SAITO Yoshihisa’s Archives H151123IT
新嘗祭とイセヒカリ
──ある神社での講演録から
1、天皇陛下の稲作
天皇陛下には毎年、みずから稲作をなさいます。
昭和天皇には昭和4年、皇居・吹上御苑(ふきあげぎょえん)内に水田を開かせられ、御自身で稲作を始められました。今上陛下には大御心(おおみこころ)をお継ぎになり、御代替わり(みよがわり)の年からお田植えとお稲刈りをなされ、翌平成2年からは御播種(おんはしゅ)をなさる新例を開かれました。
今年(平成15年)の御播種は4月21日。皇居、生物学研究所脇の水田(作付け面積230平米)で、うるち米ともち米の種まきをされました。お田植えは5月27日。お稲刈りは9月29日。収穫された稲は、根付きのまま伊勢の神宮に懸税(かけちから)として奉られ、宮中新嘗祭(にいなめさい)にも供えられます。
国家の統治者が水田に足を踏み入れ、米作りをされる例は他国にはありません。なぜそうされるのでしょうか。そこにどのような精神的、文明論的意味があるのでしょうか。
陛下の稲作は、8世紀に成立した日本最古の歴史書である『古事記』『日本書紀』に描かれている日本という国の始まりに関する神話に基づいています。
『日本書紀』には、天孫降臨(てんそんこうりん)に際して、皇室の祖神・天照大神(あまてらすおおかみ)が「高天原(たかまがはら)にある斎庭(ゆにわ)の稲穂をわが子に捧げなさい」と命じられた、と書かれています。
大神の孫に当たる天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の神名それ自体が稲がニギニギしく豊かに稔るようすを表現しているといわれるように、天孫降臨は日本の稲作のはじめであり、皇室こそは日本の稲作の中心だということになります。
天孫降臨神話がいまも生き生きと伝えられる聖地の一つとされているのが、高千穂神社が鎮座する宮崎県高千穂町です。
『古事記』には、皇室の祖神・天照大神と高木神(たかぎのかみ)の命令で、大神の孫邇邇藝命(ににぎのみこと)が「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)」に天降(あまくだ)られた、と書いてあります。
また、8世紀に編纂された地誌『日向(ひゅうが)風土記』逸文には、瓊瓊杵尊は「高千穂の二上の峯」に天降られた、と記されています。逸文はまた尊が先住民の進言を受け入れて、種籾を四方にまいたところ、明るくなり、日月が輝いた。それで「高千穂」という地名になった、とあります。
日向国の高千穂は、皇祖発祥の地であると同時に、日本の稲作発祥の地でもあるのです。
日本の天孫降臨神話は、朝鮮の檀君(だんくん)神話に似ていることがしばしば指摘されます。
13世紀、朝鮮の『三国遺事』に描かれた古朝鮮の檀君神話では、天神が子神に三種の宝器を持たせ、風師、雨師、雲師という三機能神を随伴させて、山上の壇という木のかたわらに降臨させ、朝鮮を開いた、と伝えています。
日本の神話とたしかによく似ています。しかし、ちょっと違います。日本の天孫降臨神話は稲作起源神話と結びついていますが、朝鮮では稲作との関連はありません。朝鮮では神から授かった穀物は米ではなく、麦です。
埼玉県日高市に高麗神社(こまじんじゃ)という古い神社があります。この周辺は、JR高麗川駅、西武池袋線高麗駅、高麗川郵便局……とものの見事に「高麗」だらけです。それもそのはずで、この周辺は古代朝鮮・高句麗から亡命してきた遺民によって開かれた歴史をもっています。
いまから1300年以上も前の668年、朝鮮半島北部から旧満州にかけて広く支配していた強国・高句麗が、唐と新羅の連合軍の前に屈し、滅亡します。そのころ日本も含めて、東アジアは激動の時代でした。
