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バイク乗りの気持ち


オートバイ少女 』のvictorさんがバイクの高速タンデム規制緩和に絡んだ記事を続けてエントリされています。(”タンデムはキライ ”・”ヒャッホーと叫ぶために ”)


二輪車の高速道路二人乗りの議論は既にあちこちで語り尽くされていますし、規制や緩和措置の中身について私はあまり意見はありません。
ま、感覚的には「やっとあたり前のことができるようになるのか」という感じですが、けっきょくはvictorさんの書かれているこのことに尽きるのでは、と思います。
ライダーなら、危険という言葉には、それぞれの持論があると思うのです。もちろんこの乗り物から、リスクを100%無くす、という事はできません。でもライダーが成長していけば、少しでもそれをコントロールする力を身につけていくのでは、と思うのです。
危険とどう向き合うか、そういうところから、オートバイにまつわるいろいろな文化は成熟すると思うのです。

議論の真ん中に”バイク乗りの気持ち”が見えてこない、ということでしょうか。

高速料金の設定の在り方も含めて、そもそも”モーターサイクル”という存在が国家という枠組みの共同体の中で位置づけられているポジションが、まだまだ我々”バイク乗り”たちが考えているそれとは乖離しているということなのではないかなどと思うわけです。

様々な分野で”なんとか文化”と呼ばれる意味でのバイク文化というものが、根付いていないのだ、とも言えるのかと思います。

あるスポーツジャーナリストがわかりづらい言葉である”文化”の理解のためのこんな考え方を紹介していたのが印象に残っています。
「文化」というのは、わかりやすい例えで言うと、外国に行った時に現地の人とのコミュニケーションのなかで自分の属する共同体の”誇り”だと感じられるようなもののことだ。
その意味でアメリカでの”イチロー”の存在や、オランダでの”小野伸二”の存在は、日本の野球文化、サッカー文化を代表している。
(私の意訳です)

と。
文化というものをそういうふうに考えると、世界の人に披露して喜ばれる日本の国技”スモウ”は、確かに日本の文化であるのだろうし、”禅”や”サムライ魂”、”茶道”や”日本庭園”や”スシ”、”家電製品”や”アニメ”など、我々が日常の中で意識できないほどの事柄も、世界中の人に愛されるもの達はみんな”日本の文化”だと言えるのでしょう。

そういう意味で”バイク”は、どうでしょ?

日本のバイクが世界中で愛されていることを、どれほどの(バイク乗りでない)日本人は知っているのでしょう。意識しているのでしょう。

クルマと同じようにバイクにも、プロダクツそのものの持つ”歴史”が有する重みの部分で、日本車にはまだまだ足りない部分がある、という話はちょっと置いておいて、それでも世界中で”モーターサイクル”という製品の中での”HONDA”、”YAMAHA”、”SUZUKI”、”KAWASAKI”の占める位置付けは、充分に「誇り」だと感じられるものだと思うのです。

バイク乗りだけが知っている「誇り」を、例えば相撲に興味のない日本人が外国人の友人に”相撲が好きだ”と言われた時に感じるような気持ちとして、多くの日本人が意識してくれるようになれば、日本の”バイク文化”も成長してゆくのではないか、などと思うのです。



こんなふうに書きながら、私はいまの日本でのバイクの位置付けが「とんでもなくおかしい」と強く主張できるほどの信念(というほどでもないですが…)を持っているわけではありません。
そのことはモーターサイクルそのものが持つ象徴性と繋がっていて、つまり”社会を管理する側”からすると”自由”や”個人主義”または”反逆”といったものを象徴するバイクはおもしろい存在ではないのだろう、ということは想像できるからです。

そういった”バイクが象徴するもの”こそが、バイクの深い魅力だという側面もあるわけで、社会にとって無害な”スモウ”と同列では語れないという一方の事実も、よく理解しておく必要がありそうです。



で、けっきょく「なにが言いたいんだ?」と自問すると自分でもわかりません。

年末で忘年会続きで、常に酔っぱらっている状態なので、許してください。



結論は、”バイク乗りの気持ち”も少しだけ寛容に受け入れてねん、というお願いです。

たぶん。


Posted: 金 - 12月 17, 2004 at 09:41 午前          

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