Sometimes I feel like I'm beating a dead horse...
(W.AXL ROSE)
(by Rj)
「ねぇ、また例のバイトに行くの?」
最近、といってももう七週間程前だが、GBで知り合ったミナがそう訊いた。GBというのは、毎週日曜夜だけ重金属的なロック専門になる新宿の小さなディスコだ。
「ああ、行くよ。また依頼があればね。」
「お金はもうたくさん持ってるんでしょ?どうしてそんなに働きたがるのよ?」
さあ、どうしてかな。ときどきそこに行って、何もかも忘れて命を危険にさらさないと怖いんだよ。一見、矛盾しているようだが。
「どうしてかな。俺にもよく分からないんだ。」
ミナはその切れ長の目をすっと俺の顔から前方に向けなおし、すぐにまた俺の顔に戻した。
「変な人。ワーカホリックなのかしら?・・・ねぇ、そろそろホントのことを教えてくれない?ホントは何をやってるの?」
「教えない。教えたら、その瞬間俺はふられるからな。ははは。」
ミナは一瞬驚いたようだったが、くすっと微笑んで言った。
「何言ってんのよ。タカシが何をやっていようと、そんなこと関係ないわよ。・・・それがたとえ人殺しでも、タカシはタカシだもん。」
でも本当に人殺しかも、なんて考えてないだろう?
「本気か?」
「うん。・・・まさか、本当に人殺しなの?」
「ああ、そうだよ。それも、大量虐殺。」
「またぁ。やめなさいよ、からかうの。怒るわよ。」
「ははは。」
「でも・・・タカシが急にふらっと何日もいなくなっちゃうの、寂しいんだからね・・・」
「あ・・・ああ。すまん。」
俺達は、善福寺公園のベンチに座って、池と、そこを泳ぐ水鳥を眺めていた。目を上に向けると、細いうろこ雲を斜めに横切る飛行機雲が、空の大半を覆う樹々の葉の隙間から覗いていた。東京らしくもない澄んだ空気の、平和な秋の午後だった。ぱっと見では冷たい印象を与えるミナが纏う'気'は、その秋の空気みたいに透き通って柔らかく、穏やかに純だった。俺はひとときの安堵に身を委ねていた。
夜は苦痛だ。もともとは夜が好きだったはずの俺だが、例の仕事を重ねるうちに、その感覚は様変わりしていった。明大前のアパートの部屋で独り迎える夜は、日によって波こそあるが、長期的に見れば明らかにだんだんとその与える苦痛を強めていった。かつては大好きだったYEBISUも役に立たなくなり、今では毎週一ケースのYEBISUのロング缶に加えてJack Daniel'sのリッターボトルが二本ずつ空になっていった。そしてJD'sも、次第にその効果を低下させていくようだった。
これは仕事だと理性で割り切ってはいるものの、その仕事の内容は俺の生物的な攻撃本能(そんなものが本当にあるのかは分からない。単に歪んだ環境で生活するストレスがそれを生み出しているのかも知れない。)の要求する範囲を大幅に超えていた。その結果、自業自得としか言えない苦痛が毎晩俺を襲うようになった。その呪縛から逃れられるのは、皮肉にもその仕事をしていて迎える夜に限られていた。だから俺は、一時的逃避のためにまた仕事を請け負い、被る呪いをもまた増加させていくという悪循環の中に辛うじて自分の正気を維持していっているのだった。だが、日増しに苦痛は増加し、このまま永遠にこんな生活を続けられるわけがないのも分かっていた。といって、他にどうすればこの悪循環から抜けられるのか、何も良い考えは浮かばなかった。第一、その仕事というのは俺自身が選んで始めたものである。誰に強制されたわけでもない。そのツケは自分の生を削りながら払っていくしかあるまい、という諦めにも似た覚悟の上で始めたはずだったのだ。
なぜこんな仕事に手を付けてしまったのだろう?その仕事をするようになったのは、今から二年半程前だった。当時俺は理系の大学生をしていたのだが、自分で選んだはずの研究は面白味を欠き、毎日やりたくもないコンピュータ・プログラムのデバッグに追われ、一体俺は何をやっているんだろう?これが俺の一度限りの人生の費やし方なのか?という疑問を日毎に膨らませつつ、生きているんだか死んでいるんだか分からないような日々を送っていた。
そんな時、とある昔の知人からその話が舞い込んできた。
「お前、ひとつバイトをしてみないか?」
「バイト?どんな?」
「○×。」
「は?なに?それ、ぼのぼののおとうさんの新しいジョーダンか?」
「○×だよ。真面目な話だ。今、知人に『いい人材がいたら紹介して欲しい』と頼まれてるんだ。」
「いいじんざいだぁ?何で俺に振るんだよ。俺は単なる学生だぞ?」
「ああ、知ってる。でもお前、今の生活に満足しているのか?そんな生活に?」
「い・・・いや、満足してるってわけでもないけど・・・」
「だろう?お前はちまちまと計算なんかして腐ってるべきじゃないんだよ。」
「だけど・・・○×って・・・突飛すぎないか?そんなもんやったことないぞ。」
「ああ、普通はそうだろうな。でも大丈夫だ。まず、ある場所で三ヶ月間みっちり訓練してもらう。お前はそういうのに向いているから、恐らくその三ヶ月で一人前になれる。実際に仕事をしてもらうのはそれからだ。」
「向いてるとかそれからだとかって、勝手に決めるなよ。俺は○×になんかなりたくない。」
「まあ、急な話だしな。別に今すぐ決めなくてもいいよ。一週間したらまた電話するから、その時に返事をくれればいい。それまでよく考えてくれ。」
「ああ。でも俺はやる気はないぞ。」
「まあ、じっくり考えることだ。お前の人生はそのままで終わるべきじゃあないだろう?」
そう言って彼は電話を切った。俺には、勿論やるつもりなど毛頭なかった。いくら今の生活が退屈だとはいえ、いくらなんでも○×なんて・・・どこかの三文硬茹で小説じゃあるまいし・・・と思っていた。しかし。
そのことについて考えてみるうちに、俺はだんだん「やってみようか?」という気になってきた。勿論その当時の生活が退屈だったこともあるが、好奇心旺盛で自惚れの強い俺は、実際にその仕事をしていくことがどんなに恐ろしいことなのかをよく考えもせず(或いは、たとえ考えてみたとしても、実際にやってみなければ本当の恐ろしさは分からなかっただろう)、一度くらいそういうことをやってみるのもいいかも知れない、などと甘い考えを抱くようになっていったのだ。
一週間後、予告通り彼から再び電話があった。
「よう。どうだ?考えてみたか?」
「あ・・・ああ。ちょっと訊きたいんだが、仕事って、任意で受けたり断ったり出来るのか?」
「おう、そうか。やる気になってくれたか。有り難い。勿論、受けるのも断るのもお前の自由だ。やりたくないものを断ったからって命を狙われたりはしない。安心してくれ。」
「そうか・・・じゃあ、取り敢えず訓練を受けてみようかな・・・」
「分かった。早速手配しておく。近いうちにそっちに連絡が行くだろうから、それまで待っててくれ。それから、その間に、基礎的な体力くらいは整えておいてくれるとその後の訓練にもスムーズに入れる。」
「ああ。分かったよ。」
「じゃあ、よろしくな。引き受ける気になってくれて助かった。」
「そうか。じゃあな。」
甘かったのだ。「自分のリスクは自分で負う」なんてことは、言われなくてもよく分かっているつもりだったのだが。リスクの大きさを事前に正確に把握することは本当に難しい。
ミナと共に朝を迎えたことはまだ一度もなかった。といっても、セックスレスだった、というわけではない。彼女は練馬の自宅に比較的厳しい両親と同居しているので、外泊なんて許してもらえなかったのと、あとは俺の問題だった。深夜になると怯え、時には幻覚を伴って錯乱状態に陥る姿を見せることが出来なかった。独りではなくミナと一緒にいれば大丈夫かな、とも思ったし、実際デートをしていて夜になっても、ミナといる間は辛うじて理性を保つことが出来ていたのだが、それでもせいぜい零時前後までの話だ。夜はそれからが長い、というのが俺の実感だった。
ミナも別にそのことを不自然には思っていなかったようだ。毎回律儀に彼女を帰す俺のことを、「両親と自分の関係を気遣ってくれる優しい彼氏」ぐらいに思っていたようだった。彼女は一人っ子だったので、両親はことのほか彼女のことを大事にしているらしかった。俺に言わせれば過保護以外の何物でもなかったが。彼女はもう大人なのに。だが、そのお陰で俺が自分の醜態を彼女に曝さずに済んでいるのも事実だったので、俺は特に文句を言おうとも思わなかった。
ミナは変わったコだった。最初に出会った時、俺達はそれぞれ「めたるファン」としてGBに暴れに来ていたわけだが、好きな曲がかかると尋常ならざる激しさで暴れる俺と違って、彼女は穏やかに楽しんでいるように見えた。といっても隅の方で大人しく何か飲んでいるだけではなく、かなり激しい曲で中へ出て大きなアクションを取ったりもするのだが、その動きは謎めいたしなやかさを伴っていた。俺のように直線的・発散的・攻撃的ではなく、言わば、曲の中のある純粋な成分だけを抽出し、その中にすぅっと溶け込んでいるように見えた。そんな風に踊るコをそれまで見たことがなかった俺は、自分の心臓の急所をちくっと蜂に刺されたような感触を受けて、しばらく彼女の横で暴れた後に頃合を見て彼女に声を掛けてみた。
「よぅ、キミ、MEGADETH好きみたいだね。」
「うん。サイコーよね。」
「おぅ。サイコー。」
俺が左手の親指を立てて右目をつむり、おどけてにやっと笑うと、彼女はあははっと綻んだ。笑顔だけが子供のようだった。そうして俺達は付き合い始めた。
ミナについては不思議なことが沢山あったのだが、これもまたその一つだった。彼女は、ベッドではいつもの穏やかな様子とは打って変わって大胆になった。乱暴で、投げ遣りとも取れるような態度になるのだ。そして、終わるといつものミナに戻っているのだった。よく、「ハンドルを握ると」「酒を飲むと」別人のようになる人がいるが、あれみたいなものだろう。俺は最初はちょっと面食らったが、照れ隠しなのだろうな、と思ってだんだん気にとめなくなっていった。
それでも一度、本人に訊いてみたことがあった。
「なんでベッドだとあんな風になるんだ?」
「え・・・あ・・・・・・それは・・・」
ミナは顔を真っ赤にしてうつむいてしまったので、俺はそれ以上訊かなかった。しかしこの照れ具合、十五歳の処女みたいだな、と思った。普段は取っ付き難ささえ感じさせる、ある意味で冷たい表情のこのコは、ときどきこうして小さい子みたいな面を見せる。俺はそういうのを目にするのがすごく好きだった。
夜になるとこんなことを考える。
多くの「健全」な人々は、自分と狂気との距離は殆ど無限大に近いものと勝手に思い込み、それについてそれ以上考察を巡らすことはないようだ。だが少なくとも俺の場合、無限大なんてとんでもない。どちらかといえば、明らかに無限小の方に近い。そして、そういうことを考えずに暮らしていた頃の自分を思い、その自分がそれからどれだけ狂気の淵に歩み寄ったのかを考え、その移動たるや微々たるものであったことを併せてみると、自分のみならず他の多くの人々も、彼らが楽天的に考えているほどには狂気から遠いところにいるのではないということも知った。現代人の多くは、実は狂気の崖っぷちに立っている。だが下を覗き込んで見ようとしない限り、その事実に気付かされることはない。何らかの事情でそこを覗き込まざるを得なくなった者だけが、自分と狂気とのあまりに短い距離を認識して恐怖を感じることになる。もっとも、覗き込むや否やという違いが無限大にも等しいという見方もあるにはあるのだが。
何れにせよ俺は狂気と紙一重のところにいて、そこから離れたくとも離れられないし、その事実に脅かされることから逃れることも出来ない、というのは確かなことだ。そして俺は、初めのうちは、そのことは純粋に例の仕事の体験に端を発していることだと考えていた。ああ、あそこで軽はずみにあんな仕事を引き受けなければこんなことにはならなかったのにな、と。だが、そんなことを思ってみても始まらない。俺は、次第に抽象化してゆく恐怖の分析を試みるようになっていった。そんな試みは現実に俺を襲う恐怖感に対しては全く無力で無意味なものにも思えたが、本当にどうしようもない時、人は無駄としか思えないことでも敢えてやってみたりするものなのだろう。少なくとも何もしないよりはましだ、と無根拠に思い込みつつ。実際には、何もしない方がましなことも多いのに。
その晩俺はミナと一緒に歌舞伎町のお好み焼き屋に来ていた。この店には高校一年の時にクラスの打ち上げの後、仲の良いヤロー友達と二次会でなだれ込んだのが最初だった。一番街に面したビルの薄汚くて狭苦しい階段を降りたところにある。大きな店ではないし、可愛い女のコの給仕人がいるわけでもないが、気取らない雰囲気(気取った雰囲気のお好み焼き屋なんてあるのか?と思うかも知れないが、実は結構ある。)と、比較的安い値段となかなかの味を買って、それ以降ときどき利用している。一人でわざわざここへ来ることはなかったので、来る度に以前一緒に来た誰かを思い浮かべてしまう。随分いろいろな人と来たものだ。が、ミナをここに連れてくるのは初めてだった。金曜日なのでかなり混んでいた。
アルタの向かいで待ち合わせ、ぼーっとWALKMANでSLAYERを聴きながらでかいスクリーンのTVニュースを眺めていると、ミナがいきなり俺の右肩を後ろからぽんと叩いた。例の仕事の訓練で身体の様々な感覚を研ぎ澄ますことを学んだ俺には、手の感触でそれがミナと分かる。振り向くと、Gジャンにジーンズ、Conversのハイカットのスニーカーというラフな格好のミナが例の子供っぽい微笑みを見せてそこに立っていた。しっとりと落ち着いた雰囲気のミナにそういう格好はあまり似合わないのでは?という理屈が頭に浮かぶ前に、振り向いた俺の目の前の彼女はそれを否定していた。GBでの踊り方にしてもそうだが、このコは一瞬彼女との不調和を予感させるラフなものを普通とは異なるやり方で自分に引きつける才能みたいなものがあるんだな、と感じた。
「ひゃ。おどかすなよー。」
「えへ。待った?」
「うにゃ。ほんじゃ、行こか。」
人ごみの中を並んで歩き始める。長い髪が風になびいて微妙な香りを放っていた。
「今日はお好み焼き屋さんに行くんでしょ?おいしいところ?」
「ああ。まあまあかな。でも別に目玉が飛び出て落っこちるほどじゃないぞ。」
「あはは。そんなの困るじゃない。不相変喩えがスプラッタね。で、どこにあるの?」
「歌舞伎町。きたねえとこだけどさ。」
「庶民的なお店、ってこと?」
「よく言えば、そだな。服とか髪とかにニオイがつくからそのつもりでな。」
「あ、うん。大丈夫、すぐ洗えるもの着てきたし。」
「いらっしゃい、二人?奥空いてるよ。」
いつものおばさんが今日もいた。俺達は奥のテーブルに着いた。
「じゃ、取り敢えず中ビン二つお願い。」
「はい。じゃ、これメニューね。」
「ほーい。」
「あたし、お好み焼き屋さんって好き。最近あんまり来てなかったから、なんか嬉しいな♪」
「へー。ニオイがつくから女のコって敬遠しがちなのかと思ってたが。」
「そうね、そういう友達もいたわよ。でも、専門学校の友達とよく行ったな。今日はお好み焼き屋さんに行こう、って決めて行くことが多いから、簡単に洗える服を着ていけばいいでしょ?だから、ニオイはあんまり気にならないの。」
「ふーん。どのへんに行ってた?」
「109の上の、ちぼーとかが多かったかな。」
「まぢ?ぶるぢょわぢゃん。じゃあこんなとこはあんまし来たことないんだろ。」
「うーん、そうね。でも、なんかくつろげていいなぁ。」
「ははは。無理してねえか?でも、ま、もともとお好み焼きなんて気取って喰うもんじゃねえからな。こっちの方がオオソドクスってやつだろ。ちぼーなんて邪道だな。うまいけどさ。」
「そうかもしれないわねー。」
割合早いペースでビールを空けてしまったので、俺はジンフィズ、ミナはアップルサワーを頼み、お好み焼きをまるく拡げながら話を続けていた。
「そういえばちぼーって勝手に焼いてくれるんだったっけ?」
「うん、カウンターだと全部やってくれる。オマケでエビの足とかも焼いてくれたりして。あれ、かりかりしてておいしいのよね。」
「うん。・・・自分で焼く店にはあんまり行ったことない?」
「あ、でもちぼーだけしか行ったことないわけじゃないから、何度かはあるわよ。でもねえ、一人ブッキーな友達がいて、ひっくり返す時にいっつも失敗するの。ぐしゃ、って。それで、『あ〜ん、あたし、お好み焼きに嫌われてるのかなぁ〜?』って泣きそうになってるの。はっきりした顔ですっごいキレイなコなんだけどね、おっとりしてて、運動オンチで、トロいコなの。」
「ぎはは。なんかそういうのおもしれえよな。でもさあ、もしそんな見掛けで、しゃきしゃきしてて何でもうまくこなすようなタイプだったら、周りは近づきにくいんじゃねえか?男も女も。」
「え、女のコはそうかもしれないけど・・・男の人にはモテモテじゃないの?」
「いやー、つけ入るスキがねえと、いいなぁ、とは思ってても手を出しにくいもんだぜ。」
「ふぅ〜ん・・・そういうもの?」
「まあ普通はそうだろうな。永沢さんみたいな人は知らないけど。」
「永沢さんって、『ノルウェイの森』に出てくる?」
「そ。それ。」
「でも、タカシってちょっと永沢さんみたいなところあるんじゃない?」
「ぁ?どこが?」
「えー、だって、なんか難しいリクツで動いてるみたいに見えるわよ。」
「あー、いや、俺の行動原理はもっとバカみたいだから全然違うだろ。」
「ふぅん・・・どんな原理?」
「Kill'em All。」
「それはMETALLICAでしょ〜。怖いこと言わないでよ〜。」
「ははは。すまんすまん。ホントは、単に好き嫌いで動いてるだけ。」
「それじゃ動物じゃない?」
「うん、大差ないな。」
「とてもそうは見えないけどな〜。」
「ひとわみかけによらないのだよ、おぢゃうさん。」
「またからかってるー。」
「でもお前だって見掛けによらないじゃん。見た目、すげえ冷酷な女に見えるんだぜ。知ってた?」
「え?」
「だから、最初に声掛ける時結構勇気要ったんだぜ。」
「えー?どうして冷酷に見えるのよぉ?普通じゃない、あたしなんて。」
「全然普通じゃねーよ。近寄りがたいってば。・・・目が、突き刺すようだからかな。」
「う〜ん、自分では分からないなぁ。そんなに恐いのかなぁ?」
「でもときどきひょっと子供みたいになって可愛いけどな。無防備になるっていうか。」
「ふぅん・・・でも、自分ではいつも普通だと思ってるのよ。」
「別にいいんじゃん?あんま意識しなくて。」
「そう?・・・じゃ、気にしないことにしようっと。」
「あー。逆だと気にした方がいいけどな、敬遠されがちな分には俺も安心だし。くふふ。」
「ねぇ、それなあに?」
「ジンフィズ。ジンを、炭酸水で割って甘くしたやつ。飲んでみ。」
「うん・・・あ、おいしいね。」
「次頼めば?もうちょい飲むだろ?」
「うん。何か今日は気分がいいな。」
そう微笑むミナはまた子供の顔になった。
「・・・すいませーん。」
「はいはい。飲み物?」
「はい、えーと、ジンフィズと、ハーパーのダブルをロックで。」
「はい。」
いつも思うが、酒を頼むのって、ガソリンスタンドで「レギュラー満タン、現金で。」などと言うのに似ている。注文するのに必要な項目が似ているせいだろうか。
食が進み、酒も進むに従って、ミナが子供の顔を見せる頻度は上がっていった。というより、殆どずーっと子供モードに入りっぱなしになっていたようだ。だんだん呂律が回らなくなっていって、しまいには単なる幼児のようになってしまった。
「そろそろ出ようか?」
「え〜、もっとのまらいのぉ〜?」
「もっとったって、ミナ、もういっぱい飲んだだろ?な、出ような。」
「う〜ん、あたしねぇ〜、キモチいいのぉ〜。」
「うん、わかった。でももっと飲むと気持ち悪くなるぞ。」
「う〜ん・・・タカシぃ・・・ぉうろわらいろぉ〜?」
「俺も結構飲んだよ。さ、出るぞ。」
「でもぉ、どっか行こぉ〜。」
「はいはい、どっか行こうな。」
やれやれ。こんなになったのは初めてだ。俺はミナを抱えるようにして席を立ち、金を払って、ミナの手を引っこ抜くようにして階段を上がった。
「タカシぃ〜、ここどこぉ〜?」
「歌舞伎町。」
「かうきしょぉ〜???そえどこぉ〜?」
「新宿。」
「しんじくぅ〜?ねぇ〜、どこ行くのぉ〜?」
「お前少し酔い醒まさねえとだめだよ。きっちゃ店でも行こうか?」
「きっちゃてん〜?いいよぉ〜。タカシもいくんれしょぉ〜?」
「行くよ、もちろん。」
「置いてかないでねぇ〜・・・こわいのぉ〜・・・」
陽気に絡みついていたミナが突然不安を露にして俺の左腕をぎっと抱きしめた。え?
