SAITO Yoshihisa’s Archive H071211JS
「一君万民」「万民平等」の神髄
───大嘗祭に米と粟とが捧げられることの意味
平成の大嘗祭はなぜあれほど厳重な警備態勢、秘密主義が採られなければならなかったのでしょうか。
たとえば「悠紀国」に選ばれ、祭祀の上できわめて重要な役割をつとめることになった秋田県では、2月上旬に悠紀国・主基国が点定されてから数カ月が過ぎ、マスコミが報道する御大典関連ニュースが日増しに増えていく一方で、過激派による神社のゲリラ放火事件なども起きていましたが、悠紀田斎田の大田主が誰に決まったのか、など肝心な情報は箝口令が引かれていっさい明らかにされず、宮内庁が大田主の名前を記者発表したのは9月下旬になってからでした。
警備第一の観点から情報はきびしく管理されていたのですが、当時の県警のトップは基本認識の違いを主張します。「私どもは過剰警備とは思っていない。ごく一部の人が思っているだけであって、見解がまったく違うのではないか。護国神社は対象になっていなかったから、ああいう結果になったが……」
宮内庁職員でさえその多くが大田主を知るのは記者発表時のようです。ある幹部職員は、「大分では過激派と同時に訴訟グループの妨害があった。過剰警備といわれるがいちばん斎田のことを御懸念されていたのは陛下だった。警察は反対派の動きをつかんでいたのだろう。庁内では大嘗祭延期、中止の事態も想定して進めていた。精神論だけでは不十分だ」と証言しています。
現実論としては、たしかにそうなのでしょう。けれども、天皇の祭りの精神という基本に立ち返ったとき、「警備第一主義」をどう考えるべきなのか、とくに大嘗祭に用いられる米と粟という観点からあらためて考えてみたいと思います。
稲作民と畑作民を統合する象徴
大嘗祭の儀の神饌御進供で新帝が手ずから天神地祇にささげ、みずから召し上がるのは米と粟であって、米だけではありません。にもかかわらず、大嘗祭は一般に「稲の祭り」といわれます。粟の供納者は、米の場合と異なり、「大田主」とは呼ばれません。秘儀とされるもっとも重要な祭祀において、米と粟との間に軽重関係は見当たらないのですから、じつに不思議です。
米と並んで大嘗祭の儀のもっとも重要な神饌であるはずの粟に関する研究はほとんど見当たらず、学問的に詳しいことはよく分かりません。しかし、民間において『延喜式』の時代からの粟の新嘗(にいなめ)が存在したことは事実のようです。
奈良時代に成立した日本初の地誌の1つ、『常陸国風土記』に筑波郡の物語として、母神が御子神を歴訪する話が載っていています。日が暮れたので、富士の神に宿を請うと、「新嘗のために家中が物忌みをしているので、ご勘弁ください」と断られたが、筑波の神は「今宵は新嘗だが、お断りもできまい」と大神を招き入れた、とあります。この物語から、当時の新穀祭は村をあげて潔斎し、女性や子供は屋内にこもって産霊の神との交流を待ち、客人を家中に入れることをはばかったらしいことが分かります。
それなら、『風土記』の文中にある「新粟(わせ)の新嘗(にいなえ)」「新粟嘗(にいなえ)」の語は何を意味するのでしょう。『日本古典文学大系』の校註者は、この「粟」は「脱穀しない稲実」の意味と説明していますが、そうなのでしょうか。
ある神社関係者の研究論文では、「宮中祭祀としての新嘗祭は、民間の素朴な新嘗が母体になっていると考え、宮中新嘗祭における粟は、その残影として理解することは無理であろうか」と指摘されています。むしろこちらの方が自然な理解のように思われます。
毎年秋の新嘗祭も同様ですが、大嘗祭のもっとも重要な神事で、なぜ米だけでなく、米と粟の両方が神前に供されるのでしょうか。
大きな示唆を与えてくれるのは、近畿大学の野本寛一教授(民俗学)の理解です。「天神地祇に米と粟をささげる新嘗祭、大嘗祭の儀礼は稲作民と畑作民を統合する象徴として理解できるのではないか。白酒(しろき)・黒酒(くろき)の黒酒はもとは稗の酒であり、稲作の米と畑作の稗の二種類の酒をささげる儀礼は、やはり同じ意味を持っていると思われる」
つまり大嘗祭は「稲の祭り」だけではなくて、稲作・畑作両儀礼の複合と理解されます。野本教授は『焼畑民俗文化論』に、稲作以前の民が粟や芋を栽培していた、この畑作文化は「海上の道」をたどって伝来した、と書いています。畑作文明と稲作文明との融合が日本の文明であり、天皇は2つの祭祀を統合することで、国と民の統合を図ろうとしているということでしょうか。
しかし祭りを通じて多様な文化をもつ多様な国民を統合する、という発想は、大嘗祭の警備を担当した警察官僚をはじめとして、現代人には分かりづらいものなのでしょう。たとえば、東大紛争当時、警視庁の治安警備担当課長だった佐々淳行氏は、『東大落城──安田講堂攻防七十二時間』に、次のようなじつに興味深いエピソードを紹介しています。
東大の安田講堂を舞台とする全共闘の学生たちと機動隊との間の攻防が決着したあと、秦野章警視総監が内奏のため参内しました。昭和天皇から御嘉賞のお言葉があれば、機動隊の士気昂揚につながると秦野総監は期待していたのですが、帰庁した総監は怪訝そうな表情を浮かべていました。
「天皇陛下ってえのはオレたちとちょっと違うんだよなァ。……『双方に死者は出たか?』と御下問があった。幸い双方に死者はございません、とお答えしたら、たいへんお喜びでな、『ああ、それな何よりであった』と仰せなんだ」
過激な学生であれ、機動隊員であれ、昭和天皇にとっては、まったく同じ百姓(おおみたから)なのでしょう。名古屋大学の加藤雅信教授は、ここに「国民を感性レベルでも赤子(せきし)ととらえた最後の天皇であろう、昭和天皇の心情があますところなく述べられている」(『天皇』)と解説しています。
体制派も反体制派もない
天皇の祭祀は単なる儀式ではありません。粟はしばしば「雑穀」と呼ばれますが、「雑草という名の植物はない」と語られた昭和天皇に「雑穀」というご認識はなかったでしょう。天皇一世一度の大嘗祭が稲作民の米と畑作民の粟による国の鎮めの儀式だと理解するなら、ここにこそ体制派も反体制派もない「一君万民」「万民平等」という1つの理想の神髄が見えてくるのではありませんか。
加藤氏は「機動隊と学生とのやり合いを、まるで自分の息子の兄弟喧嘩みたいな目で見ておられる」昭和天皇の統治者像こそが「80パーセントを超える現行天皇制の支持につながっている」と指摘していますが、だとすれば大嘗祭当時、国民が目の当たりにした、反対者の妨害を力で封じ込め、情報をきびしく統制するような「警備第一主義」は「国民と共にある皇室」という観点から見た場合、はたして「良き前例」となったのでしょうか。情報管理の中枢にあった官僚たちの多くは、数年後の私の取材に対して「記憶にない」を繰り返すばかりでした。
註記 この記事は宗教専門紙「神社新報」平成7年12月11日号に掲載された拙文を少し修正したものです。(2006年9月)
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