SAITO Yoshihisa’s Archives JSH131112
 
 
遥かなるアフガニスタン
 
───大宗教が興隆、衰亡する文明の十字路
 
 
 
 
 
 20年以上も戦乱のさなかにあるアフガニスタンが連日、「国際社会」からの武力攻撃を浴びています。痛ましいアメリカでの「9・11」同時多発テロ事件の首謀者とされるオサマ・ビンラディンとそのテロ組織アル・カイダ、そして彼らをかくまっている同国のタリバン政権を標的とする、米英軍などの激しい「報復」です。他方、アメリカはこんどは炭疽菌テロの恐怖に震えています。
 
 アフガンは、『西遊記』のモデルとして馴染みの深い唐の仏僧玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が滞在し、仏教を学んだこともある、東西文明を結ぶシルクロードの要衝で、古来、多くの日本人の旅情を誘ってきました。
 
 そのアフガンを拠点とし、国際社会を敵にまわした憎むべきテロ事件はなぜ起きたのか。何がこの国を、「目には目を」の世界的テロ戦争の舞台に仕立てたのでしょうか。
 
  1. 繰り返された民族の移動と侵入
  2. 異文明が出会い、ときには融合
 
 この国は、「世界の屋根」パミール高原の西南に位置しています。北側は旧ソ連の中央アジア諸国と国境を接し、東と南側はパキスタン、西側はイランに取り囲まれた内陸国です。ワハン回廊によって、一部ですが、中国とも接しています。日本にとってはアフガンは遠い異国ですが、中国にとっては隣国です。
 
 面積は約65万平方キロ、日本の1.7培。首都カブールは東京、大阪とほぼ同緯度ですが、標高は1800メートル。中央部を東西に走るヒンズークシ山脈は「インド人殺しの山」という意味で、平均海抜5000メートルの大雪山が続きます。内陸性気候で、冬は凍てつく高原地帯もあれば、夏には気温40度を超える砂漠もあります。降雨に恵まれた森林地帯も、わずかですがあります。
 
 人口は約2600万人(2000年)。といっても正確な数字は分かりません。戸籍というものがないようです。人種的にはパシュトン人(アフガン人)が半数以上を占め、その他、タジク人、ウズベク人、モンゴル系のハザラ人と続きます。
 
 言語はパシュトン語、ダリ語(ペルシャ語)が使用されます。しかし識字率は3割といいます。
 
 宗教的には国民の99%がイスラムで、ハザラ人以外はスンニー派に属します。シーア派を「国教」とするお隣のイランとは異なります。
 
  1. 強国のはざまで困難な国家運営
  2. 露・英と戦った日本に親近感
 
 先月(平成13年10月)下旬、ローマ法王は中国政府に対し、19世紀の植民地主義的布教の誤りを認めて謝罪し、関係改善を呼びかけましたが、同じ19世紀、アジア諸地域がヨーロッパ列強の侵略にさらされていたころ、アフガンも例外ではありませんでした。
 
 近代アフガニスタンの建国は1747年。ペルシャによる支配の間隙を縫って、部族連合の長として立ち上がり、アフガン建国の父となったのが、アフマド・シャーでした。しかし国家は統一されたけれども、その後の歴史も平坦ではありませんでした。王朝も列国の都合でめまぐるしく交替しました。
 
 最初はインドを支配するイギリスの攻勢です。次第に南下するロシアを牽制するため、イギリスは緩衝地帯としてのアフガンを必要としていました。圧迫を受けて、1818年、サドザイ朝が倒れます。カシミール、パンジャーブなどの領地が失われました。
 
 アフガニスタンは英露両国のはざまで、困難な国家運営を迫られました。ところが、ドスト・モハマッド・ハーン国王はロシアと友好条約を結びます。これを「対ロシア接近」と見たイギリスは、38年、軍隊を侵入させました。第一次アフガニスタン・イギリス戦争です。
 
 カブールは陥落し、国王は降伏します。ところが異教徒の支配を許さないアフガン人のゲリラ戦は続きました。そしてついに16000のイギリス人は全滅します。
 
 19世紀末、いよいよロシアが南下政策を強め、軍事顧問団を送り込んできました。アフガンを手中に収め、インド洋に面したバルチスタン(いまはパキスタン領)に軍港を置くことが狙いでした。当然、イギリスが対抗して軍事顧問団をカブールに派遣します。国王は拒否しますが、イギリスは強引にアフガンを保護国とします。
 
 インド(いまはパキスタン領)との国境はこのとき画定されます。パシュトン人の居住地域を二分し、中央アジアとインド世界とを隔てるカイバル峠を「インド領」とする不合理な国境は、「ザ・グレート・ゲーム」と呼ばれるイギリスとロシアとの確執の結果です。ただ、遊牧民たちは昔も今もパスポートすら持たずに、羊を追って、公然と往来します。
 