「怖い?何が?」
「かえりたくなぁ〜い・・・」
「いや、まだ九時過ぎだし、帰らなくてもいいけど・・・何が怖いんだ?」
「・・・なんでもないのぉ。」
なんだ?ま、いいか。静かな喫茶店だと目立ちそうなので、ぐらぐらするミナを支えて歩いていって、うるさいマックに入った。関西風に言うとマクド。不味いホットコーヒーを二つトレイに載せて、二階へ上がった。独りの人と、女のコの二人連れ、ヤローのグループなどでほぼ満席だったが、幸い窓際のカウンターに空席が二つあった。
「う〜ん・・・ここどこぉ?」
「しんじくの、まくどなるどの、にかい。」
「タカシぃ、いっしょにいてねぇ?」
「いるよ。心配すんな。」
で、ここはどこだかちゃんと分かってんのかな、このコ?
「あたしねぇ、こわいのぉ・・・」
さっきからちょっと変なんだよな。怯えてる。何が怖いんだろう?酒を飲むと無性に怖くなるタイプなのか?普通は逆だろうに。でもお好み焼き屋で飲んでる時は無邪気にはしゃいでたんだがな。
「なにがこわいんだ?おそくなるとおこられる?」
「・・・ううん・・・なんでもない・・・」
尋ねると口ごもる。何かあったのだろうか?そう思ったが、酔ってのことだからそう気に掛けることもあるまい、と俺は考えた。
ミナはそのまま突っ伏して寝てしまったので、俺はWinstonをくゆらせながら見るともなしに下の通りを過ぎゆく人々の頭を眺めていた。酔っている人が多いようで、真っ直ぐ流れずにふらふらとその頭たちは動いてゆく。mean free path・・・人が真っ直ぐにちゃんと進む一回の平均距離は結構短いようだ。そんなものを視界に入れながらも、俺はミナのことを考えていた。確かに以前から酔っ払うと妙に子供みたいになって可愛かったのだが、今日はそれを通り越して今までに見たことのない状態に入っていたようだった。何が怖いんだろうな、と少し考えてみたが、普段何かを特に恐れているというような話をしていたわけでもないし、まだこの時刻なら帰りが遅いとどやされることもなかろうに、ミナの不安がどこから来ているのか見当が付かなかった。
しばらくするとミナははっと顔を上げてまた訊いた。
「あれ・・・ここ・・・どこ?」
「あ、起きた?もう大丈夫か?ここは、しんじくだよ。」
「それは分かってるわよぉ。新宿のどこなの?」
「マック。関西風に言うと、マクド。」
「あ、そうか・・・ゴメンね、寝ちゃって・・・」
「ああ。別にいいって。まだ十時だし。それより、大丈夫か?結構酔ってたみたいだけど。」
「うん、ありがと。もう平気。」
「コーヒー、冷めちゃったけど、まだあるぞ。」
「うん。ありがとう。ゴメンね。あたし、何か変なこと言ってなかった?」
「いや、特に・・・うーん、何か怖がってたみたいだけど。」
「そう・・・何でもない。大丈夫。」
「うん・・・ならいいけどさ。でも可愛かったぜ、子供みたいで。」
「え・・・」
「むはは。でも、なんか父親になったみたいで妙な気分だったけどな。」
「・・・」
酔いの抜けない火照った顔を更に赤くして、ミナは照れていた。
その後、早めに帰りなさいということで、俺達は新宿駅で別れた。ミナは足どりも意識も大分しっかりしていたので、独りで帰れるだろう。俺は京王線、ミナは山手線で池袋まで出てそこから西武線で帰る。だから池袋で飲むことも多いのだが、今宵は新宿だった。ちょっとだけしまったなぁと思ったが、仕方ない。
「じゃあな、気を付けて帰れよ。寝過ごすなよ。」
「うん。ゴメンね、今日。酔っ払っちゃって。」
「いいって。気にすんな。楽しかったよ。」
「うん。じゃあね☆」
「おう。またな。」
そして俺はまた独りで夜の闇へと足を向けた。ミナの不可解な恐れを脳裏に引っ掛けて。
アパートに帰り、PARADISE LOSTを小さな音で聴きながらミナのことを考えていた。もしかしたら深く考えるほどのことではないのかも知れないが、気になっていた。あの怯えは何だったんだろう?人が酔った時、普段抑圧しているものが大きいとそれが顔を出すものだが、ミナは普段何かに怯えているのだろうか?そしてそれを見せまいと意識的か無意識的か分からぬが常に緊張しているのだろうか?もしそうだとすると、一体何を恐れているのだろう?思い当たることはなかった。普段はとても穏やかにそして柔らかく平和に見えるミナが、その奥底に何をしまい込んでいるのか、俺には分からなかった。俺は人がその奥に隠しているものを比較的敏感に嗅ぎとってしまうところがある(と思ってる)のだが、ミナに関してそういうものを見つけてはいなかった。やはり杞憂に過ぎないのか。
それでもそんなことを考えていると、いつもの苦痛は襲ってきにくいらしかった。他人のことを何か考えているのがいい、というのは以前からある程度認識してはいたが、今夜はその効果が今までになく持続している。ミナと楽しく過ごした後にそのことを思い出しているよりもずっと効果が高いということは、今日彼女が見せた状態を俺が強く気に掛けているということでもあるのだろう。しかしそれは彼女の状態への悪い予感に類するものなので、俺は素直に喜べなかった。俺としては、ミナが悪いものを奥に抱えて苦しんでいるとは考えたくなかったから。
ミナの見せた怯えについて更にしばらくいろいろ考えていた。もしかしてミナは、俺の中に宿る狂気のカケラを感じとってそれを恐れていたのだろうか?でも、ミナの恐怖は俺に向けられたものとは感じられなかったから、それは違うかも知れない。では、俺がそういう狂気に苛まれていて、今の少なくともミナの前では穏やかな俺が、やがては自分から去ってしまうということを恐れていたのだろうか?人というものに敏感なミナのことだから、その線はあり得るかも知れない。それなら、俺が尋ねた時に口をつぐんでしまうのも納得出来る。普段はそういう潜在的な恐怖を表に出さないように押さえ込んでいるが、それが酔ったはずみで出てきてしまったのかも知れない。帰りたくないと駄々をこねたのも、自分の知らないところで俺が失われてしまうことに対する心配からかも知れない。そう考えていくとこの考えは辻褄の合っている、もっともらしいものに思えてきた。だが、女のコの内部で進行していることを理屈で詰めていっても、全くの見当はずれである場合が経験上とても多い。これに関しても、きっと的を射ているだろうと思い込むことは到底出来なかった。俺はこれ以上考えても結局何も分からないと思ったので、俺自身がいつもの酷い状態に入る前に寝てしまうことにした。ここ一週間ばかりまともに眠れていなかったせいで、いい加減身体が睡眠を切実に要求していたのだろう。随分あっさりと、ちゃんとした眠りに落ちてしまった。しかし勿論、それは所謂インディアン・サマーでしかなかったのだが・・・
ハロウィンも近づいたある日曜の午後、ミナと俺は八景島に来ていた。生憎の雨で、いや、人ごみに甚大な苦痛を感じる最近の俺には慈みの雨だったのだが、とにかく人出は少なく、暗い空の下そのアミューズメント・スペースはがらんとしていた。
「今日はやたら空いてるな。俺にはちょうどいいけど。」
「タカシは人ごみ大キライだもんねぇ。でも、お気に入りのサーフコースターに乗れないから悔しいんじゃない?」
「うー。ぅぅーーー。でもいいや。空いてる方が。」
「ねぇ、どうしようか?ゲームする?」
「うーん、そだな。この雨だから中は混んでるだろうけど・・・まあいいや。」
ということでゲームセンターに入った。正式には何やらカッコいい名前が付いているのだろうが、俺は何度来てもそれを覚える気になれない。所詮ただのやかましいゲーセンじゃねえか。
「やっぱ混んでるな・・・上行こうぜ。ハイパーホッケーやろ。」
「いいわよぉ。今日こそはタカシに勝ってやるからねー♪」
「むだむだ。いっつも、あれでも適当に手を抜いて遊んでやってんだぜ。」
「えー?なにそれ、ホント?む〜。何か悔しいなぁ・・・」
「じゃ、今日は左手でやるだけじゃなくて五点ハンデをやろう。そこからはまぢにやっちゃる。」
「ごてん〜?ずいぶん大きくでたわねぇ〜?よし、それじゃあ・・・もしそれでタカシが勝ったら、何か一つ言うこときいてあげる。その代わり、私が勝ったら、タカシが何か一つ言うことをきくこと。」
「あー、何でもいーぞ。どうせ負けるのはミナだしな。くはは。」
「・・・見てなさいよぉ。」
このハーパーホッケーは七点先取した方が勝ちである。初めに手で五回続けて俺の側のゴールにパックを放り込み、そこから右利きの俺が左手で、ミナは利き手の右手で、そして二人共本気で勝負した。ミナに負けて何かを言いつけられることが嫌だったのではないが、本気でやると約束した以上本気でやるのが礼儀だと思うので、初めてミナ相手に本気でやった。
「ぐはは。勝負になんないぜ。しゅぎょ〜がたりん!」
ぼこぼこぼこと既に六点を取ってリーチを掛けた俺はミナを挑発した。
「む〜〜〜!」
本気になっているミナは本当に悔しそうな顔をしていて可愛かった。本気でやった俺に勝ってはしゃぐミナも見てみたかったが、約束は約束だ。手を抜くわけにはいくまい。そして、これで決勝になるはずの最後の一回がミナのサーブ(?)で始められた直後、俺のすぐ右後ろで二、三歳の男の子がヒステリックに絶叫した。
「うぅわぁああああああああん!おかぁああさぁああああああああん!!!」
俺はそれまでもゲーセン内のクソやかましい騒音に時折脳味噌をヤスリで削られてはいたのだが、その絶叫のヴォリュウムは限度を超えていた。突然頭蓋骨内部で爆弾が暴発したかのごとく両手で頭を抱えて顔面を歪める俺を尻目に、ミナの打ったパックは俺のゴールにカコンと吸い込まれていった。最大の苦痛が過ぎ去ると、ミナが呆然としているのが気配で分かった。そして俺が完全に平静を取り戻して再び台に向かう前に、ゲームは時間切れで終わってしまった。
「タカシ・・・どうしたの?大丈夫?」
ミナが駆け寄ってきて、まだ頭を抱えている俺にそうっと手を掛けた。僅かに震えていた。俺は、顔を歪ませたまま辛うじて答えた。頭が文字通り割れそうだった。
「悪い・・・賭はチャラだな・・・」
「そんなのどうでもいいよ、もう出よう?」
「ああ・・・すまん・・・」
本当はイルカのショーやら何やらを見るつもりだったのだが、俺の露骨な異常を見たミナは心配して早く帰ることを強く主張したので、俺達は明大前の俺のアパートに向かうことにした。帰りに中華街で晩飯を食べるというのもすっ飛ばした。仕方ない。アパートに着くまで、ミナも俺も殆ど無言だった。そして、アパートの俺の部屋に入ると、ミナは静かに訊いた。
「ねぇ、タカシ、さっき、どうしたの?」
俺は考えた。慌てて適当な話をでっち上げてごまかす方がいいのか、それとも全部ちゃんと正直に暴露すべきなのか。しばらく何も答えられずに黙っている俺の顔に迷いを見出したのだろう、ミナは次にこう言った。
「前に、もしタカシが人殺しでもタカシはタカシだもん、って話をしたの、覚えてる?」
「あ・・・ああ。覚えてるよ。善福寺公園に行った時だろ?」
「そう。タカシが何だろうと私には関係ないって話。あれ、本音なのよ。」
「ああ、そう思ってるけど・・・」
「嘘つき!」
俺は黙るしかなかった。ミナは続けた。
「でも、今はタカシを責めたいわけじゃないのよ。そりゃあ、タカシだっていろいろ考えて・・・たぶん、私のことを大事に思ってくれてるから・・・いろんなことを言ったり言わなかったりしてくれてるんだと思う。でもね、今日のあのタカシを見ちゃって、私、すごく怖いの。私は、タカシのことを本当は何にも知らないんじゃないかって思って、すごく不安なの。」
俺は黙り続けるしかなかった。
「だから、今日はちゃんと話してほしい。・・・でも、その前に私も自分のことを話さないとダメよね・・・タカシもたぶん私の話を聞いた後の方がいろんなことを話しやすくなると思うし。まず私から話します。」
言葉を発せずにいる俺をそのままに、ミナは話し始めた。
「私ね、たぶんだけど、MPDなの。」
「?」
「MPDなの。」
「・・・えんぴーでぃー?えんぴーでぃーって、Multiple Personality Disorderのこと???」
「そうなの、たぶん。」
俺は自分のことなど忘れて呆然とした。ミナがMultiple Personality Disorder?
「だけど・・・だって・・・なんで?」
「普通、信じられないわよね、いきなりそんなこと言われても。まだ日本では珍しいみたいだし。私も自分がそうだと気付くまでには時間がかかったしね。でもそうなの。」
「でも・・・」
「ちょっと待ってね。今“B”に出てきてもらうから。」
そう言ってミナは少しの間その“B”と話をしていた・・・のだろう、恐らく。植物状態の人間のように虚ろな目をしたまま数秒黙っていた。それから、何か大きなものを無理矢理飲む込む時のように眼球が不安定に揺らいだ。以前TVで見たMPD患者の「入れ替わり」の瞬間と全く同じ、独特の表情だ。一瞬の後に、ミナの目つきが別人のそれに変わった。そして、俺はそれを既に何度も目にしていることに気付いた。ああそうかと思うか思わないかのうちに、ミナ・・・いや、“B”が言葉を発した。
「アンタとあれのとき以外で会うことになるなんてね・・・」
例の投げ遣りな態度で彼女はそう言った。俺は、今目の前で起こっていることにいかなる感情も伴えずただただ驚嘆していた。まぢかよ・・・
「そうか・・・ミナは・・・入れ替わりの瞬間なんて、隠そうと思えば簡単、か・・・」
「アンタと話すこともないし、もう消えるよ・・・」
そう言い残して“B”は去っていった・・・のだろう、ミナは再び例の微妙で特異な表情を通過して戻ってきた。
「ね?」
「あ・・・ああ。しかし・・・ホントにホントなんだな・・・」
「あのコの他にもいるのよ。でも、私も全部は知らないみたい。」
「そうだろな・・・ところで、“B”は何歳だって?」
「十四歳よ、あれで。」
「・・・ってことは・・・もしかして・・・ってことなのか?・・・父親?」
ミナは俺の言わんとしていることを認め、頷いた。
「その前には?記憶の欠落は?」
「ないの。だから、たぶんあのコが最初。」
「・・・そういうケースもあるんだ・・・」
「あったみたい、ね・・・」
「他にこのことを知ってるのは?両親は?」
「うん、親だけ。それ以外ではタカシが初めて。」
「しかし・・・何で未だに親と同居してるんだ?今すぐ家を出ろ。」
「そうね・・・時期が来たらそうしようと思ってたわ。今、なのかもね。」
「ああ・・・しかし・・・」
俺は彼女のあの父親を思い浮かべ、嫌悪と憎しみで錯乱しそうになった。だが、今ミナを悪い方へ刺激するのはいけないことだ。ミナへの気持ちだけに集中して、邪念を追い払った。
「・・・よく・・・話してくれたな。ありがとう。」
「うん・・・」
「俺は・・・お前を助けたい。出来るかどうか分からないけど、助けたい。」
「うん・・・」
I'll be here standing until the bitter end...か・・・しかし、とにかく分かっているだけの情報を集めよう。俺はミナに訊いた。
「で、他の人格は?“B”とミナの他は?あ、そうだ。お前、ミナは主人格っていうか、実年齢を辿ってる人格なんだろ?」
「うん。そうだと思う。それで、他にはね、私が知ってるのは、もう一人だけなの。“E”ってコ。歳は十八歳なんだけど・・・」
「ふむ・・・そのコとは話せる?」
「うーん・・・どうかな。気まぐれなコだし・・・あとは、ちょっと・・・」
「ちょっと何?乱暴?蹴ったり引っかいたりするくらいなら構わないぞ、俺は。」
「ううん、そうじゃなくて。・・・あのね・・・私、あのコにタカシを取られそうで怖いのよ・・・バカみたいな話だけど・・・今までタカシとは話したことないし・・・」
「う・・・そうか・・・そんなことも考えなきゃいけないのか・・・でも、一応そのコもミナのコントロール出来る範囲にはあるんだろ?」
「うん・・・そうね、ここまで来たら、やってみるね・・・」
数秒後に出てきた“E”を見て、俺はミナの心配ももっともだ思った。
「あー、やっとタカシに会えたね。よろしく☆」
その無邪気な女のコは、目つきといい声色といい、通常考えられない程に妖しかった。これで本当に十八歳なのか?信じ難い・・・
「ああ、初めまして。キミが“E”?」
「そうよ。あ、あんまり驚いてないのね。まあ、さっき“B”とも話してたみたいだし、そんなもんか。ところでタカシ、知ってる?ミナって、まだ処女なのよ。タカシはいっつも“B”と寝てたってわけ。ショックでしょ?だいたい、十四歳の子供相手なんて犯罪よねぇ。」
「ああ・・・ミナがMPDだって聞いた瞬間にそう思ったよ・・・“B”が十四歳とは思わなかったけどな・・・」
「へぇ〜、タカシって勘がいいんだぁ。カッコいいじゃん☆ね、アタシ、タカシのこと気に入ったみたい。今度さ、ミナなんて放っといて・・・あ、ちょっと待って、ミナが何か言ってる・・・うるさいなぁ、もうちょっといいでしょ?・・・分かった、分かったよ、タカシを落とすのはまた今度にするから!・・・どう?普段は口になんて出さないんだけどね、タカシに分かるように。面白いでしょ?」
「あ、うん、ありがと。やや複雑な気分だけどな。。。でさ、訊きたいんだけど、キミはミナと“B”以外の人も知ってるの?知ってるなら教えて欲しいんだけど・・・」
「教えてもいいよぉ。でも、その代わり今度アタシと遊んでね☆」
「う・・・ん・・・」
「約束だよ☆・・・アタシも全部知ってるわけじゃないんだけど、アタシが直接話せるコには、ミナと“B”の他に“H”っていう十四歳のコと、“D”っていう十六歳のコがいるよ。どっちも、暗いコ。話してみる?“H”は暴れるし、“D”は油断すると自殺するけど。要するに危ないコたちなの。」
「ああ、大体見当つくよ。覚悟決めてるから、呼んでみて。」
「うん、ちょっと待ってね・・・」
“E”はしばらく中の二人と話しているようだった。
「話、ついたよ。“H”は出たくないって。タカシに用なんてねぇんだよ、ばかやろう、だって。それから、“D”は、怖いって。誰とも話したくないって。あのコは心を閉ざしてるからなぁ。」
「うーん・・・“D”をもうちょっと説得出来ないかな?」
「だめよ、あのコ、すごく怯えてるもん。また今度にして。悪いんだけど・・・」
「そうか・・・まあ仕方ないな。分かった。有り難う。」
「うん。約束はちゃんと・・・あ、またミナが邪魔しにきた・・・はいはい・・・分かったよ・・・じゃ、ミナがうるさいからアタシもう消えるね。また、ね☆」
もはや見慣れてしまった例の表情を通過して、ミナが戻ってきた。
「ふ〜。どうなることかと思ったわ・・・」
「お疲れさん。それに、お久しぶり、って感じだな。」
「そうね・・・私もそんな気がしちゃう。ほんの数分なのにね。“B”以外のコに出てもらったことなかったから・・・途中で“E”もどっか行っちゃうし。ねぇ、誰か他の人が出てきてたんでしょう?何てコだった?どんなコ?」
「あ、そうか。ミナも知らないんだ。いや、結局表には出てきてないよ。出たのは“B”と“E”だけだ。でも、“E”が、“H”っていう十四歳のコと“D”っていう十六歳のコの話をしてた。二人とも出てくるのは嫌だったみたい。」
「ふぅん・・・どんな人格なのかしら・・・」
「憎しみと哀しみの担当みたいだよ、どうも。見てないから俺も詳しくは分からないけど。」
「ふぅ。まだ私の知らないコってたくさんいるのかしら・・・」
