空も飛べるはず
アソコを、ほらっ!
太くして長くして堅くして強くしたいわけですよ。
アソコって?私の股の間にある、あの黒くて熱いドコドコ脈打ってる、あれですよ。
いやほんと。よく言われることですけれど我々が自身で感じているところの”自分”という存在は、じつは思ってるほど強固に確立した客観性のある絶対のものではないんですね。それは自分という全体の意識の一部(自我)しか自覚できないというメンタルの部分でもそうなんですけれど、目に見えて当たり前のように感じている”自分の身体”というフィジカルな側面も、じつははっきりと線引きできる「ここからここまでが自分で、こっから先が自分じゃない(他者)」ていう境界がいつどんなときも揺らぐことのない確固としたものではないのです。自動車運転する方ならよくわかってることだと思うのですけれど、自分の運転するクルマのバンパーやタイアの位置をいちいち細かく確認せずとも運転ができる、いわゆる”車幅感覚”というあれは、明らかに自身の身体感覚拡張
の状態だと思います。つまり、運転してるクルマが自分の手足の延長となってコントロールできる身体の一部だと捉えてるような状態ですね。あるいは戦争や事故などで手や脚を無くしてしまった人が、もうすでに無いはずのその手や脚の先が痒いという感覚を感じたりするようなことがあると聞きますが、そういうことも「自分の身体」という物理的•現実的な存在と、自分が感じることのできる”自分の身体”の間に乖離があることを示しているようにも思います。道具を利用するあらゆるスポーツで超一流と呼ばれる人たちが、同じようにその道具をまさに”手足のように”操る様を見ても、そういう身体感覚拡張の状態というのは想像するのが難しくはありませんね。一流のテニス•プレイヤーはテニスラケットを身体の一部のように、一流の野球選手はバットを身体の一部のように、一流のゴルファーはクラブを身体の一部のように、まさに自分の中に位置づけて操っているのでしょう。そういうことは脳のメカニズムや神経系の機能によって、ある程度は説明のつくことなのかもしれませんが、けっきょくやっぱりどこからどうみても、人間の感じてる「自分」なんてものはある種の物語性に支えられた幻想なのではないかとも思うわけなのです。で、クルマと同じようにバイク乗ることも身体感覚拡張の状態を作り出すのだと思うのですが、考えてみたら「生身の身体で一定以上の速度を出して空気の中を三次元的に移動する」という状態を”自分の力で”(←このへんがジェットコースターなんかと違うところ)作り出せる運動って、そんなにはないんですよね。サーフィンやスキーくらいでしょうか、バイク以外でぱっと思い浮かぶのは。言葉にしてしまうとこ難しいその運動って、まさに”空を飛ぶ”状態だと思うのですよ。で、そー考えるとバイク乗りというのは(身体感覚拡張の幻想にのって)自分の身体で空を飛べる人間だ、とも位置づけることができるのです。古くはBucoのフライング•ホイールのエンブレムに見られるように、そしてハーレー•ダヴィッドソンのシンボルがイーグルであることや、インディアンの車体にあしらわれたエンブレム、そして現代でもHONDAの二輪部門が使用するマークなど、バイクに関わる多くのモノに鳥や羽や翼がモティーフとして描かれてきたのは、決して偶然ではないのです。それらはバイク乗りを象徴する非常に重要なイコンでもあるのです。HONDAのコピーじゃありませんが、バイク乗りという生き物はほんとに「翼ある人」なのです。あー、よかった。空を飛べる人間になれて。素敵なことです。幸せなことです。日常や現実の中で積み重なっていく澱のようなストレスは、誰にとっても厄介でつらいものです。煮詰まってきた社会の中で自分を押しつぶしそうに積もっちゃったそういうストレスを、私は”空を飛べる”ことによって振り払おうとしています。そのことに支えられてもいます。ああよかった。私にはバイクがあって。と、思います。いつもいつも。で、ね、アソコを、ほらっ!太くして長くして堅くして強くしたいわけですよ。アソコって?私の股の間にある、あの黒くて熱いドコドコ脈打ってる、あれですよ。上のリンク先では、身体感覚拡張によってたとえばジャンボジェット機の操縦者は自分の身体を全長80mにまで感じられるんではないかと言ってますね。と、いうことはですよ、私の貧弱なこの細くて小さくて柔らかくて早いこれもですよ、例えば超特大ディルドーなんかを(一流スポーツ選手のように)身体の一部として扱えるようなスキルを身につければね、身体感覚拡張によって超特大○○○として感じることも可能なはずなのです。えっと、無理?…orz
Posted: 木 - 3月 2, 2006 at 11:30 午前
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