SAITO Yoshihisa’s Archives H180511JS
「遺棄」ではなかった旧日本軍の毒ガス
───発見された中国への「引継書」
日中両国は歴史の真実を否が応でも、本気で追求しなければならなくなったようです。きっかけとなるのは、日本軍が旧満州などに残してきた化学兵器(毒ガス)かもしれません。
中国は「200万発を日本が遺棄した」と決めつけて政治的圧力を加え、他方、贖罪意識に固まる日本政府は十分な検証もなしに「遺棄」を認め、総額1兆円にのぼる廃棄作業が進められてきました。
ところが最近、議論の前提である化学兵器が「日本軍遺棄」でないことを証明する証拠が発見されたというのです。歴史の事実が、歴史問題をめぐって歪んできた日中関係に歴史的変化を迫るのかどうか。
□政治圧力と贖罪意識
たとえば、映画監督・小津安二郎の従軍日記には「特殊弾射撃」「特殊筒放射」などの表現が出てきます。中国戦線で日本軍が化学兵器を使用していたらしいことは噂としてありました。けれども国際法は、保持はともかく、化学兵器の使用を禁止していますから、当然、関係者の口は重く、違法行為があったかどうか、真実は闇のままでした。
敗戦から40年も経って、使用を裏付ける陸軍の極秘資料がアメリカの公文書館で見つかりました。朝日新聞は昭和59年6月、「毒ガス、日本軍が使っていた」と大きく報道するとともに、抗日ゲリラ討伐などに使用されたと語る元将校らの証言を伝えました。
日本軍が保有していた化学剤は毒性が低かったし、昭和47(1972)年の日中共同声明で中国は戦争賠償請求の放棄を宣言していましたから、国家間の賠償問題は解決済みのはずですが、「歴史を鑑(かがみ)とし、未来に向かう」が常套句の江沢民時代になって、問題はにわかに政治化し、「最大の戦後処理」といわれるほどの補償問題へと発展します。
中国が非公式に、「旧日本軍が残した化学兵器で国民が被害を明けている」と通知してきたのは90(平成2)年といわれます。中国では江沢民の愛国「反日」教育が開始された年で、権力掌握が順調でなかった江沢民は日本に対する強硬姿勢を示すことで力を誇示しようとしていたといいます。
同じころ国際社会では化学兵器禁止への動きが加速していました。92年2月のジュネーブ軍縮会議で、中国代表団は「ある外国が中国に残した化学弾のうち30万個を中国が処理したが、まだ200万個以上が未処理のままである。被害者は2000人以上にのぼる」と発言しました。「ある外国」とはもちろん日本です。
同年9月に採択された条約案の署名式がパリで開かれたのは翌93年1月、日本も署名しました。
それから2年後、「抗日戦争勝利50年」の95(平成7)年3月、中国政府は民間による戦争賠償請求運動への支持を表明し、9月には江沢民主席が「日本侵略軍によって中国人3500万人が死傷」と演説、「反日」は頂点に達します。
同じ9月に、日本は化学兵器禁止条約を批准します。村山首相は終戦記念日に「植民地支配と侵略によってアジア諸国に損害と苦痛を与えた」とする談話を発表し、「戦後処理への誠実な対応」を表明していました。
科学的検証が不十分なまま、中国国内に残存する化学兵器は「日本軍遺棄」と認定され、中国の政治圧力と日本の贖罪意識が交錯するなか、廃棄への作業が始まりました。
96年には日中共同調査が実施されました。化学兵器禁止条約は、2007年までに全廃すること、遺棄兵器の廃棄に要する全費用は遺棄国が負担することを定めており、日本政府はこの条約によって新たな責務が生じたとの立場に立っています。日本の調査では化学兵器は70万個とされます。
翌97年4月に化学兵器禁止条約が発効し、同時に中国が条約を批准すると、日本は条約に基づいて「他の締約国の領域内に遺棄したすべての化学兵器を廃棄する」ことを迫られました。両国政府は99年7月に化学兵器の廃棄処理に関する覚書に調印し、「大量の旧日本軍の遺棄化学兵器が存在している」ことが確認され、日本は「すべて必要な資金、技術、専門家、施設を提供する」ことを義務づけられました。
一方、毒ガスで被害を受けた中国人個人への賠償を求める民事訴訟も起こり、胡錦涛政権が成立した3年前の平成15年9月には、東京地裁が中国人原告に総額1億9000万円を支払うよう日本政府に命じています。
この年はまた旧満州チチハル市で「遺棄」化学兵器で40人の被害者が出たと伝えられました。「日本軍国主義による中国侵略という罪の証」と中国政府は非難の声を上げ、日本政府は年末には被害者らに「協力金」3億円の支払いを決めました。
□中国への「引継書」
問題は何でしょうか。それは、「日本軍遺棄」の根拠が明確でないことです。東京地裁判決は「遺棄隠匿が容易に推測できる」としていますが、「推測」でいいなら逆のこともいえます。
終戦直前、ソ連は日ソ中立条約を破棄して、怒濤のごとく満州に侵入しました。終戦を告げる玉音放送のあと、日本軍は陛下の御命令により自発的に武装解除しました。「完全な武装解除」はポツダム宣言の条件でもありましたが、ソ連は「関東軍は降伏命令を受け付けず、猛烈な反撃を続けている」とウソで固めて、攻撃を続けたといわれます。
ソ連は日本軍の武器をことごとく奪い、60万人を「軍事捕虜」として酷寒のシベリアに送り込みました。化学兵器だけが没収の例外だったはずはありません。「遺棄」する時間的余裕があったとも思えません。奪取された日本軍の兵器はその後、中国人民解放軍に渡っているようですから、「日本軍遺棄」はまったくの言い掛かりといえます。中国は「180万個の化学兵器は旧満州・吉林省ハルバ嶺の山奥に戦後、応急的に埋めた」と主張してもいます。これでは「日本軍の遺棄」とはいえないでしょう。
「遺棄」への疑問はこれまでも提起されてきましたが、ついには物的証拠が発見されたといいいます。雑誌「正論」6月号に、武装解除した日本軍が兵器を中国側に引き渡したことを日本語で記録した「引継書」に関する記事と写真が載っています(水間政憲「遺棄化学兵器は中国に引き渡されていた」)。
記事によると、600冊を数えるというこの「引継書」は戦後、ロシア各地の公文書館に保管されていました。中国国民党軍に戦利品として奪われ、八路軍を経て、ソ連に渡ったようです。90年代に斎藤六郎・元全国抑留者補償協議会長が合法的に日本に持ち帰り、その後、同協議会の「シベリア史料館」に眠っていたのです。
むろん化学兵器廃棄は国際的に推進されるべきですが、「日本軍遺棄」でないなら中国領域内の化学兵器を日本が処理すべき筋合いはありません。日本政府は「資料が発見されれば基本的な枠組みが変わる」と表明してきましたが、「引継書」が本物なら、直ちに見直しに着手すべきでしょう。今月(平成18年5月)上旬、訪中した公明党議員らに中国の関係者は「廃棄を速やかに進めるよう要求した」とも伝えられますが、このまま政治要求に屈従することは許されないでしょう。
註記 この記事は宗教専門紙「神社新報」平成18年5月22日号に掲載された拙文を少し修正したものです。(2007年1月)
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