「そうだなぁ、多分いると思うけど・・・ミナの場合最初に分裂した時期が結構遅かったみたいだから、そんなに死ぬほどわけの分からん有象無象がいるとも思えないな。今んとこはっきりしたのは、ミナと、“B”と、“E”と、“H”と、“D”の五人か。多分あと二、三人じゃないかな、何となくだけど。その五人の受け持つ部分を全部合わせれば、一人のMultipleでない人格として足りないものがそんなに多いとも思えないし。もしかしたら二、三人よりはちょっと多いかも知れないけど、何十人、何百人まではいかないだろう。」
「そんなにいたら気が狂っちゃうわ・・・」
「まったく。まあ、そうでないことを祈ろう。」
「ねぇ・・・タカシ、私が実は多重人格だって知ってどう思ってる?」
「え?どうって?」
「このまま付き合えっこない、って思うわよね、普通・・・」
「あ、そういうことか。バカ。何言ってんだよ。MPDだろうが何だろうがミナはミナだ。他の人格にしたってもともとはミナの一部だったんだから、俺にとっては・・・全部ひっくるめて、そのコたちみんなが同じように大事だよ。」
「・・・そう・・・」
「何びびってんだよ?最終的にちゃんと一人になるまで俺は諦めないぞ。」
「・・・ありがと・・・」
「そんなことより、家に電話した方がいいだろう。警察に捜索願なんか出されるとややこしくなる。それとも俺が直接行って話をつけてこようか?」
「うん・・・とりあえず今日は電話してみる。」
「そうか。」
そう言ってミナは自宅に電話を掛けた。日曜だったので両親とも家にいたようだった。初めしばらく言い争っていたので心配になったが、結局なんとか向こうを納得させたようだ。向こうにも弱味があるからか。そのうちに俺も直接話をしに行かねばなるまいが、今日のところはミナの動揺も大きいし、これでよしとしよう。
「それで・・・私の話でずいぶんややこしくなっちゃったけど、タカシの話もして欲しいの。」
「え?なんだっけ?あ、そうか。昼間の錯乱な。分かった。話す。」
「うん。」
「実はな、神経過敏なんだよ。強い刺激に異常な苦痛を覚える。」
「どうして?ずっとそうなの?」
「いや、最近顕著になった。」
俺はまだ迷っていた。例の仕事の話も全部するべきだろうか?そんな話、信じてもらえるらろうか?でも、ミナはここまで明かしてくれたのだ。俺もそれに応えねばなるまい。俺は腹を決めた。
「実はさ、俺・・・」
俺は○×のバイトのこと、その後だんだん酷くなっていった神経症のことを出来るだけ正確に正直に話した。途中、自分でも何がどうなっているのか理解出来ていない領域に踏み込んだりして話としては相当支離滅裂なものになってしまったのだが、ミナはしっかりと聞いてくれた。過去に何度かあった、襲い来る恐怖感から逃れるために発作的に頚動脈にナイフを突き立てそうになったとか自分の頭をステレオのアンプの角に思いきり叩き付けてかち割りそうになったなどという自分の酷い状態について話している時に、俺はその過去の恐怖感に引きずられ、はまり込み、錯乱しかけた。だが、話しながら次第に声を上ずらせ冷や汗をかき目つきが虚ろになり細かく震え始めた俺を見て、危機を察知したミナが黙って優しく包み込んでくれたので、俺は完全にヤバい状態にまで陥らずに済んだ。頬と手以外は服の生地を通してのみ感じられるミナの温もりは、俺をこっちの(まともな)世界に引き留めておく力強い綱となった。それはとても不思議な感覚だった。今までヤバい状態に陥った時に他の人間が近くにいたことはなかったから、それゆえそんなことがあり得るなどと考えたこともなかったから、これは俺にとって大きな発見だった。俺が考えていた以上に、ミナの持つ力・・・俺にとって良い方に働く力は大きいようだった。そして、そのミナがくれたものは・・・もらってみて初めて気が付いたのだが、俺がずうっと欲しかったものだった。それを俺は生まれてこの方もらったことがなかった、そしてそれを希求していたんだと気付いた。それは、単なる好意とも恋慕とも歪んだ偏愛とも違う、ごくごく原始的な意味での俺への「愛情」だと分かった。主人格だとはいえMPDというややこしい問題を抱えたミナが、この原始的な愛情を完全な形で持ち得るということは驚きだった。或いはそれは完全ではないのかも知れなかったが、今の俺に必要な部分は全て含んでいたということだろう。いずれにせよそれは非常な幸運であったと言わざるを得まい。
「ありがとう・・・ミナが側にいてくれると俺はこっちにとどまれるみたいだよ。」
「私が・・・何かタカシの役に立てるなら・・・それは私も嬉しいな・・・」
ミナが・・・こんなに健気で優しいミナがMPDであるというのは俺には耐え難いことだった。そして俺は、究極の選択としてミナのカウンセラー役になることを決意した。恋人であることをやめて。両立は不可能なのだ。
その晩、俺達は不思議と安らかに眠った。
次の日の夜、俺はミナの自宅に電話をして、彼女の両親と話をする日取りを決めた。向こうもこっちも早い方がいいということで、明日の晩、つまり火曜日の夜に俺はミナを連れて練馬にある彼女の自宅に出向くことになった。勿論、ミナも俺も方針は固めてある。ミナはもうその家に住むつもりはないのだ。たとえ向こうが何と言おうと。普通なら彼らがそんなことをあっさり承諾するはずはないのだが、不幸にもこっちは相手の弱味を握っている。どうしても平和的に説得出来ない時には、それを持ち出すことも考えておかねばなるまい。
そして火曜日の夜が来た。俺とミナはVWで彼女の自宅に乗り付けた。
「まあ、上がりなさい。」
何が上がりなさいだよ偉そうにこのクソボケオヤジがよ!と思ったが、のっけから険悪なムードにしてしまうのもなんなので取り敢えず大人しくしていた。ミナの母親は、青白い顔をしておろおろしていた。ミナの肉親を憎悪することは俺にとって辛いことだったが、この女は自分の夫がいやがる娘に無理矢理手を出すのをどうにも出来ずに見逃していたのだ。どうして許せようか。
「じゃあ、手短にこちらの要求・・・いや、通告ですかね。それを言います。まず、ミナは二度とこの家には戻りません。ミナの持ち物は・・・どうしても必要なものだけ今夜持っていきます。残ったものはそちらで適当に処分して下さい。そしてあなた方は、ミナが望まない限り、こちらに干渉することを一切やめて頂きたい。これは、私だけでなくミナの決断でもあります、念の為。」
俺は機械的にそう述べた。さあ、どう出ますか?
「で、キミたちはこれからどうするつもりだね?」
無理に平静を装って、彼は言った。
「それはあなた方には関係のないことですが、まあいいでしょう。私はこれからミナと一緒に暮らしながら、このコの人格の統合を目指すつもりです。」
「ふん、素人の貴様なんぞに何が出来るものか。悪いが貴様の過去は調べさせてもらったよ。ミナもそれを知ったら考えを変えるだろう。いいか、ミナ、こいつはな、○×なんだぞ!」
「生憎ですが、彼がそういう仕事をしていたことは既に存じております。」
ミナは冷たく言い放った。顔を真っ赤にした彼女の父親は、続けてこう喚いた。
「そ、そんな人間にカウンセリングなんか出来るものか!」
「そんな人間、と言いますけど、あなたの普段やっている仕事だって結局同じなんじゃありませんか?自分の道徳や哲学がどんなものであれ、会社の利益の為という名目の下にただただ自分の思考と判断を停止し、自分の成すことの責任の全てを会社に擦り付けて働いているわけですから。私のやっていた仕事も同じことです。会社の利益の為でなく別の方針に従って動いていた、というだけの違いでしょう。」
「しかし私は○×などやっていない!」
「そうかも知れませんね、確かに。・・・では残り少ない一生を、そのことを誇りに生きて下さい。自分の勤めるコングロマリットが世界のどこの国でどんな非道なことをやろうが、そんなことを一切気にせずにのうのうと誇り高く生きられるあなたのような逞しい人格を私は尊敬せずにはいられませんよ。企業にもいろいろありますけど、あなたのところは最高ですからね。あちこちで便利な連中を雇って自分たちの手を汚さずにいろいろやってるそうじゃないですか。・・・それじゃ、私たちは荷物を持ち出さないといけないんで失礼します。」
「貴様・・・!」
「何ですか?少なくとも私は十四歳の自分の娘を犯してMPDに追いやるなどという卑劣な行為に及んだことはない。あなたに偉そうに何かを言われる筋合いはありませんね。」
それで彼は黙った。もちろん俺だって、彼が一企業人として働いていることそのものを罵れる立場にはない。人は社会で生きていく以上、好むと好まざるとに拘わらず自分の意思通りに動かない巨大なシステムの一部として組み込まれてしまっているのだ。それに、確かに彼の言うように、俺は随分と凄惨なことをしてきた。そのことは無思考に企業内で働いているのと較べても明らかに愚劣で唾棄すべき行為だったかも知れない。しかし今の俺にはそのことを考え、或いは悔いている余裕はなかった。とにかくなんでもいいからミナをこの地獄からすくい上げなければいけない。そのためには自分がどう見られようがどうでも良かったし、娘をおもちゃにしたという彼の行為そのもの以外の部分でも彼を口汚く罵るという、俺にとってある意味で相当に不本意な行為を甘んじて為すのも仕方のないことだった。これ以上彼らをミナに関わらせないこと、それが第一だった。
荷物を引き上げ、それじゃあ帰ろうかという段になって、ミナの様子がちょっとおかしくなった。これで両親と顔を合わせるのも最後かも知れないということで、複雑に心が動いたのだろう。俺もある程度は予想していた。
そこで俺は初めて“H”を目にすることになった。そいつは凄まじかった。何をどうやったらこれほどの憎悪をこのか細い女のコの身体の中に封じ込めておけるのだろう、と純粋に驚いた。少しの間、その強烈な憎悪を爆発させて暴れる彼女に呆然と見入ってしまった。それでも俺は、はっと我に返り、彼女がこれ以上無闇に暴れて彼女自身の肉体を傷つけることになるのを恐れ、彼女を取り押さえた。彼女が壊れないやり方で暴れるのなら気の済むまで暴れさせてやりたかったのだが。“H”は彼女の憎悪の発散を妨げる俺に対しても敵意を露にし、後ろから彼女を抱きかかえる俺の腕に噛みついたり俺の顔や首に手を回して爪を立てたりしたが、いくら怒りで普段は出ない力が出ているとはいえ、絶対的に非力なために俺の腕から逃れることは出来なかった。そして、しばらく悪態・・・それは呪いを込めた絶叫だった・・・をつきながら滅茶苦茶にもがいていたが、やがてそれも無駄と分かると諦めて去っていった。彼女の身体の力が抜けると、俺も腕の力を緩めた。そして一瞬身体をこわばらせた後に出てきたのは、ミナではなく“E”だった。
振り向いて俺を見ると、“E”はちょっと驚いているようだった。
「きゃあ、タカシ、ひっどい・・・その顔、“H”がやったんでしょ・・・」
「あ、ああ。大したことないよ。」
「大したことないって・・・顔・・・首も・・・血が出てるよ・・・たくさん傷がある・・・あ、腕にも・・・肉が裂けてるじゃない・・・あのコ、タカシに恨みなんてないって言ってたのに・・・」
「いや、俺が無理矢理押さえたから。ホントは好きなだけ暴れさせてやりたかったんだけどさ、あのまんまじゃキミらの身体がぶっ壊れちまうからな。」
「・・・そういえばそうね。いつもあのコの後に出てくるとあちこち痛いんだけど、今日は何ともないみたい。タカシがあのコが暴れるのを止めてくれたんでしょ?どうやったの?」
「押さえつけてただけだ、“H”の動きを止めて、しかも出来るだけ力を込めないように。」
「ふぅん。器用なんだね。流石元スペシャリストって感じ☆」
「え〜、あれはもういいよぅ。」
「あ、ゴメン。その話は思い出したくないんだっけ・・・」
「いや、気にしなくていい。それはもうどうでもいいんだ。とにかく帰ろうぜ。」
「うん。じゃあね、そこのマヌケなおじさんとおばさん、バイバ〜イ!」
VWに乗り込み、走り出してしばらく“E”は楽しそうに話していた。今度はアタシとシーパラ行こうね、とか。しかしやはり“H”が酷使した身体は疲れていたのだろう、環八に出た頃には眠ってしまった。窓から流れ込む月明かりを浴びたその寝顔は・・・きっとそれは“E”の寝顔だったのだと思うが・・・ミナのそれよりももっと無邪気で安らかで、しかも幻想的だった。運転中でなかったら、その額に限りなく幽かなキスをして封印してしまいたいくらいだった。同時に俺は、なんだかミナに悪いような気がした。同じ人なんだけど、違う人。これから先がちょっと不安になった。だが、どちらにせよ俺はミナの恋人であることを諦めたのだ。ミナの中のミナ以外の人格に対してもそれは同じ、心をかき乱されてはいけない。
明大前のアパートの下の駐車場に着いて、ミナを起こした。まだ“E”がそこにとどまっていた。
「ほら、着いたぞ。」
「あ・・・う〜ん・・・うん・・・」
「部屋で寝ろよ、ゆっくり。」
目を擦りながら彼女はちょっとのびをして、ゆっくりと俺の後頭部に腕を回し、俺があっと思う間も無く短い口づけをした。
「あ、こら!」
「いいじゃない、タカシはアタシたちみんなのものでしょ☆」
「そういうことじゃないよ。俺はキミらのカウンセラー役になるって決めたんだ。カウンセラー役は恋人ではあり得ないし、逆もまた然りなんだから。その区別はちゃんとしとかないと・・・」
「細かいこと言わないでよぉ。いいでしょ、ちょっとぐらい。それとも、アタシのこと嫌いなの?」
「だから、そうじゃないってば。細かいこと言わないとダメな時もあるんだよ!まあとにかく部屋に入ろうぜ、な?」
「はいはい、分かりましたよ〜、だ。」
先が思いやられた。ミナはこの前みたいにちゃんと割って入ってくれないのだろうか?それともミナは眠っているのかな?彼女たちの睡眠がどう担当されているんだか俺にはよく分からない。原則的に外に出てきている人格以外は眠っているのだろうか?それとも全員が普通の人と同じように一日に数時間ずつ眠るのだろうか?本で読んだビリーやサリー、TVで見たレイチェルの話でそこまで明らかにされていたっけ?しかし一口にMPDと言っても、やはり個体差は大きいのかも知れないし・・・分からないことだらけだ。これからも謎はどんどん増えていくのだろう、俺がミナ(たち)を知れば知るほどに。
部屋に戻ると、俺と“E”は洗面を済ませ、さっさと寝ることにした。今日もいろいろあって疲れたよ。ミナ以外とただ眠るために同じ布団に入るのは初めてだったので、俺は少し緊張していた。・・・といってもミナとだってまだ二回だが。でも“E”はとことん無邪気で、服を脱ぎ捨ててパンティとTシャツだけになると、「タカシも早く寝よう♪」と言って布団にもぐり込んだ。俺はさっきのちょっとした動揺や何かのこともあって、いつも眠るベッドとは別に床に布団を敷いて寝ようかと思っていたのだが、“E”にそう言うと、「だってミナとは一緒に寝てたじゃない。ミナだけ特別扱いしないでよぉ。」と返された。それ以上言ってもとても聞きそうになかったので、諦めて一緒に寝ることにした。
「ヘンなとこ触ったりすんなよ。」
「それって普通女のコが言うセリフじゃない?ま、いっか。一緒に寝られるだけでガマンしといてあげる。あんまりタカシを困らせると後でミナがうるさいしね。あ、でも一つだけお願いきいて。腕枕してほしいんだ。してくれないんなら困らせるよ☆」
「・・・わかったよ。ほら、これでいいか?」
「わ〜い♪」
そう言って“E”は俺にぴったりと寄り添い、目を閉じた。少しの間彼女は幸せそうに微笑んでいたが、やがてその微笑みのエッセンスだけを残してすうすうと寝息をたて始めた。その寝顔は母親に寄り添って眠る仔猫みたいに幸せだった。そして、彼女の柔らかい体温が俺を闇の恐怖から解放しているのもまた確かだった。
俺のカウンセリングの方針は簡素だった。まずは、出来るだけいろんな人格と話をして(それは別に深刻な話である必要はなかった)、彼女らの信頼を得ることから始めた。最初は主に“E”、“B”と話をすることが多かった。“E”はいつも俺を誘惑してどぎまぎさせたし、“B”はいつも面白くなさそうに無感情に俺に応対したが、少しずつではあるけれども俺に心を開くようになっていった。言うまでもなく、俺は彼女らと性的な意味で「寝る」ことは一切しないようにしていた。そしてミナには、分裂している自分に苛立たないように、自分を責めないように、あまりいろいろなことを考えないようにと諭した。諭してどうにかなる問題かどうかは怪しかったが。
やがて、俺と気さくに話す“E”を見て少し安心したのか、“D”が出てくる機会があった。“E”が呼んでくれた。“E”によれば彼女はミナを知らないのではないかということだったし、自殺願望の強い人格に出てきてもらうということでもあるので、俺は少々緊張していた。だが、こちらの緊張をおそらく彼女は敏感に察知して警戒してしまうだろうから、俺は、出てくるのは悲観的な女のコではなくてねこだと思うことにした。俺はねこが好きなので、彼らに対する時の気持ちになれれば俺の緊張も和らぎ、相手をリラックスさせられるかも知れない。
「・・・えーと、初めまして。タカシです。」
「・・・」
予想通り、彼女はものすごく怯えていた。俺はなんとかして彼女に怖がらなくていいんだと伝えたかった。
「どう?実際見てみた俺の印象は?」
「・・・もっと恐そうな人かと思ってた。」
「ははは。○×だったって話だから?」
「・・・うん。」
「まあ、それは忘れてくれ。俺も殆ど忘れた。」
「そう・・・」
「ねぇ、D、キミはねこって好き?」
「え・・・ねこ?・・・うん、好き。」
「ほー、じゃ、俺と一緒じゃん。俺もねこすきなんだ。」
「ふぅん・・・」
「俺はさ、ねこって、誇り高いから、そういうとこが好きなんだけど、キミはねこのどんなとこが好き?」
「全部。あたしを騙したりしないし、傷つけたりしないし、脅かしたりしないし、憎んだりしないし、何かを押し付けたりしないし・・・それに、可愛い。」
「うん。そうだよな。ねこっていいやつだよな。可愛いし。」
「うん。」
「今日はさ・・・ありがとな、出てきてくれて。怖かったろ、相当?」
「・・・うん。」
「ありがとな。俺、嬉しいよ。」
そう言って俺は危険な賭に出た。そうっと手を伸ばし、彼女の頭に手を置いた。
「!・・・」
彼女は一瞬びくっとしたが、俺に彼女を傷め付けるつもりがないのをちゃんと感じ取ってくれて、数秒後から徐々に力を抜き始めた。試みは成功だったようだ。俺もほっとした。
「よしよし・・・」
「・・・タカシみたいな人、初めて。なんか、柔らかい。」
「そう?そうか。ありがと。」
俺は多分他の誰にも見せたことのないような柔和な雰囲気をそこで出せていたのだろう。奇跡に近い。俺自身も、最初からいきなり“D”に受け入れてもらえたのはちょっと意外だったから。
「・・・あたし、外に出てくることもあんまりないし、実際に他の人に会うことってほとんどないし・・・だからすごく緊張してた・・・」
「うん。ねこと違って人間は野卑なのが多いもんな。」
「うん・・・だから、怖くて・・・」
「そうだよな・・・」
「・・・うん・・・でも、タカシは違うよ。」
「そっか。光栄だな。ありがとう。」
「うん。」
「そんじゃさ、あんまり長い時間慣れないことをやってると疲れるだろうし、もう中に戻ってもいいよ。」
俺はもうちょっと話したいという自分を抑えてそう言った。
「あ・・・うん・・・そうする。」
「じゃ、また気が向いたら出てきてくれ。いつでも歓迎だからさ。」
「うん。じゃあね・・・」
