Nashvill Skyline◆BOB DYLAN
こんなオレはオレじゃない!
とかいう言い方は、自分の中に確固とした”自分像”があって、そういう自分の思う自分とのギャップに対しての反発なのだと思うのですが、自分の中にある自分像というのは往々にして「こんなふうでありたい理想の自分」でもあるのです。あたりまえですけど。そしてじつはそーいうセルフイメージとしての自分像は他人から見る”私”とは遠くかけ離れている場合が多いのです。(ていうか、基本的にセルフイメージとは一致しないのです)ヒトは相対的な存在なので、あくまで”相手”に対峙しての自分というものがあるだけで、いつ何時誰に対しても揺らぎないキャラというのはないのですよ。そして「こんなオレはオレじゃない!」と言っちゃいたくなる場面というのはそのとき向き合っている相手に対して自己肯定ができない状況(つまり関係性の中で相手がイニシアティブを握っている状況)なだけで、平たく言えば”自分のわがままが通らない”シチュエーションなだけだって言い方もできると思うのです。いやね、このところ各所で「エロ兄さん」とか「エロsadan」とかいう呼び名が固まってきつつあって、そー呼ばれることはたいへん光栄でもあり誇らしく感じているのですが、考えてみるとそういう「自分が望む自分像」と本質的な”私”の差異に気づくわけなのですよ。ていうかね、ほんとはね、私は”エロ”ではあるけれどもけっして”兄さん”ではありませんっ!(←そっちか!)っていうかぁ、なんとな〜く感じるんですが「このsadanってやつ、エロなことばっか書いてるけど、ホントはそーんなにエロくないんじゃないか?」とか思われてたら、どーしようと心配になるわけなのですよ。もっというと、何人かのリアル私を知ってる人から指摘されたことあるんですけど「なんかけっこう”イイヒト”っぽいキャラになってる」とか。それは本当に危険です。違います。違いますよぉ、私は本気で筋金入りでエロですし、心根の腐ってるどうしようもない失格人間なのですよ。ほんとに。ていうわけで、これ。近代化の達成という時代背景の中でポップ・カルチャーの持つ”メッセージ性”を最も体現した表現者のひとりボブ・ディランさんの10枚目アルバムです。私もそのうちのひとりですが、もはや宗教色さえ匂わせる彼の詩にどれだけ多くの人が人生観を形作る影響受けたことでしょう。そんなボブさんの1969年(この年はロック史においてエポックな出来事満載のターニングポイントでもあります)発表のアルバム。私、初めてこれ聴いたときは高校生でしたが、それからずいぶん長い間このアルバムのよさがまったくわかりませんでした。まず、そのジャケ写にツッコミ「おい、なんだよその爽やかな笑顔はよぅ、そんなの”ボブ・ディラン”じゃねーじゃんよぅ、ロックじゃねーじゃんよぅ」そして紡がれる美しいメロディと澄んだ歌声にツッコミ「おいおい”憂い”はどーしたの?なんだよその声はよぉ〜、涼しげで心地良さげで”満たされてる”声してるじゃん、こんなんじゃ”世界”は変わらないよ〜」”こんなのボブ・ディランじゃない”ほんとうに、ずっと長い間そんなふうに感じてました。そんな感じ方に変化があったのは30歳も過ぎてから。自分自身が”心を開く”ことを覚えてから。自分じゃない自分みたいな妄想に振り回されなくなってから。いまじゃね、かなりお気に入りのアルバムなんですよ。彼自身も言ってます
が、”世界を変える”のはどっかの偉い政治家や思想家や宗教家や哲学者や、ましてロック・スターなどなのではなく、名もなく生きるいまの”自分”自身の心なのだということに気づくと、人生で背負い込む荷物の重さに違いが出てくるのです。うまくいかないこと、思わないほうへ転がっちゃうモノゴト、望みが実現しないこと、イライラくる出来事、いままでもこれからもずっと、生きていく限りなにがどう転んでもそれらから完全に自由になることはありません(解脱者になる、とか、絶対君主になる、とかいう方法はありそうですけど…)うまくいかないときこそ、もいっかい深呼吸してみて(自分のほうの)”心を開いてみる”ことが必要なんじゃないかと思うのですよ。そして”こんなの自分じゃない”と感じる関係性を受け入れ生きてみることも大切なんじゃないかとも思うわけなんですよ。そういう”自分じゃない自分”を生きなきゃいけない場面に直面したとき、今の私はこの”ボブ・ディランじゃないボブ・ディラン”を聴くことで落ち着くことができるんです。あなたにも、私にとってのこのアルバムのような”なにか”が見つかるといいですね。そして私は、ほんとーに本気で心の底から”エロい”ですからねっ!そこんとこ、どーぞヨロシクなのですよ。
Posted: 火 - 9月 19, 2006 at 10:40 午前
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