それから約50年後、この地方に「高麗郡(こまのこおり)」がおかれます。『続日本紀(しょくにほんぎ)』という歴史書には、44代元正天皇の時代、霊亀2(716)年に駿河(するが)、甲斐(かい)、相模(さがみ)、上総(かずさ)、下総(しもふさ)、常陸(ひたち)、下野(しもつけ)の7カ国に住む高麗人1799人を武蔵国に移住させ、はじめて「高麗郡」をおいた、と記されています。近世には「高麗郷」、明治29年までは「高麗郡」と呼ばれていました。
高麗郡の中心に鎮座するのが高麗神社です。祀られているのは高麗王若光(じゃっこう)、歴代宮司はその子孫で、姓は高麗、現在の宮司さんで59代目だそうです。
興味深いのは、高麗神社の神前にお供えされる神饌(しんせん)です。麦なのです。宮司さんによれば、お祭りのときには「氏子がムギバツ(麦の初穂)をあげる」そうです。
なぜ麦なのでしょうか。
高句麗の建国神話には、建国の祖・朱蒙の物語が描かれています。『旧三国史』によれば、母国扶余(ふよ)をたち、建国の旅に出る朱蒙に、母・柳花は五穀の種を与えます。ところが、別れの悲しみのあまり、朱蒙はこのうち麦を忘れてしまいます。旅の途中、木陰で休んでいると、二羽の鳩が飛んできます。「きっと母が麦を届けてくれたのだ」。弓の名手であった朱蒙は、一矢で二羽を射落とします。ノドを切り裂くと果たして麦の種が見つかります。
日本の天孫降臨神話では神から与えられるのは稲ですが、高句麗では麦なのです。
東京大学の大林太良先生(民族学)によると、じつは天神が子や孫を地上の統治者として山上に天降らせる、という天降り(あもり)神話は朝鮮半島から内陸アジアにかけて広く分布するそうです。
驚いたことに、ギリシャ神話にもよく似た神話が伝えられています。ギリシャの大母神デメテルは、聖婚によって穀物の豊かな稔りをもたらす神子プルトスを生み、また寵愛する神子トリプレトモスに麦の種を与えて、天から地上に広めさせた、とあります。
しばしばいわれるように、日本の神話は朝鮮神話の物まねだというようなものではありません。そして重要なことは、日本以外の神話では母神が授けるのは麦であって、稲ではないということです。民族の祖神が稲をたずさえて山上に天降られる、という神話が伝えられているのはどうも日本だけのようです(大林『稲作の神話』『東アジアの王権神話』など)。
蛇足ですが、高麗神社は千数百年の時を経て、日本社会にとけ込み、いまは紛れもなく日本の聖地です。そこに日本人の信仰の奥深さを見るのは私だけでしょうか。
2、神嘗祭─伊勢の神宮の最重儀
伊勢の神宮では、皇室の祖神・天照大神をお祀りしています。神宮では一年365日、絶えることなく祭りが行われていますが、それは天皇の祭りであると同寺に、稲の祭りです。
なかでももっとも重要な祭りは、10月に行われる神嘗祭(かんなめさい)です。
神嘗祭は10月15〜17日の3日間にわたり、外宮(げくう)、内宮(ないくう)の順に、それぞれ夕刻と深夜の二回、今年、神宮神田で収穫された新穀の大御饌(おおみけ)が神前に供されます。最終日には、陛下が皇居内の水田でお育てになった稲の初穂が、両宮の内玉垣に懸税(かけちから)として捧げられ、正午には天皇のお使いである勅使(ちょくし)が両宮に天皇からの幣帛(へいはく)を奉ります。また皇居では、この日の午前、宮中三殿の神嘉殿(しんかでん)南庇で陛下が神宮の方角に向かって遙拝(ようはい)されます。
なぜ神宮では、もっとも重要な神嘗祭で神前に稲を捧げるのでしょうか。
記紀には、天孫降臨神話とは別のもう一つの系統の異なる稲作起源神話が描かれています。
『日本書紀』では、月夜見尊(つくよみのみこと)による保食神(うけもちのかみ)殺害の物語のところに載っています。
「葦原中国(あしはらのなかつくに)に保食神がいるから見てきなさい」と天照大神から命じられて、月夜見尊が降りていくと、保食神の口から米の飯や魚などが出てきます。尊は憤然として殺害します。大神は蛮行を知って、大いに怒り、以来、大神と月夜見尊とは昼と夜とに分かれて住まわれるようになった、と書いてあります。