そして彼女は消えていった。
戻ってきた“E”はちょっと驚いていた。
「へぇー、タカシって、すごいね。あのコ、今まであんな風に外の誰かと話したことなんてなかったんじゃないかな?」
「そうかもな。まるっきり無防備に見えた。ものすごく華奢だ。」
「やだなぁ、またライバルが増えちゃうかも。」
「ライバル?だから、俺は・・・」
「はいはい分かってますよ。『俺はキミたちのカウンセラー役だからそういうんじゃない。』って言いたいんでしょ。タカシって、ホントに堅物。こーんないい女が目の前にいるのに、全然相手にしないんだもんね〜。といってホモだってわけでもないし。どういう精神構造してんのかなぁ?」
「・・・俺は・・・キミたちみんなが好きなんだよ。でも、バラバラの状態のキミたちをちゃんと愛することは出来ないからさ・・・」
「あ、深刻になってる。そういうタカシも色っぽくていいなぁ☆」
「やめろってば・・・」
「ふふ♪」
“E”には、いつも手を焼く。
それからしばらくすると、“D”がときどき出てきてくれるようになった。そして幸いなことに、“E”が心配したように彼女が俺に恋心を抱くということにはなっていかなかった。彼女はまだ十六歳なのだ。彼女にすれば俺なんて半端なおじさんみたいなもんだろう。とにかく彼女は俺に向かって徐々にいろんなことを話し始めた。ねこの話なんてのは随分と平和な話題で、割合としてはそういう無難な話題は少なかった。他には、彼女が今までに体験した酷いことや、彼女がどうしてその命を自ら断ちたいと願っているかといった、彼女の暗い内面の話が多かった。だがそれらの話によって俺はそれまで知らなかった幾つかのことを知るようになった。その中で一番大きなことは、今まで俺が目にした人格の中では彼女しか知らない人格を一人知っているということだった。その人格は“D”より一つ年下の十五歳で、“L”という名前らしかった。そして、その“L”は手の付けようもない程の嘘つきなのだそうだ。俺はその人格にも当然大きな興味を抱いたわけだが、悪いことに、“L”は相当な「男嫌い」らしく、“D”によれば“L”を俺の前に出させるのは自分に自殺願望を捨てさせることよりも難しいだろう、とのことだった。そういえば、初めのうちは「いつか機会を見て自分は死ぬんだ」とよく言っていた、そして、一度は俺の目の前で刃物を手に取ってそれを自分の手首に当てそうになったことのある“D”は、最近さほどそういう台詞を口にしなくなっていたが・・・とにかく俺は出来るだけ早くその“L”と話をしてみたかった。しかし、その機会はなかなか訪れなかった。“L”の存在を知っていて彼女と話すことが出来るのが“D”だけであるということも、その機会を作りにくくする要因になっていたと思う。
それでも俺は根気よくミナを包み、“E”に手を焼きながらもデートしてやり(但しそれは清い交際だ)、“B”の投げ遣りさを受け止め(彼女は投げ遣りながらも俺の冗談で笑ってくれたりするようになった)、“D”の悲しみを解放し(しばしば彼女は出てきても泣くだけだったが)、時には“H”がくたびれ果てるまで彼女の乱闘の相手をした。それらは口で言うほどに簡単なことではなかったが、少しずつ、少しずつ俺は彼女たちの俺への信頼を確かなものにしていった。また、互いにその存在を明確には認識していなかった人格同士の間でも、俺の仲立ちで交流が生まれるようになっていったようだ。つまり、この五人はお互いに顔見知りに・・・顔は全員同じ造りだからそれは変か?とにかく、知己になっていった。それは必要なことだと俺は考えていたし、そのために自分が役に立てて良かったと思う。そしてそういうことを続けるうちに、いつのまにか俺自身の神経症は姿を現さなくなっていった。初めのうち俺はミナとその中の人格たちのことで頭が一杯でその事実に気付かぬままだったのだが、ふと立ち止まってみると俺は自分の狂気をまるでどこかに置き忘れてきたようにそれから解放されていたのだった。それは取り敢えずは喜んでいいことのように思えた。カウンセリングをしようという人間が、自分の問題ばかり気にしていなければいけない状態でまともなカウンセリングが出来るわけがない。そしてそのまま月日が経つに連れて、俺は自分の神経症のことなど忘れていった。
十月も終わりに近づいたある晴れた朝(深夜?)、三時に起きて、“E”と共にKMXで出掛けた。
前日、俺の部屋にころがっていた写真を見ていた“E”が質問したのがきっかけで、奥秩父の金峰山に二人で登ることになった。質問というのはこうだ。
「この景色、あたしも見られるかなぁ?」
その時“E”が見ていたのは、去年の秋に俺が知人二人と山梨の金峰山に登った時の写真を納めたポケットアルバムだった。天気が抜群に好かったので、山頂から360度の展望を何枚かのパノラマ写真に撮ってみたものだ。“E”は、アルバムからそれらの写真を取り出し、横に繋げて並べて見ていた。
「これ、あたしも見たい!」
同じく昨秋、別の知人と群馬の妙義山に登った。そこは、巨大な墓石を並べたような険しい地形で、途中には「手を離したら数百メートル下までノンストップ、約10秒で下界に戻れます、但しあなたの身体はぐしゃぐしゃに・・・」というような鎖場もあり、紅葉のピークのその風景は素晴らしかったんだが、その時の写真を見て「この景色いいなぁ・・・」と言っていた“E”も流石に自分がそこに行けるとは思えなかったようだ。で、その次に金峰山の写真を見つけ、「ねぇ、これってぐるっと一周、遠くまで見渡せるの?」と訊いた。「ああ、そうだよ。そこからの眺めは、奥秩父で一番と言われてる。天気がよけりゃ、文字通りサイコ〜だな。」と俺は何も考えずに答えてしまった。
「この景色、あたしも見られるかなぁ?・・・これ、あたしも見たい!」
「あぁ?今見てんぢゃん。」
「そうじゃなくて、実際にここに行って、自分の目で見たいの。」
「あー・・・そう。ふぅん。」
「ね、ここに連れてってよ。」
「連れてってってって・・・そこはな、写真見りゃ分かると思うけど、バイクの後ろで揺られてりゃあ行けるとこじゃないんだよ。山のてっぺんなんだから。」
「分かってる、それくらい。歩いて登るんでしょ?」
「ホントに分かってるのかぁ?高尾山とかとは違うんだぞ。標高2600mくらいあるんだから。酸素だって薄いんだぜ。」
「要するに、生半可じゃないってこと?」
「うーん、まあ、登山コースとしては・・・あ、しまった。金峰はお散歩コースで行けるんだった・・・やっべー・・・」
「え?なにがヤバいの?お散歩コース?あたしそんなのじゃない方がいいなぁ。こないだ折角ちゃんとしたトレッキングシューズ買って、もう慣らしをしてるんだから。ちょっと本格的な道がいい!」
「・・・(言い出したらきかねぇな、こいつは。)あー、分かった分かった。明日連れてってやるよ。お散歩コースじゃない方で、な。」
「わ〜い♪」
「そのかわり、途中でベソかいても知らねえからな。」
「うん。大丈夫!こう見えても体力には結構自信あるんだから。」
「どーだか・・・」
「えー?なにか言ったぁ!?」
「いやなんでもないですゴメンなさい・・・」
「よろしい。」
というわけで、俺達はKMXにまたがって夜明け前の青梅街道をひたすら西に向かっていた。高速が使えない(なんで二人乗り禁止なんだよ!?)ので、青梅を抜けて国道411号線で山越えをするしかない・・・わけでもないのだが、理由があってこのルートを選んだ。それでも大量に着込んでいたので、青梅あたりまではなんとか大丈夫だった。そして。奥多摩湖畔を通り過ぎ、道が本格的に「山道」っぽくなる辺りから冷え込みは急激に厳しくなっていった。「ざび〜〜〜。でがうごがな゛い゛・・・」道には俺達の他に誰も何も走っていないので、本来なら直線ではXXkm/hぐらい出しても安全なのだが、寒さのあまり速度計は40km/hより上を指すことはなかった。速度を上げればその分だけ体感温度が下がる。しかし・・・何か走ってるぞ・・・
「あっ!?なにあれ?ねこ?太りすぎ???」
「あ゛〜、ね゛ごじゃね゛〜よ゛。だぬ゛ぎだろ゛・・・」
「ホント〜?あたし、野生のタヌキって初めて見たぁ☆」
「ぞう゛・・・がわ゛い゛い゛だろ゛・・・」
とか言っているうちに、周りは徐々に明るくなり、丹波渓谷の素晴らしい紅葉に包まれて俺達はどんどん登って行き、やがて下りにさしかかった瞬間、目の前に朝日を浴びた霊峰富士が現れた。柳沢峠名物、「素晴らしい富士山」だ。誰もいない峠の駐車場にバイクを止めてしばし休憩。
「きれいだね〜・・・」
「おう。」
「ね、この角度からの富士山って、あたしどっかで見たことがある気がする。」
「ああ。多分、五百円札の富士山だろ。」
「あ!そうかも。あれってここから撮ったの?」
「いや、正確にはここじゃない。でもこのすぐ近くだよ。」
「ふぅ〜〜〜ん・・・ね、写真撮ろう?」
「ああ、そうだな。じゃ、単車にカメラ置いてオートシャッターで撮ろう。」
「うん♪」
「ここが三秒前に点滅するからな。目ぇつぶるなよ。じゃ、行くぞ。」
「・・・ぴこっ、ぴこっ、ぴこっ、カシャ!」
「わ〜い☆ちゃんと撮れてるかなぁ?」
「カシャ!!」
「あ〜〜〜〜〜!二枚撮ったぁ!ひど〜い!あたしヘンな顔してたぁ!」
「ぎひひ。」
そして再びKMXにまたがり、しばらく霊峰を従えて急な坂を下ってゆく。やがて塩山の街に入り、コンビニで昼飯と水を買い込み、いよいよ山に向かって登り始める・・・といってもまだ単車で、だ。林道で標高2360mの大弛峠まで登る。初めはしばらく舗装路が続き、その先で林道に入る。林道と言っても、この川上牧丘林道も最近舗装化が進み、更にしばらくはラクチンな走行が続く。やがて未舗装路へ・・・後ろに人を乗せているので、流石にいつものようにぶっ飛ばすわけにはいかないが、VWで何度か来たときに較べればペースは格段に速い。オフロード単車の本領発揮といったところか。
途中、再び朝日に照らし出された富士山を南アルプスの左に認めながら、ようやく大弛峠に着いた。いよいよ単車を置いて徒歩で出発だ。
「お散歩コース」ならそこから一時間半程で金峰山の山頂に着けるのだが、“E”が「本格的」コースがいいというのでそこから一時間ほど今来た林道を歩いて下り、見落としそうな入り口から最近は殆ど歩く人のいない登山道に入る。丁度その辺りからは、目指す金峰山頂にある「五丈岩」が見える。名の通り五丈(約15m)の高さがある岩で、「なぜこんなところにこんなものが?」というような形で佇んでいる。見ようによっては宇宙人の子供が悪戯して作ったものにも見えたりする。そんなことを“E”に説明しながら歩いていった。登山道に入り、初めは沢まで下る。足場があまり良くないので、滑ってコケるなよ、と注意する。が、“E”は意外と身体のバランスを取るのがうまいようだ。
標高差にして数十m下ると道は一旦平らになり、かつて材木を運ぶのに使われていたトロッコの軌道の上を歩いて行くことになる。「ほら、枕木とレールがあるだろ?」「ホントだ〜。ねぇ、昔はこれ使ってたんでしょう?なんか、不思議だね〜。異文明の遺跡みたい。」「そーだな。」そうこう言ううちに道は軌道を離れ、沢に向かって下る。だんだん水の音が近づいてくる。沢だ。最近雨が少ないせいか、水量はさほど多くない。容易に渡れそうだ。
「うっひゃ〜!つめてー!・・・でもうまい。やっぱ山の水はいいよなぁ。」
「あ、飲めるの?あたしも飲む〜。」
「おう。落ちるなよ。つめてえぞ。」
「うん・・・わ〜、ホントにおいしいね〜!いつも東京で飲んでる水って、これに較べたらきっと泥水みたいなもんなんだろうねぇ・・・」
「しかもクスリ漬けの、な。折角だから汲んでいこうぜ。」
「あっ、Volvic捨てちゃうの?」
「こんなもんいつでも買えるだろ。それにこっちの方が上等な水だよ。」
「そうだね。」
そしてここから金峰山頂を目指して登り始める。文字通り抜けるような青空の下。
このルートは、あまり使う人がいない。多くの人は大弛峠までクルマで行って、そこから「お散歩コース」を辿って金峰山頂に行ってしまう。奥秩父の縦走コースからも外れているから、こんな道に来るのは本当に物好きな連中だけなのだ。それでも途中の石や木にはマークが付けられていて、迷わないようになっている。こういう仕事をしている人たちには頭が下がる思いだ。そのお陰でこうして俺達は迷う心配なくこの裏ルートを辿ることができる。
体力に自信があると言っていた“E”は、本当にタフだった。俺が、登り始めてすぐに「あぢ〜〜〜」と言って上着を脱ぎ、シャツを腰に巻いてTシャツ一枚になり、はぁはぁ言いながら登っているのに、“E”は涼しい顔をして黙々と登り続けている。こいつの筋肉は仕事をしても熱を発しないのか?なんて思ってしまう。
やがて「御室小屋」に到着。ここは、かつて皇族の誰かが来て泊まったという小屋なのだが、今では荒れ果てていて、単なる汚い掘っ建て小屋だ。石碑があって文字が刻んであったらしい形跡があるが、表面が風化して剥げ落ちた揚げ句苔まで生えてしまったその石碑には何が書かれていたのか判読不能だった。そこで休憩を取り、写真も二、三枚撮る。空は青い。陽射しは強い。十五分程休み、また出発。
しばらく登るうちに、足場の悪い急登に掛けられた梯子の直後、巨大な岩が出現した。
「これ、登ってみるか?」
「え〜、危なくない?登ると何かあるの?」
「そりゃ危ないさ。それに、別に何もないよ。単に眺めがいいだけ。」
「登る!」
「向こう側に落ちたら後はないぞ。」
「・・・それでもいい。」
“E”は「よい景色」に目がないようだ。荷物を置いてわしわし登ることにした。
「うわ〜〜〜♪すっごぉ〜〜〜い!」
「ほら、あそこに沢が見えるだろ?あの辺から登ってきたんだよ。」
「へぇ〜〜〜、あんな遠く?あれ、水を飲んだところでしょ?すごいんだね〜、あたしたちのあしって・・・」
びゅ〜びゅ〜吹きつける風の中でそう驚く“E”を眺めながら、俺は年寄り臭いことを言いそうになってやめた。俺達の人生も山登りみたいなもんさ。歩いてる時は異様に辛いだけで、なにが面白くて俺はこんなことやってんだ?とか、こんな、一歩30cmにも満たないような歩みを繰り返して、一体どこに辿り着けるというんだ?なんて思うけど、実は苦しみながらも一歩一歩進んでくれば、知らず知らずのうちにそこそこ進んでるもんなんだよ。そして、どのくらい進んできたのか、ふとした瞬間に気付いてみれば、自分のなした仕事の結果ってのは意外に立派なもんなんだ、と。
「でもまだ山頂じゃないぜ。これからが大変だぞ。」
「うん。」
俺達は岩を降り、頂を目指す。
登りは急激にきつくなってゆく。空気も次第にその薄さを感じさせるようになってゆく。やがて道中の大きな岩に「ガンバレ!」などとペイントしてあるのが目につくようになる。
「ねぇ、これって、もうすぐ山頂ってこと?」
流石に少々疲れてきたと見える“E”がそう訊いた。
「いや、まだこれから結構ある。もうすぐ、とか思わない方がいい。」
俺達は明らかに休憩の頻度を上げながらも、確実に着実に歩みを進めていった。そのうちに道はごろごろの岩だらけの相にさしかかった。
「ここからはずっとこんな感じで岩の横やら上を行くからな。」
「うん。ねぇ、あれ、あれってさっき言ってた『五丈岩』でしょ?あれ、確か山頂にあるんだよね?」
「ああ。そうだ。でも、あれ、見えたからもうすぐ、とか思うなよ。あれ、想像以上にでっかいから、見えてからが長い。」
「ふーん・・・」
「大体、普段東京で暮らしてて、あんな遠くのものを見るって機会は少ないだろ?せいぜい数十mの範囲で暮らしてる事が多かろ。それに、ここは東京より空気がずっとキレイだから、東京で同じ距離にあるでっかいビルを見るのとは見え方が全然違う。ヤケにくっきり見えるけど、ホントは相当遠いんだ。」
「そうかぁ・・・でもホントに近くに見えるねー。」
「うん。直線距離にしてどのくらいかな?・・・あ、そうだ。ちょっと見積もってみようか。“E”、五円玉か五十円玉持ってるか?・・・お、さんくす。これで測れる。この穴の直径が、腕を伸ばして覗くと約0.5度だ。だから、あの岩が大体何度に見えるかを調べて・・・実際には15mを真っ直ぐ横から見るわけじゃないから、その分を補正して、tanθ〜θとして・・・」
「あ〜!あたしすうがく苦手!分かんないから結果だけ教えてよぉ!」
「そっか、すまんすまん。え〜と・・・一度がπ/180ラジアンだから・・・えーっと、大体500mだな、直線距離にして。」
「ふ〜ん・・・500mだったら、平らな道なら10分もかからないね。」
「ああ。でも、山をナメては不可い。」
「は〜い。じゃ、あとどれくらいかなぁ?」
「そうだなあ、休まないでがんがん登って、40分位じゃないかな?」
「あ、そうなの?意外とすぐなんだね?」
「まあ、まだ余力たっぷりなら、な。」
「うん、まだまだ元気だよ♪」
「・・・(ゲンキなコだな・・・俺は結構バテてるぞ・・・)じゃあ、意外とすぐかもな。んじゃ、行きますか。」
「うん!」
そこからは、時折岩の上を這うようにしながら、もうすっかり高くなった太陽を背に登り続ける。遮るものがないためにモロに風を受けながら。徐々に、徐々に五丈岩はその視角を増してゆく。もう少し、もう少し・・・薄い酸素と両手足を駆使した急登は確実に体力を奪ってゆくが、「ゴールが見えている」ということでアドレナリンがどんどん出るらしく、体力の消耗をカバーしている。・・・もうすぐだ・・・
そして、五丈岩が俺達の眼前に立ちはだかる。
「はーーーーーーーー、着いた・・・」
「うっわ〜〜〜、でっか〜い・・・」
「うん。何度見てもでっかい。」
「誰かが建てたみたい・・・」
「うん。」
「ねぇ、これ、どうしてこんなとこにあるの?」
「さー。うちうじんが置いてったんだろ。」
「ねーーー!どうして、こんなとこに、こんなものが、あるのぉ?」
「だから、うちうじんの子供が悪戯して・・・」
「ど・う・し・て、こんなものがあるの!?」
「・・・ごめんなさい。」
「分かればよろしい。で、どうして?」
「そうだなあ、多分、もともとはこの山は地殻変動でできたんだろうな。褶曲か何か知らんけど、とにかく地面がぐわーっと盛り上がって山になった。昔はもっと高かったんだろう。この岩のてっぺんよりも高く。んで、この岩は多分その『昔できた高い山』の中にあったんだろ。それが、長い年月の間に雨とか風で浸食されて、柔らかい部分が削り落とされて、この岩は硬かったから残ったんじゃないか?」
「ふぅ〜〜〜ん・・・」
考えてみると不思議なものだ、確かに。聳え立つその岩の存在は、何万年、何十万年、何百万年、何千万年というスケールでその表情を変える地球表面の営みを象徴しているようにも感じられた。
危険を冒せばその五丈岩のてっぺんにも登れるが、一歩間違えば死に直結するのでそれはやめにして、その隣にある数mの岩の上で昼食を取ることにした。そこからは今俺達が登ってきたコースが大体目で辿れる。
「ほら、あそこの尾根・・・林道がぐにょっとしてるのが見えるだろ?あそこが最初に林道から登山道に入ったところ。で、一旦あの沢まで下って、そこからしばらく沢沿いに登ってきて、あのぴょこっと出っ張ってる岩が、途中で登ってみたあの岩だよ。んで、・・・」
富士山を正面に見ながら俺は“E”に説明していた。
「なんか、ホントに遠いとこから来たって感じだね・・・」
「そうだな・・・でも実際に一緒に歩いてきた道だ。」
「そう考えると不思議な感じ。・・・まだ会ってからそんなに経ってないけど、随分昔から一緒だったような気がするな☆」
