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あなたも私もボッキー!


なんかさいきん健全ライダーのようにバイク乗ってるなあ。

しばらく仕事が忙しかったのでその反動もあるのかもしれませんねー。

ディーラーの創業祭企画ツーリングに誘われて、三重県まで走ってきました。
なんと総数50台!
私、こんな台数で走ったことありません。
というか、そもそもツルんで走るの得意じゃないし、お店のツーリングなんかいつも誘われても参加しないでいたのでした。
これだけの台数だと、アレですよ、よくあるやつ。
パレードみたいに千鳥に並んで皆お行儀よく整列して走るの。

若かった頃、国産乗ってた頃なんかは、こういうハーレーおっさん軍団見て「な〜んじゃ、それ?そーんなのバイクの走り方じゃねーじゃん。だっせぇー」などと思っていたわけなのですが、35歳のリアルおっさんになったいまの私はまさに”ダッサイ”ので違和感無く溶け込んでいたと思います。
ていうかね、楽しいの、わりと。

ああ、皆でツルんで走るのもいいもんだなあ、と開眼。
なーんで私、毛嫌いしていたのでしょう?

あのね、基本的に”孤独なもの”だと思っているのですよ。バイク乗るという行為そのものの持つ特性や魅力が。
圧倒的な孤独という状態を、日常生活のなかで持ちにくい熟成が進んだ社会の中で、人生においてどうしても必要な種類の孤独を感じるために必要な時間なのですよ。私にとってバイク乗るということは。

たとえばスキューバ・ダイビングやサーフィン、もっといえば普通に町中のジムで泳ぐスイミングなどでもいいのですが、そういうもののなかにもバイク乗るのに似た孤独な時間というのがあるのだと思います。
ランニングとかでもいいかな。
たとえば”読書”みたいに物語の世界に集中するような場面や、工場でベルトコンベア上の繰り返し作業をするみたいな集中も、ある種の孤独なのだとは思うのですが、そーいうのはなんか違う感じがします。もっとこうフィジカルなところで”追い込まれる”ような感覚がするもの。

コミュニケーションの生き物であるヒト科ヒトは、そこに自分を映し出す鏡としての対象(他者)が存在しないと、”じぶん”というものを位置づけられないとも言われています。つまり「”あなたにとっての私”がいるから私は”私”としてはじめて確立する」というわけですね。

考えてみれば社会生活のなかでは、母親に対しての息子である僕、とか、上司に対して部下としての私、とか、彼女に対して恋人としての自分、とか、クライアントに対して1エロリーマンとしての私、とか、友人に対しての悪友としてのオレ、とか、キャバクラでハメ外しすぎるドキュン客のじぶん、とか、Blog訪問者にとっての下ネタオヤジとしての私、とか、これみんな違うわけですね、やっぱり。(←すべて”例”です。私じゃありませんよ、念のため…)それぞれの人格を別な立場では出せないわけですよ、やっぱり。
人間みんな、自分を自分だと認識してくれる誰かに向かっての”じぶん”をそれぞれの場面や立場で演じてるんだ、とも言えると思います。

そういうことってたぶん、自我とかエスとかそういうものとかんけーあるんだと思うのですが、よくわかりません。

よくわかりませんが、きっともっと生物的にプリミティブなところへの潜在的な希求というものが、複雑な社会生活のなかで現代人には生まれてくるのではないでしょうか。

自分が誰にとっても”相対的な自分”である必要のない時間。

それが、私にとっての”バイク乗ること”の最大の意味かもしれません。



あー、話がなんかわけわからん方向へ行ってるぞ…


ま、つまりですね、私がいままで感じていた”バイクの乗り方”の有り様みたいなものは、なにも自分ひとりで走ってるだけじゃなくても得られるんだ、というようなことを今回の集団ツーリングで学べたわけです。
皆で走ってても、バイク乗ることの魅力は失せない。皆といっしょでも、それぞれに必要な孤独感は感じながら走れるのね、ということを知ったわけです。
ああ、この歳になっても教えられることはいっぱいあるのね。人生って奥深い。(ていうか、当たり前のこと受け入れられないヒネクレた性格が災いしてただけかも…)


で、京都から奈良経由で三重県の上野まで皆さんと走って、そこからはやっぱり単独行動でひとり琵琶湖方面を走り回ったわけです。

あ、やっぱ集団行動できないんじゃん。

いや、半日だけでも並んで走れただけでもすごい成長。

大人だなあ、自分。









※)タイトルはゾクフー店の待合室で点いていたTVから流れたCMのコピーから連想してネタにしたいと思ったけれど、いくらなんでもそれはアレなので、なんとなく書いてみた件について(うそ)

Posted: 土 - 11月 5, 2005 at 11:26 午前          

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