そして、このとき保食神の頭部から牛馬が、額からは粟(あわ)、眉から蚕、目から稗(ひえ)、腹から稲、陰部から麦と大豆、小豆が生じます。大神は「これは民が生きていくのに必要な食物だ」と喜ばれた、とあります。
『古事記』と『日本書紀』では記述が異なるのですが、死を生の前提とする観念や、農耕の開始が宇宙の秩序設定と関連して語られていることは注目されます。
元宮内省掌典の八束清貫(やつか・きよつら)氏は、神嘗祭の淵源はこの神話にある、と書いています(八束『祭日祝日謹話』)。
八束氏は、神嘗祭という祭りの起源は、倭姫命(やまとひめのみこと)の御巡幸に始まるとも書いています。
鎌倉時代中期に成立したといわれる神道五部書のひとつ『倭姫命世記』には、十一代垂仁(すいにん)天皇の時代、皇大神宮の朝夕の御饌を奉るのにふさわしい土地を求めて巡幸される皇女倭姫命の物語が書かれてあります。
昼夜、泣き続ける鳥がいたので、臣下をつかわすと、葦原に一茎で千穂の霊稲があり、白真名鶴が稲穂をくわえて鳴いていました。
「鳥でさえ田を作って大神に奉っている」
命は稲を御料とし、この千田の地に伊雑宮を建て、真名鶴を大歳神として佐美長神社を祀ったのでした。
鳥が天から稲穂をもたらしたとする「穂落神」の伝承は全国的に知られています。それどころか、大林氏によれば、焼き畑農耕や粟栽培と結びつき、東南アジアで比較的よく伝えられているそうです。ところが、面白いことには、記紀には登場しません。それはともかくとして、倭姫命が伊勢国巡幸のとき、霊稲を大神に捧げたのが神嘗祭の祭りの最初とされています。
懸税についてですが、承るところによれは、奉幣当日に、両宮の内玉垣に、とくに紙垂(しで)をつけて向かって右方、内玉垣御門近くにおかけし、全国の篤農家から献納されたものとともに奉られるそうです。
昭和天皇には、懸税について、2首の御製を神宮に賜っています。
神嘗祭に皇居の稲穂を伊勢神宮に奉りて
八束穂を内外の宮にささげもてはるかに祈る朝すがすがし
我が庭の初穂ささげて来むとしの田の実いのりつ五十鈴の宮に
3、新嘗祭−皇室第一の重儀と天皇の祈り
神嘗祭からひと月後、全国津々浦々にいたるまで稲穂が成熟するころ、今度は宮中で皇室第一の重儀である新嘗祭(にいなめさい)が、宮中三殿の神嘉殿で行われます。
かつては11月の下卯日(三卯あれば中卯日)でしたが、明治の太陽暦の採用以来、いまは「勤労感謝の日」と呼ばれている11月23日の夕刻から深夜(翌日)にかけて、二回、陛下御自身が皇居内の水田で育てられた稲と、各県から献上された米と粟の新穀の御饌と御酒(みき)が皇祖神以下、天神地祇(てんじんちぎ)に捧げられ、陛下御自身も神前で召し上がります。
また当日、陛下には伊勢の神宮に勅使を遣わされ、両宮に奉幣(ほうべい)されるほか、全国約八万の神社でやはり新嘗の祭りが行われます。
なぜ宮中新嘗祭の神饌は米と粟なのか、というのも一つの大きなテーマかと思います。伊勢の神宮には登場しない粟が、なぜ宮中祭祀では用いられるのか。しかも米と粟では、神饌としての優劣関係はありません。粟が米と同列に供せられる宗教的意味は何か、ですが、ここでは深入りしないことにします。
新嘗祭の起源も記紀神話に求められます。『日本書紀』には、先に申し上げました天孫降臨神話、斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅(しんちょく)が描かれています。新嘗祭はこの神勅にもとづいた国家と国民の統合を象徴する神人共食の食儀礼とされています(八束『祭日祝日謹話』、阪本廣太郎『神宮祭祀概説』など)。
なぜ天皇はみずから稲作を行われ、大前に新穀を供せられるのでしょうか。