「え?そうか?ははは・・・」
「あー、照れてる〜。タカシって意外と可愛いとこあるんだ〜。」
「ばか。やめろって。」
「ふふ♪」
その後、“E”待望の「360度パノラマ」を拝みに正式な「山頂」に行った・・・といっても、五丈岩はその山頂を含むほぼ平らな場所の端にあるので、ご大層な「登り」があるわけではないが。
「うっわ〜〜〜!ホントに360度だぁ!」
「おう。天気、好くてよかったな。今日は最高だ。・・・あれが八ヶ岳で、あっちが甲斐駒ヶ岳、あれが有名な甲武信岳であそこに見えるのが奥秩父最高峰の北奥千丈岳・・・」
「タカシ、全部登ったことあるの?」
「いや、八ヶ岳も甲斐駒も登ったことないよ。甲斐駒はキツいだろうから・・・今度一緒に八ヶ岳でも行ってみようか?」
「うん!」
「でもここみたいにあっさりとは登れないらしいぜ・・・」
「でも多分平気。・・・タカシと一緒なら、ね。」
ちょっとだけ、どきっとした。
そこから大弛峠の単車までは、尾根伝いの「お散歩コース」を辿って文字通りお散歩気分であっさり歩き通せた。帰りは411号でなく甲州街道から帰ったが、平日だったこともあり、途中でひどい渋滞にはまることもなく無事に帰り着いた。・・・え?なんで行きも甲州街道から来なかったのかって?そりゃ、あの富士山を見せたかったからさ・・・
なんだか俺は、この一日を経て本当に“E”と長い間一緒に暮らしてきたような気になった。山は不思議だ。
やがて暮れも押し詰まり、いよいよあと数時間で新たな年がやってくるという晩、俺は“H”の相手をしていた。
「ほら、年末だし、暴れて全部吐き出しちまえよ。すっきりするぞ。」
「っせぇんだよ、てめーに指図されたくねぇんだよ!」
などと言いながら彼女は俺の顔を引っかき、腕に噛みつき、髪の毛をむちゃくちゃに引っ張ったりした。俺は彼女の感情の放出を助ける意味から、ときどき彼女を軽く突き飛ばしたり頬をひっぱたいたり腕をねじ上げたりもしていた。勿論彼女の肉体が本格的に傷まない程度に、だが。俺が完全に無抵抗のままでは、彼女は怒りをうまく俺にぶつけることが出来ない。
そうしているうちに、彼女は突然正面から俺に抱きついてきた。俺は少し驚いた。“H”がそういう行動に出たことはそれまで一度もなかったから。彼女は俺の背中に回した右手を俺の首筋に絡め、左手は俺の服の下に潜り込ませて背中の皮膚に直接あてがい、それから思いっきりその手先と腕に力を込めて爪を俺の皮膚に食い込ませながら、無茶苦茶に泣き喚き始めた。俺は呆気にとられてしまったが、俺の顎の下で震える彼女の髪を感じているうちに、これはもしかしたらすごく良い傾向なのかも知れないと思った。まさかこんなに早くこういう転機が訪れるとは考えていなかったので、何かの間違いでは?とも思ったのだが。とにかく彼女は初めて怒りや憎しみ以外の感情を俺にぶつけてくれたのだ。俺は自分の両腕を彼女の後ろに回し、彼女に負けないくらい強く抱きしめた。但し、爪は立てずに。・・・そう、キミはまだ十四歳なんだ。キミのことは俺が護ってやらなければいけないんだ。この華奢な身体で今までよく持ちこたえてきたね。よく頑張ったな。もう一人で苦しまなくていいんだよ・・・たまらなく愛おしかった。そして俺は、このコをこんなに苦しめる原因を作ったあの男のことを、改めて憎みそうになった。が、そのことはもう考えないようにしなくては、と自分を諌めた。それを考えてもプラスになることは一つもない。
彼女はずうっと泣き続けていた。俺は全身を通して自分の気持ちを彼女に注ぎ続けた。
やがて彼女は落ち着いた。そして俺を見上げた。それはもはや“H”ではなかった。
「タカシ・・・」
「うん。分かる。“H”はキミに統合された、んだね。」
「うん・・・」
ミナはここしばらく見せることのなかったあの笑顔・・・子供のような笑顔を見せてくれた。涙の跡がきらきら光っていた。
「でも早すぎないか?ちょっと怖いぞ。」
「そうね、早いね・・・でもたぶん大丈夫・・・」
「だといいけど。」
ともかく俺達は、軽く祝杯を挙げることにした。ミナがここに住むようになってから、俺もミナも一切アルコールを断っていた。彼女の状態に何か質的な改善が見られたら軽く祝杯を挙げよう、それまではアルコールは飲まないで、と前々から決めていたのだ。
「かんぱい☆」
「cheeeeers!」
俺達はYEBISUの350ml缶を一つずつ手にして、かちんと合わせた。困難の多いであろう前途を考えるとそれは本当に小さな幸せでしかなかったが、その小さな幸せは俺達に決して小さくはない希望を与えた。
「いつ、一緒になったって感じた?」
「う〜ん、難しいわね・・・」
「だろうな、やっぱ。」
「うん・・・そうね・・・泣いてる時には間違いないんだけど・・・」
「そうだろな。で、どんな感じだった?」
「う〜ん、不思議な感じ。なんか、気がついたらタカシの腕の中で泣いてた。」
「ふぅん・・・でさ、“H”は消えてなくなっちゃったのかな?」
「ううん、そうじゃないと思う。私の中に溶け込んだ、って感じ。」
「そっか。じゃ、ばっちりだな。でも、今度から俺はミナに引っかかれたり噛みつかれたりするってことかな?」
「ふふ・・・そうね。覚悟しといてね♪」
「うー。お手柔らかにお願いするよ。」
「あはは。爪はいつも切っておくわ。こんなに血だらけにしちゃ可哀想だもんね。」
「そ、そういう問題かよ・・・」
そうして199X年は暮れていった。もうすぐ除夜の鐘が鳴る。
正月の朝は平穏には訪れなかった。俺が物音に目を覚ますと、初対面になるはずの六人目がベッドから出て慌てて服を着ているところだった。
「ふ〜ん、アンタがタカシだね?」
彼女は刺のある語調でそう言った。予想通り、彼女の目は危ない光り方をしていた。
「・・・ああ。初めまして。」
俺は出来るだけ自分の「男」的な要素を消して答えた。気配を完全に殺すのに較べれば随分楽なことだ。半分だけでいいから。
「Dからマッチョじゃないって聞いてたけど、まあ、それはそうみたいね。」
「ああ、そうみたいだな。」
「まあいいや。しばらくそこから出てこないでよね。ちょっとこの部屋を調べさせてもらうよ。」
「ああ、どうぞ。終わったら起こしてくれ。俺はまだ眠い。」
「あっそ、せっかくアタシが出てきてやったのに、寝ちゃうわけ?ふーん。」
「あ、いや、そういう意味じゃないよ。キミにはその方がいいかなって思ったから・・・」
「きゃはは!慌ててやんの。バーカ!勝手に寝てれば?」
参ったな・・・こいつは“E”より厄介だぜ・・・
「じゃあそうさせてもらうよ。おやすみぃ。」
「あ、こいつ、ホントに寝る気?何考えてんのよぉ!」
「うーん・・・じゃあどうすりゃいいんだよ?」
「だから、しばらくそこで大人しくしててよ。アタシが部屋を調べるまで。」
「はいはいはい分かりましたそうしますよ。」
「♪」
このコは、とにかく構ってもらいたいのだろう・・・な。男嫌いのくせに。
興味津々らしい“L”はしばらくあちこちをがさごそひっくり返していた。俺はその間にもぞもぞとベッドの上で服を着た。やがて一通り探索を終えた彼女は言った。
「おなかすいたー。何か作ってー。」
「・・・じゃ、ここを動くぞ、いいな?」
「あ、バカ、だめ!動くな!」
「・・・じゃあ何も作れないぞ。」
「ごちゃごちゃうるさいなぁ。そこで何とかできないの?」
「無茶言うなよ・・・俺は万能の神様じゃないんだぜぇ・・・」
「分かったよ。じゃあ、そこを動いてもいい。でも、ゆっくり動いてよ。アタシから5m以内には近づかないで!」
「ごめえとる?この狭い部屋で、それは無理だな。第一、今キミが俺から何mのとこにいるのか知ってる?」
俺は2.4mほど先にいる彼女に言ってみた。でも、言わなきゃよかったと後悔した時にはもう遅かった。諺の通りだ。
「うっるさいなぁ、アンタ、男でしょ?細かいことぐちゃぐちゃ言うんじゃないよ!」
でも彼女は本当に怒っているわけでもなさそうだった。俺は、少し安心した。彼女は致命的なまでの男性恐怖症というわけではないらしい。
「分かったよ。ごめんごめん。じゃ、ゆっくり動くから。それに、キミにはなるべく近寄らないようにするからさ、それでいいか?」
「♪」
悪戯っぽく頷く彼女はそれなりに愛嬌があって可愛い・・・と、その時は気楽に思っていたのだが、のちのち彼女には随分手痛い目に遭わされることになるとはまだちゃんと想像していなかった。
「ほい、出来たぞ。オムレツと、サラダと、こんがり焼けた香ばしいトースト。それにちゃんと豆からいれたモカとキリマンジャロのハーフ&ハーフ。」
「♪」
「で、どうするんだ?食卓は一つしかないぞ。」
「アタシが先に食べるから、アンタはまたベッドにでも上がってて。」
「へいへい。分かりましたよ。」
「・・・バーカ。もういいよ、アンタはアタシのこと襲ったりしないって分かったから。・・・けど、触るなよ。」
いきなり信用してもらえた。いいやつ。けどまあ・・・全員ミナだもんな、もともと。でもひとまず良かった良かった。
「お味は如何ですか?」
「うん、おいしいよ。アンタ、男のくせになかなかやるじゃん。」
「それはそれは。有り難きお褒めの言葉を頂きまして、光栄至極にございます。」
「何よ、その言葉遣い?バッカじゃないの?」
「だー!お前がそうさせてんだろう?」
「アタシがいつそんなこと頼んだってのよ?アンタが勝手にやってるんじゃない。」
「そ・・・そうでぃすね。ごめん。」
「ねぇ・・・何でアンタってそんなにすぐ人の言うこときくの?」
「ん?それもむかつく?」
「別に・・・むかつくってわけじゃないけど・・・」
「じゃあいいじゃん。」
「だけど、不自然じゃない、それって?」
「そう?じゃあもっとわからず屋になろうか?」
「・・・アンタには自分ってもんがないの?」
「あるよ。まあ、いいじゃんか。細かいこと気にすんなよ。」
「・・・こいつ・・・やっぱむかつく!」
「まあそう言うなって。ほら、オムレツとコーヒー冷めちゃうぞ。」
「あ・・・そっか。食べよっと。続きは後でね。」
「続きぃ?もういいよ、俺は。」
「アタシはまだよくないの!」
「へいへい。」
食べ終わると彼女は、俺に次から次へといろんな質問を浴びせ掛けた。俺は食器を片付けながら、出来るだけ丁寧に彼女の問いに答えていった。
「じゃあさ、アンタがミナと付き合い始めたのっていつ?」
「お。ミナのことは知ってるのか。他に誰を知ってる?あ、それから、俺のことはアンタじゃなくてタカシって呼んでくれ。どうも落ち着かない。」
「きーっ!アタシが質問したのに、何でアンタが答えないで質問してくんのよ?しかも、余計な命令するなぁ!」
「おぉ、これは失礼致しました。私がミナと付き合い始めたのは、去年の夏でございます。でも、タカシって呼んでくれ。」
「こいつ・・・懲りねぇなあ・・・」
「で、ミナの他には誰を知ってる?」
「分かった、負けたよ。答えてあげる。アタシが知ってんのは、ミナと、“H”と、“D”だけ。他にもいるんでしょ?教えてよ。」
「ああ。まず、“H”は、昨日消えた。それから・・・」
「え?何よ?消えたってどういうこと?」
「簡単に言うと、ミナと合わさって一つの人格になった。」
「ふーん・・・そうなんだ・・・」
「怖いかい?」
「うるさいな。アンタに関係ないでしょ?」
「まあ、キミと同レベルで関係あるとは言えないな、確かに。でもタカシって呼んで。」
「あーうるさい!分かったよ、タカシって呼べばいいんでしょ!?」
「うん。いい。」
「はー。何か調子狂うんだよなぁ・・・で?他には?」
「“E”っていう十八歳のコと、“B”っていう、十四歳のコ。」
「ふぅん・・・てことは、全部で・・・えーっと・・・」
「六人。今俺が知ってる範囲では。“H”も入れてね。キミが六人目。キミも早くみんなと仲良くなるといいよ。みんないいコだから。」
「そんなのアンタが・・・分かったよ、タカシが、でいいんでしょ?とにかくタカシが決めることじゃないよ!どんな女なのかアタシが見て判断する。」
「そだな、そりゃそうだ。うん。」
「アンタ・・・タカシって、変だね。」
「そう?よく言われるから、そうかもな。ところでさ、俺は、キミはすごい嘘つきだって聞いてたんだけど、今までに何かすごい嘘ついた?今日出てきてから。」
「うるさーい!そんなのタカシに関係ないだろぉ!」
「あ、それか、嘘。分かった。ありがと♪」
「勝手に納得するなぁ!」
「じゃ、許可を下さい。納得してもよろしいでしょうか、お嬢様?」
「あ〜〜〜もう調子狂う!」
「やーい。」
「もういいよ!勝手に納得しなさい!」
「有り難き幸せ〜♪」
「バッカみたい。」
そんなわけで、“L”との初会見は思ったよりも無難だった。
年明けと前後して、一人が消え、一人新たに現れて、合計人数は変わらないものの少しはミナがいい方向に進んだと思うと気分が明るかった。こんな感じでやっていけば、やがて全人格を統合するのも夢ではないだろう。俺はそんな風に割合楽観的に考えていた。それに、俺自身の状態もここのところ非常に安定している。それはミナのことに専念しているせいもあろうが、いつだったかミナが俺にくれたもののお陰もあったのだと思う。いずれにせよ、俺は毎日いろんなコと話し、彼女たちの信頼を固めていった。
初めはなかなか警戒心を解かなかった“L”も、やがて俺のことを受け入れてくれるようになっていった。ただ困ったことに彼女はすごく悪戯が好きで、ちょっと目を離すとその思いつきに感心してしまうほどの素晴らしい悪戯を数々やってのけた。思いつきに感心するのはいいのだが、その処理に掛けねばならぬ労力や俺の精神的損傷を考えると、やはりそれは困った悪戯ばかりであった。例えば、砂糖と塩、或いはソースと醤油の中味を入れ替えたりするというのはよくある手だが、彼女はそれらを半分ずつ混ぜて見分けられないようにした。要するに、どちらも再使用不能になるわけだ。或いは、俺が長年愛用しているLEVI'Sのうち、ウエストが28インチのスリムタイプの全てを・・・そう、一本残らず全てを、自分用に腿のところからばっさりと切り落として短パンにしてしまったりもした。そして「どう?似合う?」と履いて見せてくれた。確かにベルトでぎゅっとウエストを詰めてそれを履いた彼女はとても可愛いのだが、履き古したジーンズへの俺の愛着は全く考慮されていなかった。また、ある日目覚めてみると、俺は三つ編みのおさげ・・・というより、ドレッドに近い髪型にされていたりした。その編み方は異常に細かかった。これは・・・ほどけば済むことなのだが、その後しばらく髪に編み癖がついてソバージュになってしまった。更にはこんなこともやった。ある日珍しく俺が愛用のHawkinsのワークブーツを履かずに外出して戻ってみると、彼女はなんとそのブーツの右足に・・・どこかで買ってきたと思われる鉢植えのチューリップ(黄)を植え替え、水をやっていたのだ。曰く、「キレイでしょ?」と。俺はその奇妙な「鉢」に植えられたチューリップ(黄)の奇妙な勇姿を見て、怒る元気もなくしてしまった。ただこんな風に悪戯はいっぱいやった彼女だが、俺に対しては前評判のようなすごい嘘をつくことは殆どなかった。それはちょっと不思議なことだった。
ともかく俺は、彼女がミナの中の最後の人格らしいということを知り、恐らくその中で一番手強い彼女と親しくなれたことを喜ばないわけはなかった。彼女の悪戯も、親愛の表現だと思えば腹も立たない。だが、本当に“L”で最後なのか?という疑問はちょっと残っていた。まだもっと厄介な人格が潜んでいる可能性を完全に否定出来るものではなかろう。
さて。ここで“B”の話をしよう。
俺はそうとは知らずに閨房担当の彼女とは随分前から何度も接していたわけだが、俺がミナのカウンセリングを開始してしばらくの間、彼女は外に出ては来るけれどもいつも殆ど無感情で、投げ遣りで、俺の面白い冗談に笑うこともあまりなかった。俺は、知らずにとはいえ自分もまたこのコをこうさせるのに加担してしまったということを思うと、彼女に対しては他の人格に接する時のように自然に振る舞うのが難しかった。今更自分の過去の行為や鈍感さ、能天気さを責めても始まらないので、なんとか前向きにどうすべきかを考えていたのだが、それはなかなか難しい問題だった。彼女自身は別に誰に抱かれようが何だろうが関係ないといった様子で、無感覚にそういう行為を受け入れていたようだった。俺が自分の愚鈍さについて話しても「そんなの気にすることないんじゃない・・・どうでもいいよ、そんなこと。」と投げ遣りに言うだけだった。俺はそういう彼女を見ていると非常に辛かった。このコは無感覚になるために生み出され無感覚なまま一生を送ることを運命づけられているのかと思うと、やりきれなかった。何とかして彼女に真っ当な感受性を取り戻してもらいたかった。もうミナは「無感覚」に逃げ込む必要はないのだから、“B”だってもっと生き物らしい感覚を持てなきゃ不公平ではないか。こうして言葉にしてしまうとその論理はよく分からないのだが、それでも俺は生の感情として彼女にももっと幸せになって欲しかったのだ。もしかしたらそれは俺の自分の行為への悔恨を軽減するために俺が勝手に思っているだけの余計なお世話なのかも知れなかったが、それでも俺は彼女の「生きた笑顔」を見たかった。
そういう複雑な背景もあり、俺はどう彼女に接していいか判断しかねて、時折つまらなそうに出てくる彼女に対して面白い冗談を言うくらいしか出来なかった。彼女は最初はものすごく蔑んだ目で俺を眺め、俺はその度にそのまま凍り付いてしまって再起動するのに一旦電源を落とさねばならなかった・・・つまり、彼女が投げ遣りに中へ入ってしまって他の誰かが出てくるのを待たねばならなかったのだが、やがて彼女は俺の冗談に少しずつ理解を示すようになり・・・それはやや虚無的ながらも彼女が笑みを見せるようになったということだが・・・そのうちにちゃんと笑うようになった。といっても、“E”や“L”みたいに陽気に元気に笑うのではなくて・・・彼女は、自分以外の全人類が滅びた後の地球で氷に覆われた南極の海岸をただ一人彷徨っていたら、突然海からぺんぎんが一つぴょこんと氷の大地に飛び乗ろうとして失敗し、ずるっとまた海に落ちてしまったのを見て思わずくすっと漏れてしまう時のように、笑った。考えてみればそれは、他のどの人格の笑い方よりもミナの笑い方に近かった。ミナが最初に多重化して生まれたのが“B”であるということとそのことの間には何か関係があるのかも知れなかった。そして俺は“B”の吹けば飛んでしまいそうなそのささやかな笑みに、“何か”を見出した。“何か”を感じたのだ。だがその“何か”を描写することが出来ない。その“何か”を正しい言葉に直すことが出来ない。如何なる言葉を以てしてもその“何か”を余すところなく表すことは出来ない。何という無力感だろう?俺は全ての言葉を失ってしまったかのような気分に陥った。
いずれにせよ俺が浅薄に何の覚悟もなく見たいと願った彼女の「生きた笑顔」は、俺の想像を遥かに超えて美しくそして危険なものであった、ということだ。それは、他の如何なる存在をも圧倒する絶対的な力を有していたのだから。俺のようなちっぽけなの一人の人間が、その彼女の笑みに対抗出来ようはずがなかった。それゆえ俺はそれを畏れた。ただ幸いにして、彼女の笑みがその絶大な力を発揮するのは、それが彼女の慎ましやかな顔に宿る一瞬の間だけだった。だから今でも俺はこうしてこの宇宙の片隅に存在し続けることが出来ている。