 20世紀初頭、アジアの新興国・日本がヨーロッパの大国・ロシアを破った日露戦争は、この地にも大きな影響を与えました。ロシアはアフガン介入をあきらめ、イギリスは対ロシア対抗姿勢を打ち切りました。アフガン人は親日的といいますが、最大の理由はこの歴史にあるようです。アフガン人は、日本がイギリスと戦争したことも、ヒロシマ・ナガサキも知っています。
 
 第二次大戦中は中立を守ったアフガンですが、戦後になると米ソの対立構造に翻弄されます。援助合戦を繰り返す両国。王族宰相の時代が幕を閉じると政権は不安定化し、1973年のクーデターでザヒル・シャー国王が退位します。政変の背後にはソ連がいました。78年にはふたたびクーデターが起き、翌年、ソ連軍が侵攻します。
 
  1. テロリストを育てた海外勢力
  2. 容疑者にアフガン人はいない
 
 89年にソ連軍が撤退し、共産政権に代わってイスラム連立政権が樹立しますが、ムジャヘディン政権内部で内戦が勃発して、混乱は逆に激化します。民族や宗教宗派の異なる各派の対立を、周辺諸国があおったのです。
 
 混乱の中から台頭したのがタリバンです。タリバンとは「学生たち」という意味です。パキスタンの難民キャンプで育ったアフガンの若者たちは、キャンプ周辺のイスラムの宗教学校に通い、戦士に鍛え上げられました。彼らの悲願は祖国の内戦終結と正義の回復です。
 
 戦争にうみ疲れたアフガン国民は彼らに期待しました。96年、タリバンが政権を掌握します。背後にはむろんパキスタンの影がありました。
 
 イスラム法に基づく犯罪取り締まりの強化で、治安は回復しました。タリバンは純粋なイスラム国家の建設を目指しました。
 
 厳格な宗教政策をとるタリバンをアメリカは当初、黙殺しました。けれどもオサマ・ビンラディンの亡命、対米テロの強化で関係は険悪化します。
 
 ビンラディンはサウジの富豪の息子で、中東諸国の多くの若者と同様、ソ連との「聖戦」に馳せ参じました。サウジやパキスタンが推進する「イスラム同胞を救え」というキャンペーンの背後にはアメリカがいました。この時点ではアメリカは敵ではなかったのです。
 
 しかし湾岸戦争で状況は変わります。対イラク戦をめぐり、ビンラディンはサウジ王室と対立しました。アフガン帰りの兵士を率いてイラク軍と戦うことを持ちかけましたが、王室は拒否し、代わりに異教徒アメリカの軍隊を国内に駐留させました。ビンラディンは王室およびアメリカと敵対し、その後は国際的なネットワークを使い、「真のイスラム国家」建設に動き出します。
 
 母国を追われ、やがてアフガンに身を寄せたビンラディンはアメリカに対して宣戦を布告します。93年にはニューヨークの世界貿易センタービルで、98年にはケニア、タンザニアのアメリカ大使館で爆弾テロが発生しました。翌年、国連はアフガニスタンに対する経済制裁を決議します。「容疑者」ビンラディンの引き渡しが要求されますが、タリバンは拒否しました。侵略者ソ連と戦った恩人であり、客をもてなすというイスラムの伝統を重視するからです。昨年(2000年)末、タリバンは国連を追放されました。
 
 そして今年(2001年)9月、アメリカで同時多発テロが起こり、報復のアフガン空爆が始まりました。しかしFBIが公表した容疑者19人にアフガン人は一人もいません。12人までがサウジ国籍です。対米テロの本丸はアフガンではありません。けれども米英軍の攻撃は激しさを増します。
 
 ビンラディンそしてタリバンは米英軍の前に膝を屈するでしょうか。コーランにはこう書かれています。「神を持たぬ異端者にムスリムを支配する権利はない」。聖戦に敗北はあり得ません。とすれば、イスラム勝利の日まで戦いは続くのでしょうか。(参考文献=M.H.カリミ『危険の道』、P.ホップカーク『ザ・グレート・ゲーム』、A.ラシッド『タリバン』など)
 
 
追伸 この記事は宗教専門紙「神社新報」掲載の連載を少しだけ修正したものです。当時の状況といまとでは異なる局面もあるでしょうが、大枠はあえてそのままにしてあります。(2006年9月)
 
 
 
 
 
 
記事の無断転載はご遠慮ください。
 
Copyright (C)2006 SAITO Yoshihisa Office. All rights reserved.