保田輿重郎(やすだ・よじゅうろう)という日本浪漫派の評論家・歌人がいます。あるとき訪ねてきた新聞記者に、「天皇の仕事でいちばん大切なのは何かね」と質問し、考えあぐねる記者に「田植えだよ」と語り、記者を驚かせたという逸話が残っています。
保田氏は「稲作神話の実修」こそが天皇の重要な仕事だ、と語ったのですが、けっして突飛なことではありません。天皇の稲作は神話の時代と直結する祭りであり、祈りなのだと思います。
日本の天皇は「祭祀王」「祈る王」だとされます。
歴代の天皇は政治的権力ではなく、祭りの力によってこの日本という国を治めてこられました。天皇による統治は、「しらす」(民意を知って統合を図ること)であって、「うしはく」(権力支配)ではないといわれます。大日本帝国憲法(明治憲法)が規定する「天皇統治」は「しらす」の意味でした。唯一絶対神に支配の根拠をおくヨーロッパの王制との違いは明らかなのですが、現代人には分かりづらいものとなっています。
祭りこそは天皇の第一のおつとめであり、歴代の天皇は、毎朝、はるかに伊勢の神宮を遥拝(ようはい)する石灰壇の御拝(いしばいだんのぎょはい)を欠かされませんでした。
明治以後は、侍従による毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)に代わりましたが、そのあいだ陛下は御座所でお慎みになるとのことです。
昭和天皇の御製にこうあります。
わが庭の宮居に祭る神々に世の平らぎをいのる朝々
陛下は人が見ないところで日々、祭りを行い、「国平らかに、民安かれ」とひたすら公正無私の祈りを 捧げておられるのです。
昭和天皇には病魔との最後の苦闘のなかで、宮内庁長官を呼ばれ、「今年の稲はどうか」と聞かれ、作柄を心配されたと伝えられます。最期の最期まで、「国安らかに、民安かれ」と祈り続けるお務めを果たされたということでしょうか。
明治時代に廃れてしまいましたが、それまで千年にわたって続いた「さば」とよばれる宮中行事があります。
天皇は毎食ごとに食膳でかたわらの皿に一品ずつ料理をお分かちになり、そのあとはじめて召し上がりました。皇祖の神意を重んじて、「わが知ろしめす国に飢えた民が一人あっても申し訳ない」と祈る思いで、名もない民草のために、この行事を淡々と続けられました。
「さば」はインドの仏語ともいわれますが、梵語で、仏教起源とするのは、必ずしも正確ではないようです。かつては宮中でも神社でも行われました。食事を尊ぶ日本の古俗であって、のちに仏教の「生飯(サバ)」と習合したようです(賀茂百樹『神祇解答宝典』)。
人は誰しも食によって命をつなぎます。しかしそれは物質的な意味にとどまりません。日本人の食事は古来、神人共食の神祭りであり、祈りであったのでしょう。ことに宮中の「さば」は、皇祖と君と民の一体化を象徴する儀礼なのでしょう。皇祖と天皇と国民の命が「さば」の行事によって一つにつながる。ここに「祭り主」たる天皇の本質と君民一体の政治的宗教的崇高な理念と実践がうかがえます。
その理念と実践は当然、皇室第一の重儀である新嘗祭につながっています。
4、イセヒカリ─奇跡の米
優れた形質をもつイセヒカリは、斎庭の稲穂の神勅さながらに、平成の御代替わり(みよがわり)に時を合わせたかのように、皇室の祖神・天照大神をまつる伊勢の神宮の神田で生まれました。
神宮の祭りに欠かせない稲を作るのが神田ですが、平成元年の秋、伊勢地方を台風が二度も襲いました。当時、神田の管理責任者をされていた森晋氏によれば、神田のコシヒカリは無惨にもべったりと倒伏したそうです。倒れやすいのがコシヒカリの最大の欠点です。
ところが、水田中央に悠然と直立する稲株があることを、台風一過の朝、森氏が発見します。コシヒカリより稈(かん)が太く短い。しかも成熟するにしたがって、見事な黄金色になりました。コシヒカリのくすんだ色とは違います。コシヒカリより収穫が1週間遅いことから、森氏はこの稲を「コシヒカリ晩」と名付け、翌年から試験栽培を始めました。