というわけで俺は“B”に対する時にはますます複雑な状況に囲まれてしまうようになっていった。これは良い兆候ではないのかもしれないと思ったが、俺にはどうにも出来なかった。俺は無力だった。
“B”に対する時の俺の混乱、ミナの中にまだ現れぬ人格が存在するかもしれないという懸念、そして徐々に強くなる“E”の誘惑など、まだまだ不安な要素も少なくはなかったのだが、それでも俺達は一緒に時の中を歩み、月日は去って行き、やがて呪わしき杉花粉の季節も終わりつつあった。
そんなある晩、俺は珍しく落ち着いている“D”と一緒にお茶を飲みながらぼーっとTVを眺めていた。画面はNHKの23時のニュース番組を映していた。俺はこのキャスターの男はあまり好きではないのだが、他に面白そうな番組もなかったので何となくそれを見ていた。そこまでニュースの内容など殆ど気にとめていなかったのだが、横あいからすっと自分の手元に差し込まれた紙に目を落としながらそのキャスターが読み上げ始めたニュースに、俺はぴくりと反応した。即座に俺の目と耳が全部TVからの情報に向いた。横にいた“D”が敏感にそれを感じ取って一瞬緊張したのが、空気の振動と彼女の発する遠赤外線のスペクトルの変化で俺に伝わった。
「・・・えー、今入った情報に拠りますと、・・・は23日、×××××・・・の○○○○○○・・・が・・・死亡したと報じました。繰り返します。・・・」
動揺を隠せない俺をちらりと見て、彼女は訊いた。
「ねぇ、×××××って、前タカシが行ってたとこだよね・・・?」
「ああ・・・。」
「タカシ、○○○○○○って知ってるの?」
「ああ・・・。雇い主だった。直接の。」
「そう・・・ホントに死んじゃったのかな・・・?」
「どうかな・・・デマかも知れないけど、ホントかも知れないな・・・あそこでなら、そういうことは起こり得る。いつでも。」
「そう・・・タカシ・・・その人のこと好きだったのね・・・」
「え・・・?」
「・・・だって、すごく悲しんでる。」
そう言った彼女は、俺以上の悲しみの中にいるように見えた。彼女は、他人の悲しみに同調し、それをも全部引き被ってしまうのだろう。それは、その繊細で華奢な精神には辛すぎることだろうに。
しかし、俺は悲しんでいるのか?彼女の言うようにその雇い主のことが好きだったのか?確かに俺は相当動揺していた。俺には滅多にないことだ。俺は雇い主としてしか彼を見ていなかったつもりだった。彼自身は現場に出ないし、俺とはあくまで仕事上の付き合いだったし、個人的な話をしたことは一度もなかった。だが俺は実際にこうして動揺してしまっている。この感情は以前にもどこかで抱いたことがあった気がする・・・そうだ、仕事仲間の一人を失った時のそれとそっくりなものだ。俺は、雇い主の彼に対しても知らず知らず仲間意識を抱いていたのか。俺にとって、彼もまた「仕事仲間」だったということか。そのことを今“D”に指摘されて、初めて気付いたのか。そうかも知れない。
俺は自分の軽率な好奇心と愚劣な自惚れからあの仕事を始めた。だが彼は何のためにあの立場にいたのだろう。周囲の人たちの幸せのためだろうか。それとも、望まぬにも拘わらず周囲に祭り上げられたのだろうか。彼はどんな想いで身の危険を知りながら毎日あの地位で自分の仕事をこなしていたのだろう。彼の人生は彼にとってどんなものだったのだろう。彼の幸せとは何だったのだろうか。彼にもくつろげる瞬間はあったのだろうか。彼にも愛すべき人はいたのだろうか。俺は彼のことは何も知らないに等しい。知ろうとも思わなかった。だが、当たり前だけれども、彼も一人の人間だったのだ。そのことをこうして考えてみたことは今まで一度もなかった。
そんな風に俺が急に感傷的になっているのを“D”は静かに眺めていた。俺は、しまった、と思った。彼女の前で俺が不安定な感情に囚われるのはまずいのではないか、と。だがそんな俺の心を見透かして、彼女はそっと言った。
「ううん・・・いいよ。」
「あ・・・」
「あたしね、ずっと、タカシは自分とは正反対の人だって思ってた。」
「正反対・・・って?」
「タカシは、苦しんだり悲しんだりしててもいつも冷静でいられるのかと思ってた。」
「・・・まさか。」
確かに俺は今まで彼女の前ではいつも平穏な自分を保っていた。彼女が他人の感情にすごく敏感なコであるのは最初に出てきた瞬間から分かっていたので、俺は出来るだけ彼女に悪い影響を与えぬよう、自分の心を穏やかに保つ努力をしていたのだ。
「だから、今、ちょっと安心した。」
俺のそういう態度が逆に彼女を緊張させてしまっていたと今更気付いた。
「そっか。・・・俺だって、脆くて弱い人間だよ。」
「でも全然そんな風には見えなかった。・・・もっと早く教えてくれればよかったのに。あたし、ずっと寂しかった・・・」
「うん・・・そうだな・・・ごめんな。」
「ううん、もういいの。もう分かったから。」
「・・・彼から、仕事への払い以上のもんをもらっちまったな、俺は。」
「でも・・・デマだといいのにね・・・」
「まあな・・・だけど期待は出来ないよ。」
「・・・うん・・・」
それから俺達はいろいろなことを話した。今までは、“D”といる時はいつも彼女が何かを放出し、俺は一方的にそれを助け、受け止めているつもりだったのだが、この晩は初めて俺もいろいろなものを吐き出した。(俺は自分が神経症で苦しんでいた時の話までした。それをミナ以外の人格に直接話したのはこれが初めてだった。)初めは俺が何かを吐き出してしまうと彼女に良くない影響を与えるのではないかとまだ心配だったのだが、ちょっとずつ様子を見ながら話していくうちに、それが悪い影響を彼女に与えることはないとはっきり分かるようになった。それどころか、もっと早く気付いてこうしていれば良かったな、と思うくらいだった。彼女は俺の話を聞きながらどんどんほぐれていった。そして俺も、不思議なくらい素直にいろいろなことを話すことが出来た。俺は自分の勝手な思い込みを恥じ、それについても彼女に正直に話した。すると彼女は、初めて微笑みを見せてこう言った。
「タカシ、優しすぎるよ。」
十六歳の女のコにそんなことを言われて、俺は柄にもなく戸惑ってしまった。初めて目にした彼女の微笑みは、ちょっとはにかんでいて、そしてすごく温かかった。俺の顔が火照ったのはそのせいだと思う。
次の晩遅く、○○○○○○の葬儀が行われたとの続報が入った。デマであって欲しいという俺の・・・そして“D”の願いは、虚しいものとなりつつあった。葬儀自体が周囲を騙すための芝居であるという可能性に賭けたかったが、悲しいことにこの世には「天才外科医BJ」は実在しない。
そんなことがあってから一週間程経ったある晩、ミナ(正確には最後は“L”だった)が寝た後で、俺は独り机に向かっていた。ミナの中の人格についていろいろなことを書き留めていたメモを、そろそろまとめてみようという気になったのだ。それまでは、この先どれだけの情報がどのような形で出てくるのか見当を付けあぐねていたので、ただ紙切れにいろんなことをばらばらに書いていただけだった。が、少なくとも今までに目にした人格については随分たくさんのことが分かったので、まとめるための枠組みを決めることが出来そうだとやっと最近思えるようになった。それに、そうしてまとめてみれば、「一人の人間」として必要なはずなのにこれまでの人格の受け持ちからは欠落している部分があるかないかで、まだ他にも潜んでいる人格がいるのかいないのか予想出来るかも知れない。
俺はまず人格の一人一人についてまとめることから始めた。
199X+1.5.1 名前:ミナ 年齢:22歳(但しあと三日で23歳) 自称:私(わたし) 語調:穏やか 性格:柔和、知的、純粋、受容的、酔うと幼児 笑み:無邪気な子供 表情:一見冷酷だが実は穏和 行動:かなり活発 備考:主人格 名前:E 年齢:18歳 自称:アタシ 語調:コケティッシュ、比較的ラフ 性格:無邪気、好奇心旺盛、わがまま、危険 笑み:コケティッシュ 表情:ヤバいレベルで妖艶、寝顔は純粋 行動:比較的活発 備考:副人格的存在? 名前:D 年齢:16歳 自称:あたし 語調:華奢 性格:感受性過多、臆病、悲観的、繊細、柔軟で膨大な受容性 笑み:一番温かい 表情:深い、脆い、悲嘆 行動:微妙なレベルでしか動かない 備考:自殺願望有り 名前:L 年齢:15歳 自称:アタシ 語調:かなり乱暴/甘え口調 性格:多弁、悪戯好き、陽気、猜疑、淋しがり屋(男嫌い、嘘つき?) 笑み:快活 表情:表現豊か、不安定 行動:とても活発 備考:最後に登場した人格 名前:B 年齢:14歳 自称:? 語調:投げ遣り 性格:投げ遣り、無口、不信、受け身的、感情希薄?、諦観 笑み:稀だが危険 表情:投げ遣り、希薄 行動:普段は消極的 備考:多重化した最初の人格? 名前:H 年齢:14歳 自称:? 語調:乱暴 笑み:? 性格:憤怒、憎悪、攻撃性、怖がり? 表情:憎悪を宿した強烈な眼光 行動:直情的 備考:199X.12.31、ミナに統合された
☆出現頻度は、時間が経つにつれて均等になっていったので省略。
☆ミナ以外は、歳を取らない。
次はTREE・・・というよりある種のサボテンかナスカの地上絵みたいだが・・・
14 15 16 17 18 19 20 21 22 23(age) ┌───────────H ───────────┐ ───**─*──*─────*────────────*─Mina | | | └──────────────E | | └────────────────────D | └───────────────────────L └──────────────────────────B
☆実際はミナ以外の人格から分裂した人格があるかも知れない。それについては今のところ正確な情報なし。また、BとHの出現は同時である可能性もあり。
そして、各人が俺の前に最初に現れた段階での他の人格への認識。
M:E/B(=ミナは、EとBの存在を認識していた。) E:M/D/B/H D:E/L L:M/D/H B:M/E/H H:M/E/D/B
☆ああややこしい。
取り敢えずそこまでまとめると、俺はそれを眺めてみた。
人格の発生時期や受け持つ役割、そしてその性格や発生理由などについて総合的に考えてみて一つ気が付くのは、“E”というのはかなり特殊な位置にいるのではないか、ということだ。彼女はどうして生まれたのだろう。他の人格は恐らく様々の苦痛からミナが自分自身を解放するために生み出されたのだろうし、時期や受け持ちを併せて考えてもそれほど奇妙な点はない。だが、“E”は?その頃ミナに何か特殊な事情でも発生したのだろうか?これはミナに訊いてみないと分からない。或いはミナにもよく分からないのかも知れないが。
そして上のことと無関係でないように思えるのだが、実際にはどの人格が誰から分離したのか、ということを何とかして知りたい。全員がミナから分裂して生まれたというのはかなり強引な仮定だろう。もしミナ以外の人格から分かれて生まれた人格があるとすれば、その人格はまずミナでなく元になった人格に統合されねばなるまい。といっても俺が誰を誰に統合するか決められるわけではないから、直接的には正しいTREEを描けるようになっても意味はあまりないのかも知れないが、正しい過程を知らないより知っている方が何かの足しになる可能性もないとは言えない。
それから、最初の段階で誰が誰を知っていた/知らなかったというのにも意味があると思う。それは必ずしも「AがBを知っているならBもAを知っている」というものではなかったし、人格が生まれた順番とも密な相関はないように見えるので、この複雑な認識関係の裏には何か重要な鍵が潜んでいるかも知れない。しかし、これを解いていくのには相当な困難を伴うだろう。今までのように単純な方針で彼女たちと接しているだけではだめなのかも知れない。そろそろ少し気合いを入れてこのパズルに向かう時期なのだろうか。だがまずどこから手を付けていいものやら、即座には判断出来なかった。ジグソーパズルならまず角、そして縁のピースを探すことから始めるのが楽なのだが、それに相当するような取っ掛かりが今の場合にも存在するのかどうか。その辺から探っていくしかあるまい。
その晩はそこまでにして、俺はベッドに入った。そこにあったのは、この頃ようやく俺と一緒に眠ることに抵抗を示さなくなった“L”の寝顔だった。どの人格が「外」に出て眠っているかで寝顔の表情も微妙に異なるのだが、“L”のそれは彼女が覚醒している時の元気な様子とは違って随分頼りなく見えた。だから初め俺はそれを“D”の寝顔だと勘違いしていた。ある時、彼女は夢の中で何かまたすごい悪戯をやって俺を困らせたらしく、いつも彼女がそういう時に見せる満足げな笑みをふっと浮かべながら寝言を・・・「やったね♪」と・・・言ったので俺はそれが“L”の寝顔だと気付いたのだった。“D”の寝顔は、“L”のそれと較べて7%ほど安定度が高い。
その週の土曜日はミナの誕生日だったので、俺達は部屋でささやかなパーティーを開くことにした。普段は夕食に和風の食事を作ることが比較的多かったから、たまには違った気分を出そうと手抜きながら洋風にしてみることにした。フライドチキンやスパークリングワインを買ってきて、宅配ピザとサラダを頼み、勿論お祝いのケーキも買ってきた。彼女の好きなチョコレートケーキだ。
因みに、普段俺達は特に事情のない限り交替で料理を作った。といっても「一日交替」ではなく、その時出てきている人格にとって「交替」になるように。つまり、昨日俺が料理をしたから今日はキミ、ではない。昨日そこにいたのは“D”で今日はミナ、だったりすることが普通だったし、そうすると、この前ミナが出ていた時にも彼女が料理を作ったのに、ミナにしてみれば「また」作らねばならない、ということになってしまうことがある。だから「その時出てきている人格にとって」にした。それから、人格毎に料理をすることへの好き嫌い、上手下手の差があった。最初の頃は殆ど料理などしたことがなかったコもいた。つまり、そういう状況で外に出てきたことなど殆どなかったコもいたのだが、俺がちょっとずつ教えたり自分で料理の本を見たりしているうちに、みんなある程度は出来るようになっていった。そして、「好き」と「上手」、「嫌い」と「下手」はほぼセットになっていたが、前者のタイプは“D”と“B”、後者が“E”と“L”、ミナはその中間くらいだった。“H”がどうだったのかは分からない。彼女の腕前を見る機会は一度もなかったから。でも、彼女が溶けてから心なしかミナの料理のセンスが向上したように感じられたから、もしかしたら“H”は料理上手、或いはそうなる素質があったのかも知れない。だとしたら、それを知る前に彼女が消えてしまったのはちょっと残念なことだな・・・
俺達はちょっとだけフォーマルな服を着て、パーティーを始めた。23本の小さなろうそくをケーキに立てて火を灯し、部屋の明かりを消した。
「そんじゃ、誕生日おめでとう!」
「ありがとう♪」
ぷはー。
今宵はミナのために他の人格には出てこないでねと頼んであったし、この間から気になっているがまだそれについて話す機会のない“E”という人格の出現に関することなども俺は忘れて、久しぶりに昔のミナと自分を思い出して楽しんだ。ちょっとだけ、カウンセラー役でなく恋人としてミナに接した。もう随分長いことミナと一緒にいるような気がしていたが、考えてみれば、これがミナと知り合って初めての彼女の誕生日なのだ。今日くらい恋人気分に浸っても悪くはないだろう。しかし更に改めて考えてみると、ミナと知り合ってから俺が彼女のカウンセラー役という立場を選ぶまで、つまりミナがここに住むようになるまでと、それから今まででは、水晶の震動を基準にした時間では、そして自分の実感としても、後者の方が遥かに長いんだな。前者が約三ヶ月、後者は約半年。そう思うと不思議な感じがした。ミナと俺が普通の恋人同士の関係で過ごしたのはまだたったの三ヶ月でしかないのか。俺はミナのことをその最初の三ヶ月でそんなに詳しく知ることが出来たわけではなかった。そしてそれは実は今でもそれほど変わってはいない、という見方も出来る。あとの半年の間にミナが出てきていた時間の合計はそれほど短いわけではなかったから、そこで知ったことも勿論少なくはないのだが、それでも“ミナ”という人格に対する印象は最初の三ヶ月が経った時点と今とであまり変わっていない。この半年での形(?)の上での一番大きな変化は、ミナが“H”と一緒になったということだが、“H”は澱のように溜まった憎悪をほぼ完全に吐き出してしまった後でミナと合わさったせいか、それによってミナの人格が大きな変化を見せたわけでもなかった。ちょっとばかり、それまでのミナの持っていたアンバランスな感じが軽減された印象はあるが。
ということでミナに対しては俺の中でさほど大きな変化はなかったわけだが、その代わり、最初の三ヶ月で殆ど(全く、と言えないのが俺にはまだ少々辛い事実だったが)知らなかった五人の女のコについて、この半年でたくさんのことを知るようになった。彼女の中でだけでなく、俺にとっても彼女たちは完全に独立した五人(ミナも合わせて六人)の女のコであった。だから、ときどき俺は自分が難しい年齢の女のコの住む小さな寮の寮長になったような気もした。そしてそれは決して悪い役回りではなかった。いろいろと問題の多いコたちだが、俺は彼女たち全員のことが好きだし、彼女たちの方も俺をいろいろ困らせはするが基本的には俺のことを好いてくれていると思う。彼女たちのカウンセリングを続けることは確かに大変な仕事であると思うし、理屈で考えてみれば、自分の中にも多くの問題を抱えた俺のような人間がそんなタフな仕事を続けるのには無理があるのではないかという気もするのだが、俺自身は苦痛の中にこういう生活をしているわけではなかった。全く疲れることがないと言えば嘘になるが、彼女たちはそれぞれのやり方で(無意識的に、だろうけど)俺のカウンセラー役にもなってくれていた。俺の中の様々な泥やら何やらを、彼女らはいつの間にかちょっとずつ吸い出し、洗い流してくれていた。俺はそういうことに初めのうちは全く気付かなかったのだが、○○○○○○の死を知った晩にした“D”との会話が俺にそれを気付かせてくれた。そしてよくよく考えてみると、その時の“D”だけでなく、それまでも、その後も、いろいろな場面で俺は彼女たちに助けられていたと分かる。だからこそ俺の方も潰れたり擦り切れたりすることなく彼女たちと接し、彼女たちの助けになる努力を続けていくことが出来ているのだろう。「持ちつ、持たれつ」というありきたりの言葉がぴったりと当てはまる気がする。俺と彼女たちの関係は、半年前には予想だにしなかったことだが、非常に好ましいものになっていた。
久しぶりにちょっとアルコールが入って、例の子供みたいな可愛い笑顔をテーブルの向こうから惜しみなくふりまいているミナを眺めながら、俺はそんなことを考えていた。まだ俺はこのコを一人の女として真っ当な形では愛せないが、心の奥底から湧き出てくる彼女への暖かい感情は俺にとってまがいのものではあり得ない。形なんてどうでもいい、そう思った。
「タカシぃ〜、ちゃんとのまらいとだめらよ〜。」
「ん?ああ、飲んでるよ。でも・・・」
ミナはまだ二杯目のはずだが・・・こんなに弱かったかな、このコ?
「ねぇ、タカシぃ、あそぼ〜・・・」
「?・・・おう、何してあそぼうか?」
そうか、しばらく飲んでないから弱くなってるんだな。でも大丈夫かな?
