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万世一系と易姓革命
───天皇制が長期存続してきた理由
稲作を基本とする長江文明はやがてアジアのどん詰まりに位置する日本列島におよびました。けれどもそこで展開された歴史はけっして一辺境の地方史ではありません。日本の国と民族、文化は中国の亜流でもコピーでもありません。とりわけ日本の君主制は中国とは異なる独自の発達を遂げました。
哲学者の上山春平氏は日本の君主制の歴史を、①成文法のない時代、②律令的君主制の時代、③憲法的君主制の時代、の3つに区分します。日本の律令制は大化改新後に導入され、8世紀初頭から明治維新まで1200年間続きましたが、その君主制は模範とした唐とは根本的に異なる、といいます(『日本文明史』など)。
中国の律令制を支えた国家哲学は儒教であり、その中心的思想は「革命」です。君主はあくまで人間で、超越者である天上の人格神「上帝」の命令によって天下を統治します。殷(いん)・周をはじめ、王朝の交替すなわち「革命」も神の命令によって正当化されました。
もし仁政が行われがたきときは
他方、日本の天皇は天上の神=天照大神の血統を受け継いだ子孫であり、天照大神が地上に現れた姿と信じられました。「日本」「天皇」を初めて制度的に確定した「大宝律令」は「明神(あきらかみ)と御宇(あめしたし)らす日本(ひのもと)の天皇(すめら)」(『公式令(くうじきりょう)』)と規定しています。ここには中国流の易姓革命の余地はありません。
こうした日本の律令的君主制の由来を説くのが記紀の神代巻なのだ、と上山氏はいいます。中国最初の正史『史記』に記紀神話に相当するものはありません。
権力のあり方も異なります。中国では統治の権威は天上の神に由来し、権力は皇帝が掌握しました。日本では権威は天照大神の顕現者としての天皇に由来し、権力は官僚機構の頂点にある「太政官」に委任されました。
太政官の制度は神祇官とともに、日本独自の制度として創設されました。唐の官僚制度は「三省六部」ですが、日本は「二官八省」が採用されました。その背景には国家理念の違いがある、と上山氏は見ます。
日本は律令制を導入したものの、中国流の「革命」思想を受け入れなかった、と理解する上山氏に対して、戦後唯一の神道思想家・葦津珍彦氏は、「放伐(革命)」思想の潮流が日本にもあった。江戸中期以後、「放伐絶対否定」の論が成立し、明治中期以降は抹殺されることが多かったが、北畠親房の『神皇正統記』以来、放伐の理義を認める思想が脈々と流れている、と理解します(『天皇』など)。
──「万世一系」をはじめて論じた親房は、放伐を王道政治の一般法則として肯定する一方で、皇祖の子孫のみが国を統治する「神国」の「特殊的限界」が現存すると考えた。もし仁政が行われがたいときは、皇位は直系相続が正当で、望ましいが、傍系の仁者に移行せざるを得ない。つまり放伐は皇統の系列にとどまり、皇位が皇統以外の異姓に逸脱することはあり得ない。ただ、皇室が仁政を布く資格能力に欠ける場合は、皇室の統治権を存続させつつ、天皇の名で新たな統治権の行使者を承認する可能性もある、と親房は考えた。
このように葦津氏は書いています。
望ましい混合体制を実現してきた
摂関政治の始まり、武家政権の建武の中興、封建制の確立など数々の政治的変革を経験してきたにもかかわらず、日本の天皇制が世界に例を見ないほど長期的に一貫して存続しているのはなぜでしょうか。
一昨年(1995年)2月1日付ワシントン・ポスト紙は、今上天皇が阪神大震災の被災者をお見舞いになったことを大きく取り上げ、村山首相が震災二日後に訪れ、「あざけりと不平に迎えられた」のとは対照的に、「あたたかい気持ちが芽生えた」と書きました。
正義の実現を期待される代表者が俗悪な権謀術数にはまっている民主政治の矛盾を、国民は知り抜いています。他方、葦津氏がいうように、天皇には「民の声を聞き」「民の心を知る」王者の伝統があります。政官財の底なしの腐敗と堕落が日々、暴露されるいま、天皇は社会秩序崩壊の最後の防波堤の役割を果たしておられるようにも見えます。
上山氏の指摘にあるように、プラトンは君主制と民主制とを兼備していなければ「善い国家」とはいえないとし、アリストテレスは多くの国制が混合された国制ほどすぐれている、と指摘しました。望ましい混合体制を、日本の天皇制は古来、実現していたと見ることができるということでしょうか。
註記 この記事は宗教専門紙「神社新報」平成9年(1997年)2月10日号に掲載された拙文を少し修正したものです。(2006年9月)
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