「コシヒカリ晩」が「驚異の稲」であることが判明するのは、森氏と山口県農業試験場の元場長・岩瀬平(いわせ・ひさし)氏との出会いがきっかけでした。
御代替わりの翌年、平成2年春、岩瀬氏は学徒出陣以来、生涯2度目という伊勢参宮のおりに神田に足を運びます。これがイセヒカリの「育ての親」同士の運命の出会いでした。
その4年後の6年秋、岩瀬氏の自宅に大きな段ボール箱が送られてきました。根つきの稲株5株と玄米、それに森氏の手紙が添えられていました。
「評価をお願いしたい」
後輩の内田敏夫・元農試場長がやってきました。
「この稲は見事に作られていますな」
山口県随一の稲の専門家は感嘆の声をあげたそうです。穂長が20.9センチ、第一節間長の半分以上もあったからです。
詳しい検査のため、内田氏は1株を持ち帰りました。予想もしない結果が現れました。ニレコ食味計は「食味値79」を示したのです。70以上が山口県の奨励品種だそうですから、はるかに高い数値です。何度計り直しても同じ値が出たそうです。1穂あたりの籾数は109、玄米千粒重は21.3グラム。反収を推算すると、軽く10俵を超えることになります。
内田氏も岩瀬氏も、そして森氏も驚きました。とくに森氏にとって、食味の良さは「神田でとれる米は、神様に差し上げる米なので、食べることができない」から衝撃でした(右上がイセヒカリです。穂は黄金色。葉はいつまでも青々として、生命力にあふれています。
翌7年、岩瀬氏らは圃場栽培を試みます。長門一の宮・住吉神社(下関市)の御田植祭の苗づくりを30年以上、奉仕してきた宮本孟氏(長門市)ほか3人の米作り名人が選ばれました。
植え付けてみて、宮本氏らは驚きました。コシヒカリより10日以上も遅い中生(なかて)でした。水が落とされ、コシヒカリが刈り取られたあとも「コシヒカリ晩」はなかなか成熟しません。かたや水が落とされていない水田では、30センチもある稲穂が重く頭を垂れています。
コシヒカリに準じた試験栽培で、「栽培法をぜんぶ誤った」のに、1穂籾数は125。「100以下がふつう」ですから、すごい数字です。反収換算では籾で1トン、玄米で800キロ、じつに13俵に相当します。
しかも食味値は、最高で87を記録しました。
「食味値が80以上になると、人間には善し悪しの判別がつかない。食味は十分に保証できる」
と岩瀬氏は太鼓判を押します。
「絶対に倒れないから、機械化に対応する。この年はヤマホウシ、ヤマヒカリにイモチ病が発生したが、病気はでなかった。耐病性もありそうだ」
良いことずくめの「驚異の稲」は平成8年1月、「聖寿無窮(せいじゅむきゅう)を祈念し、皇大神宮(こうたいじんぐう)御鎮座二千年を記念」して、神宮少宮司より「イセヒカリ」と命名されました。
神宮ではこの年の神嘗祭から神前に供されるようになったそうです。
また、同年4月、イセヒカリは神社新報や一般全国紙などに取り上げられ、一躍、脚光を浴びます。全国から問い合わせが殺到し、神宮は「門外不出」としてきた先例をあらため、全国の神社に種籾の下賜を認めました。その後、イセヒカリは神社の神饌田と篤農家を核にして、栽培が広がっています。
イセヒカリの特徴の第一は、コシヒカリをしのぐ味の良さです。
8年の春、岩瀬氏に真っ先に電話がかかってきたのは埼玉県秩父市の石原儀助氏からといいます。
「お伊勢さんのお米を1粒でもいいから分けてほしい」
翌9年の早春、同県神社庁を通じて種籾が分譲されると、石原氏はこう語ったそうです。
「神様にお仕えするつもりで作らせていただきます」
その秋、氏神の聖神社(ひじりじんじゃ)に奉納されたのを、祭りの直会(なおらい)で食した総代一同は、その美味に驚嘆したそうです。それもそのはず、同県農試が調べた食味値は県内最高の88を示していたといいます。