「おいしゃさんごっこ〜、じゃなくてね〜、えへへ〜♪」
「こらこら。」
一瞬、不吉を感じた。
「タぁカぁシぃぃ〜!ねぇ〜、はやくあそぼ〜・・・」
「うん。いいよ、なにしてあそぶ?」
ヤバい。完全に乱れている。俺は、何がどうしてどうヤバいのかは分からなかったが、とにかくこれはまずいと感じて、焦った。いけない、落ち着かなくては・・・しかしそういう理性の抑止も虚しく、俺は急激に拡大する不安に呑まれていった。ミナを止めなくては・・・でも、何からどうやって止めればいいのだ?それすらも分からなかったが、身体がミナの方へ移動を始めた。そうか、まず近寄らなくてはいけないのか。役立たずの理性が後からついていった。
「・・・タカシはさぁ〜、いっつも『いいよ』とかいうくせにぃ、・・・」
突然ミナは泣き声になった。俺の動揺は激しくなった。
「ミナ、ちょっと待って、どうしたん・・・」
その瞬間、ミナが今までに見せたことのない表情を曝して、びくんと震えた。そして2.7秒ほど消えた。物理的には彼女の肉体をそこに残したままだったが。
「ぅわぁぁぁぁぁん・・・」
戻ってきたミナは破裂したように泣き始めた。いや、泣き叫びながらそこへ現れた。俺はその声でデジャヴュに囚われた・・・だけでなく、あの忌まわしい苦痛が実際に生じていた。俺は半年前のあのゲームセンターに引き戻されていた。そしてミナの泣き声は・・・それはミナの声色の範囲を超えていた。聞いたことのあるミナの声ではなかった。ミナは・・・もうそこにはいなかったのだ。俺は・・・割れる頭を抱えて呻いた。
・・・
ようやく少しばかりの理性を取り戻して俺は自分の苦痛を押さえ込み、その七人目に注意を向けることが出来た。まだ事態を冷静に分析する余裕はなかったが、はっきりしていることは、そこで泣いているのはミナでもそれ以外の俺が知っている人格の誰でもない、そして、今は自分の苦痛なんて気にしている場合ではない、ということだった。
取り敢えず泣き止んでもらわないと、話も出来ない。俺は彼女の頭をそうっと抱き、よしよしよし、と、髪を撫でつけながら、彼女が鎮まるのを待った。やがて彼女はえぐえぐ言いながらもだんだん落ち着きを取り戻していった。大分おさまったところで、俺は俯いている彼女にゆっくり話し掛けてみた。
「はじめまして。おれ、タカシ。きみは?」
「・・・ぅっ・・・んっ・・・ミナ・・・ぅっ・・・ぅっ・・・んっ・・・・」
折角取り戻した俺のなけなしの理性は、ここで粉々に砕け散った。そして俺は呼吸をするのをしばらく忘れてしまった。ミナ?・・・しかしやがて苦しくなってはっと気が付き、辛うじて呼吸を再開し、再びその惨めな理性の破片を寄せ集めてから、俺はゆっくりと訊いた。
「ミナちゃん、きみは、いくつ?」
「・・・ん・・・ぅ・・・」
彼女の乱れた呼吸もかなり落ち着いてきたようだ。だがまだちょっと苦しそうな彼女は、口で答える代わりに右手の小指をぎこちなく親指で押さえて、残りの指を不器用に伸ばしながらその掌を俺の方に向けた。手つきのぎこちなさが彼女の申告の信憑性を確立していた。
「・・・みっつ?」
「・・・ぅっ・・・」
彼女は下に向けた顔のままこくんと頷いた。・・・みっつ、か・・・
「・・・タカシも・・・っ・・・いじめるの・・・?」
?・・・「も」?
「・・・いじへらいよォ。」
俺は受けている衝撃を無理矢理潰し、おどけてそう言ってみた。
「☆」
彼女はぱっと顔を上げ、初めてこちらを見た。その年齢に相応しい無垢な笑顔だった。俺もつられて優しくにっこりした。
「あのさ、ミナちゃん、・・・」
そう言いかけた時、唐突に彼女は・・・さっき現れる時に見せた見慣れぬ表情とも見慣れた入れ替わりの時のそれとも異なる、不思議な表情を通過して消えてしまった。代わりに出てきたのは“E”だった。
「タカシぃ!大変なの!ミナが・・・」
「今・・・見てたよ・・・消えた、んだろ?」
“E”は泣きそうな顔で頷いた。事態は思った以上に深刻らしい。
「で、ちっちゃい方のミナの存在は、キミには?」
「?ちっちゃい方?何よそれ?」
やっぱりそうか。これは最悪かも知れない・・・
「今キミが出てくるまで、三歳の自称ミナがいたんだよ、ここに。」
「三歳・・・の、ミナ・・・?」
「自己申告によれば、な。でも多分本当だ。」
「それ・・・どういうことなの?」
「キミにも分からないんじゃあ、他の誰に訊いても分からないかもな・・・勿論俺に分かるわけがないよ・・・」
俺達はしばらくの間言葉を失って沈んでいた。それでも今起こったことを整理して考えなくてはいけない。だが無理だ。衝撃が大きすぎて頭が働かない。ちくしょう・・・
やがて先に思考を回復させた“E”が俺の空白の頭にも思考を導いた。
「でも、とりあえず他のみんなにも訊いてみる。そのちっちゃいミナのこと。」
「あ・・・ああ。そう・・・してくれ。」
「じゃあ、ちょっと待っててね・・・やったことないけど、全員に声を掛けてみる。」
「一度に?」
「だって、その方が話が早いでしょ?」
「そうだろうけど・・・でもあんまし慣れないことやって、キミまで消えないでくれよ・・・俺は怖いんだよ。情けないけど。」
「♪。やっぱりタカシ、アタシのこと・・・」
“E”は俺よりずっとタフだ。こんな時に何て余裕をかましてやがるんだろう・・・でも今の俺にはそれは頼もしく感じられ、少しだけ勇気付けられたのも確かだ。
「その話は、また落ち着いてからな。とにかく訊いてみてくれ。」
「うん・・・」
そうして“E”は俺をそこに残し、中へ入っていった。ミナの肉体は今実質的に空の状態になった。その目からは表情と呼べるものは消えた。俺は再びそこにちっちゃい方のミナが入り込むかな、とも考えたが、そうはならなかった。随分長い間、ミナの肉体はそれを司る人格を失ったまま、そこに微動だにせずとどまっていた。
戻ってきた“E”は、彼女が俺に見せたことのない絶望的な目で結果を俺に教えた。
「やっぱり誰も知らなかった、何が起きたのか分からなかった、ってわけか。」
「うん・・・」
「で、今んとこ誰もそのちっちゃいミナにアクセス出来そうもない、ってことか。」
「うん・・・」
「そして俺達は途方に暮れるしかなかった、って感じだろうな、物語だったら。」
「うん・・・」
「でも少しは建設的になろうか・・・もう寝ようぜ。疲れて考えられない。」
「そうね・・・」
いつもなら異様に俺をどぎまぎさせるはずの“E”の微笑みは、その時はいつになく素朴で純だった。俺は、あれ?と思ったので確認した。
「キミ・・・“E”だよな?」
「そうよ。どうして?何か変?」
「いや、確認しただけ・・・」
「?珍しいね、タカシ。」
「今日は粉々になったせいかな。」
「アタシが癒してあげる☆」
「ありがと・・・って、こんな時によくそんなこと言えるな。。。」
でも、その語調はいつものような危険な妖しさが少し鈍っていた。
「あ!」
「・・・なによ、急に・・・?」
「いや・・・違うか。でも・・・」
「なによぉ?どうしたの?」
「多分・・・疲れすぎてて混乱してるんだ。もう寝よう。」
「うん。」
俺が思い当たったのは、ミナは“E”に統合されたのではないかということだが、じゃあ、あのちっちゃいミナは?・・・と考え始めるとそこに存在するであろう混沌に呑まれて身動きが取れなくなってしまいそうだったので、全部明日考えようと気持ちを切り替えて眠りたかった。だから俺は、左腕の上で「お・や・す・み☆」と言い残して目を閉じ、その柔らかな体温で俺をぐしゃぐしゃに絡まった思考の糸から解放してくれる“E”に本当に感謝しないわけにはいかなかった。その気持ちをめいっぱい込めて、既にすぅすぅと寝息をたて始めた彼女の額にそっと唇をつけた。
「♪」
「げ。まだ眠ってなかったのか?」
「ふふ。でももう寝るよ。」
その微笑みは、やっぱりいつもとはちょっとだけ違っていた。
次の日。昨夜の時点でちっちゃいミナ以外の人格は全員一同に会して話が出来ることは分かっていたのだが、俺がそこに加われないということで、一人一人に出てきてもらって俺と話すことにした。まずそれを始める前に、彼女たちは彼女たち全員で、俺は俺で、現段階での情報を整理し、それについての自分なりの分析なり解釈なり意見なり単なる感想なりをまとめる時間を持った。それから、「面談」に入った。
問題の直後に出てきていたし、それまでの感触でも元のミナに次いで「広範」な人格と思われるということで、“E”から始めた。
「じゃあまず、昨日起こったことを俺の視点でまとめたのを話す。」
「うん。聞く。」
「昨日はミナの誕生日だったので、俺は事前にキミたちみんなに話をして、ミナのために外には出てこないで大人しくしててもらうことにした。みんな快諾してくれた。で、夕方、この部屋で俺とミナはパーティーを始めた。ミナは、ちょっと酒を飲んで、酔っ払った。ほんのちょっとしか飲んでないのに、ミナは随分酔って、幼児みたいになった。俺は以前、キミたちと知り合う前にもミナが酔うとそうなってしまうのを見たことがあったから、そのこと自体にはそんなに驚かなかった。だけど、ミナが突然『おいしゃさんごっこ』とか言ったのを聞いて、理由は分からないけど瞬間的に不吉なものを感じた。結果的にはその後で実際不吉なことが起きてしまったわけだけど、とにかくそれは動物的な感覚でしかなかった。」
「うん。それで?」
「で、まだ陽気だったミナは、『はやくあそぼう』と俺を誘った。その前の不吉な予感が急に大きな不安に膨張してって、俺は動揺し始めた。何だか分からないけど、ミナを止めなくてはいけないと思った。そんで、俺がミナの誘いに応えて『いいよ』と言ったら、ミナは急に泣きながら俺のことを詰り始めた。で、俺はびっくりしてわけを訊こうとしたら・・・ミナが消えた。」
「どんな風に?」
「それまで見たことのない顔になった。キミたちと入れ替わる時の独特の表情とも違う。そんで、2.7秒後に戻ってきた・・・最初はそう思った。キミたちのうちの誰かが出てきたんじゃなくて、ミナが戻ってきたんだと思った。でも、そのコは火がついたように泣き始めて・・・まず、それを聞いた俺は、その大音量の泣き声に、昔の自分の体験を思い出してしまった。前にミナとシーパラのゲーセンで遊んでた時、俺のすぐ近くで小さい男の子がいきなり喚いて、その頃俺は外界からの刺激に対して過敏になってたんだけど、その泣き声の音量に耐えきれなくて気が狂いそうになった。昨日、その戻ってきたミナだと思ってたコが泣き出した時に、それを思い出した。それだけじゃなくて、前の時と同じような苦痛を感じた。感じたなんてもんじゃなかったけど。で、俺の方はそういう風に気が狂いそうになってたんだけど、それでもそのコの泣き声がミナの声じゃなくなっているのに気付いた。ミナは確かに前にも酔っ払って呂律が回らなくなって子供みたいになってたことがあるけど、声の出し方はあんな風じゃなかった。昨日のコは完全に幼児の発声をしていた。だから俺はそのコが酔っ払ったミナじゃなくて・・・つまり、一瞬消えてまた同じ人格が戻ってきたんじゃなくて、誰か俺の知らない七人目の人格だと思った。キミたちの誰とも違ってるのが明らかだったしね。」
「それで?」
「うん、それで、そのコはしばらく泣いていたんだけど、俺はよしよしってなだめて、落ち着くのを待った。で、大分落ち着いたのを見て、まずはそのコに名前を訊いてみた。そしたら、“ミナ”って言った。俺は、聞いたことのない名前をそのコが口にすると思ってたから、それにはすごいショックを受けた。しばらく立ち直れなかった。でも頑張って、次に歳を訊いてみた。そしたら、手をこうして・・・突き出した。ずっと下を向いたまま。その時の手つきとか、その前の声の出し方とかから、その指の数は嘘じゃないと思った。動作も何もホントに幼児そのものだったから。」
「それから?」
「俺は一応確認するためにそのコに言ってみた。『みっつ?』って。そしたら、そのコは頷いた。そんで、いきなり俺に訊いたんだ、『タカシもいじめるの?』って。俺は・・・一瞬のうちに、今までのキミたちに対する分析なり認識なりの基盤が液状化現象を起こしてぐっちゃぐちゃになるのを感じたんだけど、そんでも、ちっちゃいコを相手にしてる時にこっちがびびってたらまずいから、無理してふざけてぼのぼののまねしてるアライグマのまねをしてみた。『いじへらいよォ』って。」
「あは。タカシ、余裕あったのね。」
「まさか。すんげえ頑張ってやったんだよ。そしたら、そのコは出てきて初めて顔を上げて、俺の方を見て、ぱっと笑った。その笑顔の質も、完全に幼児だった。ミナが酔っ払って子供っぽく笑ってるのとは全然違った。ミナのは、あくまで『子供っぽい』ってレベルにとどまってるけど、そのコのは、完全に幼児の笑顔だった。」
「それから?」
「で、俺も、すごく動揺してたんだけど、そのコの無邪気な笑顔につられて思わず微笑んだんだよ。そんで、何か話し掛けようとしたら・・・消えた。それも、また新しい表情を残して。んで、その後にキミが泣きそうな顔して出てきたってわけ。」
「ふぅん・・・」
“E”は、しばらく何かを考えていた。それから、彼女の側から見たこの出来事について話した。彼女はその時眠っていて、突然自分の近くで何かがはじけたような感じがして、驚いて起きてみたら、ミナの気配は消えているし、外に誰も出てない・・・誰かが去っていくしっぽみたいなものを「見た」そうだけど、とにかく誰もいないので、びっくりして外に出てきたそうだ。ミナの気配がそんな風に消えてしまったことはそれまで一度もなかったから、ものすごく怖くなった、と。ちっちゃい方のミナについては、そんなコは今までに感じたこともないし、他の誰に訊いても知らないみたいだし、今もそのコが自分たちと同じ領域に存在してるとは思えないと言った。全く気配が感じられないと。彼女は俺と最初に会った頃、“L”のことを直接は知らなかったのだが、それでも自分の知らない誰かがまだ存在しているという感覚はあったから、それとは絶対に違う状況になっていると思う、と怯えを見せて付け加えた。
なんてこった。手掛かりはなしか・・・しかしとにかく全員と話そう。次は“D”だ。
「あたしも、“E”に聞いてびっくりしたの。今まで、こんなことなかったし。」
「そうか・・・その、ちっちゃいミナには、アクセス出来そうもない?」
「だって、どこにいるのかも分からないのに・・・」
俺は相当がっかりした。が、加えてもう一つのことを感じていた。“D”に対する微妙な違和感だ。いつもより表情の変化が大きい。・・・それは、彼女の受けた衝撃の大きさを物語っているのだろう・・・か?
