とされるのが天皇です。天皇にとっては右翼も左翼もありません。多様な考えを持ち、多様な暮らしをする国民すべての天皇なのです。「まつろわぬ民」のためにさえ、代々、祈りを継承してこられたのが天皇なのです。
 
 山住氏は衆院内閣委の中央公聴会で、「このままでは、国策に反する者は非国民であるといって、戦前と同様な扱いがされる恐れが多分にある。……不気味を通り越して魔女狩りを想起させ、身の危険すら感じられます」と語ったそうですが、天皇統治は本来、「少数者」を抑圧する「多数派の専制」ではないし、もちろんファシズムでもありません。
 
 そのような天皇統治の意味を深く理解していた1人として、明治の社会主義者・幸徳秋水をあげることができます。
 
 秋水は、日本の歴代天皇の大御心(おおみこころ)は社会主義と完全に一致し、矛盾しない。皇統が一系で連綿としているのは、歴代天皇がつねに社会人民全体の平和と幸福を目的とされたからで、これは東洋の社会主義者の誇りである。私はむしろ社会主義に反対する者こそ、「国体」と矛盾するのではないか、と思う──と「六合雑誌」書いています(『幸徳秋水全集4』所収)。
 
□日の丸は「アジア侵略」のシンボルか
 
 山住氏は「日本軍がこの旗(日の丸)を押し立てて侵略を進めてきた」(前掲「教育」88年2月号の論攷)と書き、「歴史を振り返り、過去の誤りについての深い反省をすることなしには、アジア諸国では日の丸は、日本による侵略、植民地時代を思い起こさせ、アジアの一員である日本国の国旗として認められるものではない」(衆院内閣委・中央公聴会)と語るのですが、先の戦争は「アジア侵略」と言い切れるのでしょうか。
 
 朝鮮支配のシンボルとされる朝鮮神宮に朝鮮民族の祖神ではなく、天照大神をまつることに強く反対し、日中戦争勃発後は日本軍占領地で飢寒に苦しむ中国人難民のために奔走し、あるいは朝鮮独立運動を支援したのは、日本人のなかでもとくに人一倍、皇室尊崇の念が深い神道人だった、という歴史をどう評価すべきでしょう(雑誌「正論」平成10年2〜4月号掲載の拙文「朝日新聞と神道人」[http://homepage.mac.com/saito_sy/war/H1002asahi.html]および11年4月号掲載の「朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡」[http://homepage.mac.com/saito_sy/korea/H1104ashizu.html]をご参照ください)。
 
 また、戦争は破壊と殺戮ばかりではありません。広大な中国大陸を転戦しながら、部下や地元民とともに日中戦没者の慰霊と平和への祈願をこめた緑化を推進し、「緑の連隊長」と呼ばれた吉松喜三陸軍大佐のような人もいます。吉松は終戦の日まで、いや復員の日まで、じつに400万本の木を植え続けました。中国軍司令官はその功績を認め、帰国する吉松に「国父孫文先生の肖像画」と感状を与えたといいます(『やすくにの祈り』など)。
 
 山住氏は、「日の丸」「君が代」の歴史を学校教育で教えるべきだといいます。しかし、「日の丸」掲揚、「君が代」斉唱は必要ないとします。「とくに『日の丸』を国旗、『君が代』を国歌として扱うことがあってはならない」(『日の丸・君が代問題とは何か』)と主張するのですが、問題は歴史の何を教えるかであって、一面的な知識を教えるのは政治的プロパガンダといわれても仕方がないし、それでは山住氏が忌み嫌う「戦前」の繰り返しになるのではありませんか。
 
 古代の文化を引き継いでいる日の丸・君が代に代わり得るような国旗・国歌はおそらく見出し得ないでしょう。だとするなら、日の丸・君が代にまつわる悲しい屈辱的な歴史を払拭する精一杯の努力こそが私たちに求められているのではありませんか。人間は過ちを犯しやすいし、国家は無謬ではありません。天皇の名において推進された戦争政策が間違いだというなら、私たちに必要なのは、その過去の過ちや失敗を雄々しく克服していく勇気であり、行動でしょう。
 
 戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦は晩年、雑誌インタビューでこう語っています。
 
 「天皇制は自然成長的なものだから、これまでの歴史のなかでまずいことがいくつもあった。道徳論的天皇論者がいうように、『いいことばかりが重なったから、天皇制が存続してきた』ということではない。そういう歴史観では事実に反するし、かえって天皇制の論拠を脆弱にしかねない。プラスばかりではなくて、マイナス要素が複雑にからみながらも、なおかつマイナスを克服しながら進んできた。そこに天皇制の強さがあるんだよ」(「近代天皇制の系譜」=「Voice」昭和61年5月号)
 
 日本の天皇は神話の世界から、いくたびもの危機の時代を経て、戦争の惨禍を乗り越え、125代の長きにわたって連綿と継承されてきた。これは世界史上、ほかに例がありません。天皇はわが祖先が築き上げてきた世界に誇るべき政治・社会システムといえるのではありませんか。それは政・官・財の底なしの腐敗・堕落が日々、暴露されながら、あるいは未曾有の経済危機のただ中にありながらも、天皇の存在が社会の安定を保障している今日の状況を見れば理解できるのではないでしょうか。
 
 今日なお多様で多面的な国家、民族、社会の中心に位置し、「国平らかに、民安かれ」と日々、祈り続けておられる天皇の価値というものを私たちが失わないかぎり、日本人が民族の英知を失わないかぎり、天皇というシステムは国家とともに、国民とともに、未来永劫に発展していくことでしょう。ただ悲しいのは、天皇の祈りをわが祈りとする真の教育者が見当たらないことです。いまこそこの国は、そしてこの国の子供たちは切望しているはずなのですが……。
 
 
註記 この記事は雑誌「正論」平成12年1月号に掲載された拙文を少し修正したものです。(2006年9月)
 
 
 
 
 
 
 
記事の無断転載はご遠慮ください。
 
Copyright © 2006 SAITO Yoshihisa Office. All rights reserved.