米の食味分析を専門としてきた元山口農試職員の吉松敬祐氏は「神々しいお米」と評しています。米所のコシヒカリを食べ慣れた消費者は、「炊きあがったとき、香り、艶、腰、甘みがある。こんな美味しい米は食べたことがない」「おかずが要らないお米」と絶賛しています。農家は続々と自家用米をイセヒカリに切り替えています。
岩瀬氏がまとめた山口イセヒカリ会(事務局、山口県神社庁内)のデータでは、全国的に豊作となった10年産は9割が食味値80を超えました。最高は鹿児島県大口市の森山善友氏で、何と103を示しました。ここ数年、食味値80以上が8割を超えているそうです。山口では栽培方法がすでに確立されたということでしょう。
第二の特徴は多収性です。
岩瀬氏がまとめた平成9年度産のデータでは、反収500キロ以上が7割を超え、最高は福岡県赤池町の太田欣平氏の720キロでした。
「コシヒカリ並に施肥を抑え気味にすれば、収量は平均反収そこそこだが、味はコシヒカリをしのぎ、施肥を増やせば味は日本晴並に下がるが、反収700キロが実現できる」ことも分かりました。
つまり、味を重視する稲作に対応できるばかりではなく、近い将来に予想される食糧危機にも対応できるということです。有機栽培も、無肥料栽培も、大規模経営も可能です。岩瀬氏は「いかようにも作れるスケールの大きい米」と表現しています。
第三の特徴は、耐倒伏性、耐病性でしょうか。
絶対に倒れないとすれば、機械化が容易です。病虫害にも強く、面倒な設計が要らないとなれば、深刻化する農家の高齢化に十分に対応できることになります。
山口では9年はイモチ病が蔓延し、10年はウンカが大発生しました。ところがイセヒカリはいずれにも強いことが証明されました。栽培農家は無農薬で、防除らしい防除もせずに乗り越えています。
10年といえば、関東では台風の被害に見舞われましたが、埼玉県熊谷市の吉野森男氏によれば、「コシヒカリやキヌヒカリは売り物にならないほど軒並み倒れたが、イセヒカリは王者のごとく直立して、不気味なほどだった」そうです。今年は冷温と日照不足、いもち病、さらに地域によっては台風被害が重なって、10年ぶりの不作の年となりましたが、吉野氏の圃場では病気の心配もなく、豊作だったといいます(左の写真は平成10年、台風一過の長野です。左側がイセヒカリ、右がコシヒカリ、じつに対照的です)。
第四の特徴は、タンパク含量が低く、酒米に適していることです。
酒造に適した低タンパク米として山田錦という品種が知られていますが、イセヒカリは山田錦に勝るとも劣らない適性を持っています。
草丈が高く倒れやすい山田錦に対して、イセヒカリは短稈で倒れにくく、面倒な栽培設計も不要です。
山口県の工業技術センターは、岩瀬氏が持ちかけたのに応じて、平成10年の秋にイセヒカリの酒造りに取りかかりました。試験的に醸造した酒を一口、口に含んだ岩瀬氏は驚嘆したそうです。
「これまで出会ったことのないほど甘い、柔らかい、酒というより、芳醇な飲み物、といった方が当たる酒で、頑固なまでに硬いイセヒカリからこのような酒が生まれるものなのか……」
翌冬からは、山口の名だたる酒蔵が酒造りを始めました。
「食べて良し、呑んでまた良し」の米はイセヒカリ以外にはありません(右は山口産山田錦とイセヒカリの比較データです。イセヒカリの蛋白含量が低いのが分かります)。
第五番目は、きわめて特異な遺伝特性です。どうやらイセヒカリの「遺伝子が動く」らしいのです。
山口では平成8年以来、元農試職員の吉松氏が倫子夫人とともに、自宅の圃場で系統選抜に取り組んできました。生育のようすをつぶさに観察しながら純系のイセヒカリの選抜を、慎重に繰り返してきたのですが、「どうしてもそろわない」のです。
12年夏、イセヒカリの遺伝子分析を手がけてきた静岡大学の佐藤洋一郎助教授(当時、現在は総合地球環境学研究所教授)が、吉松氏のもとを訪れました。佐藤氏は「日本稲の南北二元説」で知られる、現代を代表する植物遺伝学者です。
