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<< 大阪バイブルチャーチの月刊誌「みぎわ」より (1983年6月号)>>
『姿は心を現す』 ― 佐々木季邦 師範(ささき すえくに:九段・範士)の訓戒を覚えて ― 牧師 井草晋一
大森林の静けさと、雷光のごとき鋭い剣風を持つ老剣士を通して学んだこと。
9年前(1974年)の信州(長野市)における剣道部の夏合宿のある晩、私たち剣道部員は、一日の激しい練習を終え、夕食後、OBの諸先輩と共にミーティング(会合)を開いていました。最初のうち、正座して先輩の諸注意を聞いていた私たちは、しだいに無意識のうちに胡座(あぐら)をかき、立て膝をし、足を投げ出し、また、壁に寄りかかっていたのです。 その時、黙って正座しておられた七十余歳の佐々木季邦師範は、すくっと立ち上がり、車座の中央に進み出、正座し、おもむろに尋ねられました。 「井草、これはなんと言う。」 「ハイッ、正座です。」 座り直され、 「稲山、これは何か。」 「ハッ、胡座(あぐら)です。」 膝を抱えられた師範は、 「広瀬、これは。」 「ハイッ、立て膝です。」 最後に、横に寝て肘枕をして問われました。 「明田、これは何か。」 「ごろ寝です。」 ピーンと張りつめた空気の中で、座り直された師範は、次のように言われました。 「姿は心を現すものである。」
忙しい仕事の合間に休暇を取って練習に来て下さった諸先輩に対して、何と礼を欠いた態度だったかに気づかされ、自らの姿勢を正されたのでした。 私はこの時、主イエス様も、その表現は異なるけれども同じ内容を弟子たちに語っておられたことを思い起こしていました。
「なぜなら、人の口は、心に満ちているものを話すからです。」 (ルカの福音書 6章45節)
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主イエス・キリストは、彼と接する弟子たちや周囲の多くの人々の信仰の姿勢を問うていかれました。民に聖書の教える立場の律法学者や、厳格なユダヤ教徒と自負するパリサイ派の者たちの敬虔そうに見える信仰の中に、大きな偽善があるのを見抜き、厳しく指摘し「悔い改めなさい。」と迫られたのです。 また、持っていた全財産のレプタ銅貨二枚をささげた寡婦(やもめ)を見つめていた主は、弟子たちに告げられました。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」 涙で主のみ足を濡らし、美しい髪の毛で拭い口づけして香油を塗った女に対して、周囲の「あれは罪深い女なのだ」という声の中で、イエス・キリストは、「あなたの罪は赦されています。」と宣言して下さいました。彼女の「真実な悔い改めの心」と「イエスに対する深い愛の現れ」を受け入れて下さったのです。 十字架の苦しみの一週間前に滞在した家で、三百デナリの銀貨に相当する高価なナルドの香油が入った石膏(アラバスター)の壺を割り、イエスの頭に注いだマリヤ。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」と言って、厳しく責めたてる人々の声をさえぎり、「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」とかばってくださった主イエス・キリスト。
このように、私たちの心の内にある、人に対する思いや神に対する思いは、おのずとして姿や形を取って現れて来ます。礼拝や祈りの姿において、奉仕や献金(捧げもの)、兄弟愛の実践や、周囲の人々への接し方において。 まさに、「姿は心を現す」ものであり、「人の口は、心に満ちているものを話す」と言えましょう。 今日、私たちはどのように主の愛に答え、愛の実践をなそうとするのでしょうか。
願わくば、主イエス・キリストへの熱き思いが、私たち一人一人に与えられ、心に満ちているものが形となって現れますように。神への愛、人への愛の心が姿となって現れる人生を歩ませて戴きたいと心より祈ります。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 ― イエス・キリストのことば ― (ヨハネの福音書 13章34節)
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