イセヒカリの圃場には新たな形質を持つものが生まれていました。ひょこんと背丈の低いものもありますが、三対一の割合ではありません。遺伝の法則では説明できない現象が起きていたのです。
「斑入り(ふいり)はありますか」
佐藤氏が聞くと、
「あります」
と吉松氏が答えました。
葉っぱの上に葉緑素の失われた白い筋が現れるのが斑入りです。他の品種でも起きる現象ですが、イセヒカリは起こる確率が3000分の1と高いのです。
「トランスポゾンかもしれない」
佐藤氏の脳裏に「動く遺伝子」がひらめいたそうです(右がイセヒカリを系統選抜している吉松氏の圃場です。いくつかの系統に分離していることが色合いで分かります)。
トランスポゾンは、アメリカの遺伝学者バーバラ・マクリントックが1951年に発見した特異な遺伝現象で、マクリントックはその先駆的業績が認められ、83年にノーベル医学・生理学賞を受賞しています。
イセヒカリがトランスポゾンだとすれば、どのようなことが起きているのでしょう。
佐藤氏の説明によれば、DNAの小さなかけらがある日、突然、遊離してDNAの他の部分に入り込みます。その結果、そのDNAが担っている遺伝情報が破壊され、いままでにない新たな形質が発現します。しかし、このかけらは気まぐれで、また移動します。すると、もとの状態にもどります。
たとえば、斑入りは、受精卵の初期の段階で、葉緑素を作る遺伝子上でこの現象が起きた、と考えられます。同様にして、でんぷんを作る遺伝子にこのかけらが入り込むと、うるち米であったイセヒカリが、もち米に変わることもあり得ます。
実際、吉松氏の圃場から、イセヒカリのもち米が生まれています。その確率は一万分の一、突然変異よりはるかに高い確率で起きています。遺伝の法則では考えられない何かが、やはり起きているのです。
佐藤氏はこう語ります。
「従来のトランスポゾンは機能を失った、化石状態で研究されてきました。しかしイセヒカリのトランスポゾンは生きています」
トランスポゾンが生きたままの状態で発見されるのは、栽培植物ではきわめてまれで、学問的には画期的な発見になるのだという。これまたノーベル賞級の発見なのかもしれません。
6番目の特徴は硬質米だということでしょうか。ご飯を炊く際の水加減に一工夫が必要ですが、若者向きの向きの味は米離れを呼び戻す可能性を秘めています。おむすびやお寿司に適するといわれます。
山口イセヒカリ会はイセヒカリの系統選抜、品種の固定化に取り組んできましたが、昨年末、「平成14年産イセヒカリ」を「原種」とすることについて、神宮の了承が得られました。今年からは山口県の青年神職会が会の事業として、原種の種籾の生産に当たっています。
日本文化の基層をなしている稲作ですが、産業としての稲作は危機のまっただ中に置かれ続けています。WTO(世界貿易機関)の農産物分野の新ラウンドは先般(平成15年秋)、決裂しましたが、自由化の道をもはや後戻りすることはできないでしょう。生産者も消費者も相変わらずコシヒカリ一辺倒ですが、すでにコシヒカリの命脈はつきています。国内的には米離れ、減反、農家の高齢化、対外的には貿易の自由化で、日本の稲作は風前の灯のように見えますが、岩瀬氏は「イセヒカリなら生き残れる」と断言します。
開闢以来の稲作の危機の時代に、国の精神的中心であり、稲作信仰の中心的聖地でもある伊勢の神宮で、しかも斎庭の稲穂の神勅さながらに、平成の御代替わりと時を合わせたかのようにして、イセヒカリは生まれました。伊勢の大神は日本民族に何を語りかけようとしているのでしょうか。イセヒカリ誕生という事実に、私たちはどのような信仰的意味を見いだすべきでしょうか。そして何をなすべきでしょうか。
註記 この記事は平成15年11月23日に愛知県岡崎市・岩津天満宮の新嘗祭に行われた講演録を少し修正したものです。(2006年11月)
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