「そうか・・・何か感じたこととかはないかな・・・多分さ、キミが一番敏感だと思うんだ、そういうことに対して。」
「・・・その、ミナが消えちゃったっていう瞬間は、たぶんあたしにも分かった。すごく不思議な感じがしたから。どう言えばいいのかな・・・何かが、あたしたちの中で『ぽぉん』ってはじけた感じ。それでその何かが消えてなくなっちゃったようにも思えるんだけど、でもちょっと違うような・・・何かがまだ残ってるような感じもしてる。」
「む・・・」
「でもね・・・それが何なのかはよく分からない。たぶん、はじけちゃったのがミナだったんだとは思うんだけど・・・だってミナの気配が消えちゃったから、ちょうどその時に・・・」
「ふむ。やっぱり、元のミナは消えちゃった、とキミも思うんだ。」
「うん・・・その点ではあたしたち全員が一致してるよ・・・」
「でも誰かに統合されたってわけじゃないんだろ?」
「うん・・・だって、前に、ミナが言ってたけど・・・“H”が自分に溶け込んだのが分かったって・・・あたしも、他のみんなも、今回のことでそういう風には感じてないから。」
「んーむ・・・」
「でね、あたし思ったんだけど、ミナは・・・はじけて壊れちゃったんだけど、その時、全部吹き飛んじゃったんじゃなくって、ミナの核が残ったんじゃないかな・・・それで、その核がちっちゃい方のミナなんじゃないかな・・・?」
「うん。俺もそんなことを考えてた。そうなのかも知れない。」
「だとすると、そのコが自分はミナだって言うのも分かるし・・・」
「ただ、分からないのはなんで三歳になっちゃったのか、ってことなんだよな。その仮説の問題点。これは後で“B”にも訊いてみようと思ってるんだけど、最初にミナが多重化して生まれたのは“B”だろ?そんで、その原因が・・・言いたくもないけど、まあそういうことだったわけだよな?だとすると、それまではミナには多重化を強いるほど強烈な苦痛はなかったんじゃないのかな、って単純に思うんだけど、そしたら、どうしてミナが三歳になっちゃったんだか、全然分からない。その前に、どうしてミナがはじけちゃったのかも全然見当がつかないしな・・・」
「そうよね・・・どうしてミナははじけちゃたのかな・・・」
「なんかすごい辛いことが新たに・・・まさか、他の人格は歳を取らないのに自分だけ老けていくのがイヤだったなんてことは・・・ないよなぁ・・・」
「あは。うん、それはたぶんないと思うけど・・・どうしてなのかな・・・」
「まあ、キミもまたもうちょっと考えてみてくれよ。そんで、何か変わったことがあったら、また教えて欲しい。」
「うん、そうする。じゃあ、ね。」
「ああ、ありがとう。」
さて。次は“L”に出てきてもらうことになっている。
「おっす・・・やっぱりキミもショックだったみたいだな。」
いつものきょろきょろした目は臥せがちで物憂げだった。そんな風に落ち込んでいる“L”を見るのは初めてだったので、俺はちょっと胸が痛んだ。
「うん・・・」
「キミも、ミナが消えたのははっきり分かった?」
「うん・・・」
「やっぱり、ちっちゃい方のミナがどこにいるのかは分からないの?」
「うん・・・」
あまりにも沈んでいる彼女に一方的に確認を求めていると、自分がとても酷い人間に思えてくる。そっとしておいてやりたかった。だが、何か手掛かりは得られぬものかという欲求も強かったので、俺は頑張って続けた。
「ミナが消えた後、何かが残ったような感じはある?」
「うん・・・でも、よくわかんない・・・」
いつもの元気で憎ったらしい“L”が恋しかった。
「他に、気付いたこととか知ってることがあったら教えて欲しいんだけど・・・」
「わかんない・・・」
力なく彼女は言って、中に入ってしまった。収穫、ゼロ、か。
最後は“B”だ。まだ“B”と話す時には少々緊張してしまうが、今日はこういう背景もあって、いつもより更に俺の緊張度が上がりそうだった。しかし、それは良くなかろうと、俺はいつだったか最初に“D”と会う時に使ってみた気の持ち方(相手をねこだと思う)で行くことにした。
「ふぅ・・・」
出てくるなり彼女は溜息をついた。
「あのさ・・・・・・」
だめだ、この気の持ち方では。ねこ相手だと、相手がそっぽを向いている時は放っておくのが一番なんだが、今はそうもいかない。話をして貰わねばならないのだ。俺は意を決してねこ相手モードをやめ、普通に話し始めた。
「あのさ・・・ミナは、どこに行ったんだと思う?」
「・・・分からないよ・・・こっちが訊きたいくらい。」
「そう・・・キミはさ、ミナが多重化して生まれた最初の人格だろ?」
「たぶん、ね。そうだと思ってるけど。他には誰もいなかったから。」
「じゃあ、ミナが・・・もしはじけて消えちゃったとして、残った核がちっちゃい方のミナだとして、そのコが三歳ってのは・・・どういうことだと思う?それに、どうしてそのちっちゃいミナはキミたちとは違うところにいるんだろう?」
「だから、こっちが訊きたいよ・・・何がどうなったのかわかんないから怖いんだよ!」
「そう・・・ごめん。」
“B”が、珍しく・・・いや、俺の記憶にある限りでは初めて、か?・・・とにかく、苛立ちを伴った恐れを露にした。やはり、ミナが消えたことは、他の人格みんなに少なからぬ影響を与えているようだ。妖しさの純化された“E”、悲しみ以外の感情とその表現の振幅が増大した“D”、落ち込んでいる“L”、そして、感情的になっている“B”。この変化はショックによる一時的なものなのだろうか?それとも、彼女たちに質的な変化が生じているのだろうか?まだ今の段階ではどちらとも言えない。
そうして一通り全員と話をしてから、もう一度“E”に出てきてもらって話をまとめることにした。といっても、得られた手掛かりは皆無に近かったのだが。
「どう?みんなと話してみて、何かわかった?」
「ミナと、ちっちゃいミナに関しては、殆ど何も分からなかった。でも、はっきりしたのは、キミたち全員に変化があった、ってことだな。それが一時的なものなのかそうではないのかはまだ判断出来ないけど。」
「変化?って?どんな?」
俺は簡単にそれを彼女に説明した。しばらく考えてから、彼女は意見を述べた。
「それって、アタシたちが、自分の特徴を弱めたってことかな?」
「そう・・・だな。確かに。特徴的な部分が強調された、ってのの反対だ。」
「ってことは、アタシたちが、お互いに似る方向に変わってる、ってこと?」
「そう・・・かな?ちょっと待って・・・」
俺は彼女の言ったことについて考えてみた。言われてみれば、確かにその変化は彼女たちをそれぞれ「らしく」していた部分に関する変化で、それはその「らしさ」を減じる方向への変化であった。ということは、大雑把に言うと、“E”の言ったように、人格のそれぞれがお互いに今までよりも近づいている、ということになるかも知れない。
「そうだな、確かにそうかも知れない。似る方向に変わってる。」
「ってことは・・・アタシのライバルが増えるってこと?」
本当にこのコはタフだと思う。俺は呆れるのを通り越して感心してしまった。
「冗談よ。今、それどころじゃないよね。」
そうか、このコも怖いんだな・・・このコなりに、自分をほぐそうとしてるんだ。
「一瞬真に受けちった。ごめん。」
「ううん。」
「あのさあ、ミナって、そりゃあ不安定なところも多かったけど、キミたちと較べたら随分バランスのいいコだったよな?歳も上だったし。」
「そうね・・・アタシの方がいいオンナだったけど。」
「まあ、いいや、そういうことにしといても。でさ、俺、今思ったんだけど、ミナがはじけて、残らなかった部分、つまり、ちっちゃい方のミナ以外の部分ってさあ、もしかして、キミたちの中にちょっとづつ吸収されたってことは、あり得ない?」
「え?」
「だから、“H”がミナに溶けた時と違って、ミナ・・・の大部分が誰か他の人格の一人に溶け込んだんじゃなく、あんまりはっきり分からないくらいに均等にちょっとずつキミたち一人一人に溶け込んだんじゃないかな、ってこと。ないかな?もしそうだとしたら、キミたちの変化についても辻褄の合う説明が成り立つかも知れないだろ?」
「そう・・・ね・・・」
「それでもどうしてそのちっちゃいミナが残って、しかもキミたちの誰もアクセス出来ないのかは分からないままだけど。」
「・・・うん、でも、その話はみんなにもしてみた方がいいよね?」
「うん。そうしてくれると嬉しい。」
「じゃ、ちょっと待ってね・・・」
そう言って“E”は中に入っていった。再び、ミナの肉体はそれを司る人格を失って空っぽになった。
その間に俺は、今の自分の思いつきについてもう少し考えを巡らせてみることにした。確かに、もしも「ぽぉんとミナがはじけて、残った核がちっちゃいミナである」という描写と想像が正確なものだとするなら、その核以外の部分、はじけ飛んだ断片の部分が無に帰してしまうと考えるよりも、それはどこかに吸収されたと考える方が筋は通っている。だが、この女のコの中で起こっていることについて、自分の偏狭な理性ででっち上げた考えなり見方を当てはめてしまっても大丈夫だと楽天的には到底思えない。そんなことをやると、とんでもない思い違いをして事態を悪化させてしまうかも知れない。だから慎重になる必要があるな、と俺は自分を戒めた。
やがて“E”が戻ってきた・・・と思いきや、出てきたのは“E”ではなく、“L”だった。
「あのさ、タカシ・・・ごめん。」
彼女が俺に謝ったのはやはり初めてのことだったので、俺は驚いた。しかもいきなりだ。
「どうしたんだよ?」
「あのね、アタシ、ちっちゃいミナのこと知ってるんだ。」
「なに?」
「ちっちゃいミナがどこにいるか、知ってる。」
「!ホントか?こういう大事な時に嘘つくなよ?」
「・・・だから、謝ってるでしょ?さっき、ちゃんと言わなかったから・・・」
“L”は泣きそうになってしまった。俺は自分を恥じた。
「悪かった・・・そうだよな。キミたちにとっては・・・」
「うん・・・」
「ごめんな・・・・・・それで?」
「うん。それで、そのちっちゃいミナのことだけど・・・」
“L”は真っ直ぐな目で俺の方を見ながら、話し始めた。
彼女の話によれば、そのちっちゃいミナがいるのは、他の人格がいつも存在しているところよりも「深いところ」だそうだ。俺にはそれがどういうところなのかまではよく分からないが。そして、その深いところというのは、真っ暗で、その中に誰かいるなんて普通は分からないらしい。というよりも、そこに誰かが存在し得るなんて今まではとても思えなかったそうだ。だが、ミナがはじけてその存在を消した後に、しばらく経ってから・・・それはたぶん、ちっちゃいミナが外に出て俺と話をした後、だと俺は思うが、とにかくしばらく経ってから、その深いところにいる誰かに突然話し掛けられて驚いた、と“L”は言った。初めはそれが誰なのか、どうしてそんなところにいるのか分からず、ただ動揺してしまったのだが、そのコの話を聞いてみて、彼女がミナの「名残」であると理解した、ということだ。ただ、そのちっちゃいミナは、他の人格の存在に対して恐れを抱いていて、他の人には自分のことを言わないで欲しいと“L”に頼んだという。なぜ自分だけがちっちゃいミナに信用されたのかは分からない、と彼女は言ったが、俺がそれを想像してみるに、“L”は良くも悪くも一番子供っぽく、子供にしかない種類の不安や恐れを多く抱いているのをちっちゃいミナが敏感に見抜いて親近感を覚えたからではなかろうか。ともかく、ちっちゃいミナが“L”とは少なくとも話をしてくれていると聞いて、俺は微かだが光を見出した気がした。
「でさ、そのちっちゃいミナは、どんな感じ?」
「ちょっと怖がってるみたい。いきなり裸で独りぼっちでこの世界に放り出された、っていう風に。」
「キミと話す時は?」
「アタシは割と信用されてるみたいよ。そんなに暗くない。」
「ふぅん・・・」
そのちっちゃいミナが初対面の俺に笑顔をくれたのは大変な幸運だったのかも知れないな、と思う。しかも彼女はぼのぼのなんて知らないだろうに。俺はいがらしみきおの才能に感謝した。
「ねぇ、タカシ・・・どうしたらいいのかなぁ?」
「そうだな・・・まず、今のところ彼女と話せるのは・・・少なくとも中にいる時に話せるのはキミだけだから、ちっちゃいミナの信用をなくすことだけは避けたいな。あのコがいつまた出てきてくれるのか分からないし、出てこない限りはキミだけがあのコとそれ以外の存在との橋渡し役だから。」
「そうだね・・・」
「そんで、今のところは取り敢えずあのコが話をしてきたら聞いてやるくらいしか出来ないかも知れないけど、キミに対する信用が固まってきたら、また外に出てきて俺とも話してくれるように軽く頼んでみてくれないかな・・・タカシがミナちゃんに会いたいって言ってるよ、いじへらいから、って。」
「あはは。いじめない、じゃなくて、いじへらい、ね?」
「そう。それ大事かも知れない。」
「分かった。様子見て頼んでみるよ。」
「うん。よろしくな。それから、くれぐれも他のコにはそのちっちゃいミナに自分の側から話し掛けようとしないように頼んでおいてくれ。たぶん、いきなり沢山の人が自分に注意を向けるのを感じたら、あのコはますます怖がってしまう。」
「うん、分かった。それもみんなに言っておくよ。」
「ありがと。」
元のミナのはじけた部分がちょっとずつ他の人格に吸収されたのではないか、そしてそのせいで各人格の特徴が少し緩和されたのではないか、という仮説を他のみんなに持っていった“E”が戻ってきた。俺は、彼女が消えていた間に外で“L”が言っていたことを簡単に伝え、「ちっちゃいミナに自分からアクセスしようとはしないように。」ということも言った。一人の女のコの身体に何人もの人格が存在するというのは、考えてみれば随分ややこしい状況だ。俺は最近それにすっかり慣れてしまっていたが、これは実はまだ世の中ではそれほど「普通」のことではないんだろうな、と改めて認識した。
「でも、ミナはどうしてはじけちゃったんだろうね・・・」
“E”がぽつりと言った。俺は、この機会に前から彼女に訊きたかった、そして本当なら元のミナにも訊きたかったことを訊いてみることにした。
「それと関係あるかないか分からないけど・・・キミはどうして生まれたのかな・・・そもそも、キミは今いる人格の中では一番最後に現れたわけだけど、自分が誰から分離して生まれたのか分かる?」
「アタシは・・・自分じゃあそれははっきりとは分からないの。タカシだって、自分が誰から生まれたのか、なんて、自分の感覚とか感情だけからは分からないでしょ?そりゃあ、普通の家庭に生まれて育てば、一緒に住んでいる両親から生まれた、って思うだろうけど、DNA鑑定とかそういう難しいことをやらないと、ホントにそうなのかどうかは確かめられないよね?アタシたちの場合は、身体が一つしかないからDNAで調べるってことも出来ないし。」
「む〜ん・・・そうか。じゃあ、他の人格・・・キミより前からいたコにはキミが誰から生まれたのかは分からないのかなぁ?何かそれについて誰かから聞いたことはある?」
「ううん、みんなにも分からないみたい・・・」
「む〜・・・」
元のミナが消えて、今や最年長、もしかしたら「主」人格になっているのかも知れない“E”の出所が分からないというのはかなり厳しい事実だ。どこかに手掛かりはないものだろうか・・・元のミナは、その鍵を握っていたかも知れなかったのだが、結局彼女にそれを尋ねる前に彼女は消えてしまった。だが、完全に無に帰したわけではないとするならば、他の人格に吸収されたどこかに、或いはちっちゃいミナの中にその鍵が残されているかも知れない。まだ諦めるのは早いだろう。どんなに複雑でややこしくどこから手を付けていいものやら分からないものでも、きっと解明への糸口があるはずだ。数学的な意味での混沌にもそれを理解するための手法があるように、この女のコ(代表者名を取って“ミナ”と呼びづらくなった今、一個の生物組織としての彼女を何と呼んだらいいのだろう?)の問題についても、何らかの見方を得ることによって、それを理解出来るかも知れない。だがそれはあくまで彼女の抱えるMPDという状況を理解するという意味であって、彼女の全てを理解するという意味ではない。全てを理解するなんて、MPDでない一人の人間に対してだって出来ることだとは思っていない。
ともかく、進むための手掛かりが欲しい。しかし、焦りは禁物かも知れない。
何日か経ち、みんなの動揺も大分収まってきていた。だが、ちっちゃいミナはあれ以降まだ一度も外には出てきていなかった。“L”とは少し話をしていたようで、それについて“L”は俺に話してくれた。勿論嘘なんか交えずに。それによると、ちっちゃいミナがどうして“L”にだけ話し掛けたのかは、やはりちっちゃいミナが“L”の中にだけは強く「大人」を感じなかったせいだということらしい。“L”にはそれはちょっとショックだったみたいだ。“L”もまた、その年頃の他の多くの女のコと同じように、自分が早く大人になりたいと願っていたようだったから。慰めになるのかどうかは分からなかったが、俺は正直な印象を述べた。出てきた当初に較べれば、キミは随分落ち着いたよ、と。“L”は、いいよ、無理しなくても。どうせアタシは“E”みたいに色気ないし、と言ってちょっとだけ悲しそうに笑った。彼女の“E”に対する微妙で複雑な感情がそこには漂っていた。でも俺は、別に無理して言ったのではなく、正直に言っただけだったのにな。・・・そういえば元のミナも、“E”に対してはちょっと複雑な何かを抱いていたようだった。最初に“E”に出てきて貰った時のことを、俺は一瞬思い出していた。
そんなある晩、俺は“B”と一緒に部屋で音楽を聴いていた。ミナがいなくなって、めたるを一緒に聴く機会がなくなって少々寂しい思いをしていたのだが、さっき出てきた“B”はつまらなそうに俺のCDラックを漁っていたかと思うと突然こう訊いた。
「タカシ、これ聴いていい?」
そう言った彼女が手にしていたのは、KREATORのアルバムだった。俺はものすごく動揺してしまった。それは、俺が以前ミナと・・・だと思っていたが実は“B”と「寝る」時に何度かBGMに使っていたものだったのだ。この手の純粋に攻撃的な音楽は、その状況を楽しむのを邪魔しに来る理性を放逐するのに役立つ、という理由で。下手に叙情的なものを流していると、意識がそっちへ行ってしまったりして集中出来ない。
「え・・・いや、いいけど・・・でも・・・何で急にそんなもん・・・」
彼女は慌てふためく俺を蔑むような目でちらりと眺め、俺はまた凍結してしまうのだった・・・と思ったのだが、予想に反して、彼女はくすっと微笑んでから・・・それはもう以前の絶対的な力で全てを圧倒するあの微笑みではなくなっていたが・・・少し照れを見せて・・・これも驚くべきことである・・・優しく言った。
「いつまで昔のこと気にしてんだよ・・・これ、結構好きだったんだ。」
「あ・・・ああ、そうなんだ・・・」
俺はまだ相当動揺していたが、それでもその“殺す楽しみ”をCDプレーヤーに入れて再生ボタンを押し、アンプの音量つまみを少し右にひねった。彼女は静かに神妙に聴き始めた。やがて冒頭100秒の荘厳な器楽曲が終わり、続けて激しい二曲目が始まった。
「そうそう、これこれ♪」
彼女は・・・嬉しそうに軽く頭でリズムを取り始めた。彼女とKREATORという組み合わせはミナとMEGADETH以上に「意外な組み合わせ」だったが、彼女もミナと同様その不調和を完全に手なずけていた。いや、事によるとミナ以上に・・・
楽しそうにその音楽に聴き入っている“B”を眺めがら、俺はぼんやりと考えていた。そういえば、ミナは一切性行為とは無縁だった。そして、“B”は無感覚の中でそれを受け流していた。では、ミナだった個体・・・まだ呼び方を考えていない・・・この女のコの、動物的な意味での女の部分・・・正常な欲求というのはどうなってしまっているのだろう?“B”には純粋に肉体的な意味でのそういうものがあったようだったが、精神的な部分は殆ど感じられない。そういう部分は“E”に強く感じられる。“E”は、その年齢からは考えられないほどに女を感じさせるが、他の人格はそういう意味での女らしさはあまり強くはないな・・・その時、俺の頭にふっと何かが浮かんだ。
「あのさ・・・もしかして、“E”って、キミから生まれたのかな?」
「え?なに、突然・・・。」
“暴力の騒乱”に浸っていた彼女は、ちょっと驚いた様子で振り返った。
「いや、今何となくそうかな、と思っただけで根拠はないけど・・・」
「・・・違うとは言えないけど、分からないよ。」
彼女は大して興味もなさそうに、また“暴力の騒乱”に戻ってしまった。仕方なく俺は、もう少しそれについて一人で考えてみることにした。
やがて最後の曲も終わり、満足げな“B”は・・・そういう彼女を見たのもこれまた初めてだったが・・・まだ一人で考えている俺を思考の世界から引きずり出して言った。こら、そこのぼーっとしてるやつ!と。
「さっきの話、あり得るかもよ。“E”とは近いような気もするし。」
「へぇ・・・どんな風に?」
「そんなの分かんないよ。ただ、何となく。」
「ふぅん・・・そういえばさあ、“L”って、“E”に対してなんかちょっと嫉妬みたいなものを感じてるようだけど、キミにはそういう感情はないの?」
「別に・・・」
「他のコはどうなんだろう・・・勿論、ちっちゃいミナ以外の、だけど。」
「さぁ・・・どうかな。自分で訊きなよ。替わるからさ。」
そう言って彼女は去ったが、その消え方にも以前よりちょっと愛想があった。
出てきたのは“D”だった。俺はまず“E”は“B”から生まれたのではないか、という仮説を話してから、“L”が持っている“E”への複雑な感情について彼女に訊いてみた。彼女は、自分にはそういう複雑な感情はあまりないけど、“L”がそれを抱いているのは分かる、と同意した。それから、その仮説については“L”にも直接意見を訊いてみるといいわよ、あのコ、あたしたちには随分嘘をつくけど、タカシには割と正直みたいだし、と言って中へ戻った。そして、“L”が出てきた。
「あのさ、もしかしたらキミにはこういう話は面白くないかも知れないけど、大事なことだからちょっと我慢して付き合って欲しいんだ。」
「・・・いいよ。アタシ、子供じゃないもん。」
「ありがとう。実はさっき・・・」
俺は手短に経緯を話した。彼女は黙って聞いていた。先生に叱られている子供みたいに俯いていた。俺はなんだかまた自分が酷いことをしているように感じてしまった。実際、酷いことをしているのかも知れなかったが、それでも今の場合は仕方がなかった。相手を傷つけずに長いこと一緒にやっていくなんて出来やしない。俺は頑張って話し続けていた。
「タカシ!」
突然顔を上げて話を遮った彼女の瞳は、透明感を増してゆらゆら揺れていた。すうっと、一筋の不安定な線が頬に生まれた。俺は、ただ驚くしかなかった。
「どうした・・・?」
「・・・ごめん・・・な・・・さい・・・ホントは、あたし、“E”のこと知ってるんだ・・・“B”から生まれたんだって・・・」
それだけ言うと、彼女はわぁわぁ泣き出してしまった。
彼女が落ち着くのを待って、俺は言った。
「誰でも、本当に正直になるのは怖いものだと思う。俺も怖い。だから、その怖さに負けてしまう時があるのは、仕方ないことなんだ。それに打ち克つのは、大変なことなんだ。人間は弱いから。・・・でも、いつまでも負けっぱなしってわけにはいかないって分かったら、ひとつ大人に近づいた証拠だよ。人は、そうやって成長していくんだと俺は思う。」
まだ小刻みに震えている彼女は、下を向いたままこくんと頷いた。
「勇気を出して教えてくれて、ありがとう。」
俺は、彼女がそれ以上震えないように強く抱き締めた。震える彼女は、温かかった。彼女もまた確かに生きている一人のちっぽけな人間でしかないんだ、という想いが俺の胸を締め付けた。
それが彼女とのお別れだった。
“D”はそうして悪戯をするようになったわけだが、彼女の悪戯は本家のそれに較べると随分大人しい、被害の少ないものが多いので助かった。しかしその発想の質の高さは“L”のものと同レベルだったので、俺は彼女の悪戯を純粋に楽しむことが出来た。そしてその一方で、“L”の無茶苦茶な悪戯が懐しくもあった。もう彼女には会えないんだな、と思うと無性に悲しくなったりした。でもそれはこの女のコ全体にとっては良い変化なのだ。それに、俺だって、彼女たちが晴れて一緒になったらその一人をちゃんと愛せるようになるだろう。俺は悲しみを追い払うべく、そう考えるようにした。ただ、一人になった彼女が俺のことを愛してくれるかどうかは分からない。もしかしたらそれは虚しい望みなのかも知れない。でも今はまだそれについて考えるべき時ではなかろう。
さて、消える間際の“L”の証言によって、“E”は元のミナから直接ではなく“B”から生まれたのだということが分かったし、ミナ本体は壊れてしまったし、愛すべき“L”が“D”に統合されてしまったこともあるので、俺はもう一度ナスカの地上絵を描いてみることにした。少し状況を整理しよう。
199X+1.5.13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 (age) ┌───────────H ───────────┐ ──**─*──*──────────────────*─★(ミナ) | | | | | └────────────────────*─D | └────────────L ──────────┘ └───────────*────────────────B └────────────────E
★はじけて外層は他の人格に吸収され、三歳の核が異階層に残る?
こんな感じだろうか。
もうひとつ、ちっちゃいミナについても他の人格と同じようにまとめたかったのだが、今の段階では情報が少なすぎてその意味は希薄だ。彼女はミナと名乗り、三歳の幼児である。それだけ。
こうして見ると事態は確実に変化を見せているのだが、“L”が消えてしまったことで、ちっちゃいミナは遠のいた。彼女は“D”と一緒になってしまった“L”にはもう話し掛けてこなかった。それに、もしそうでなかったとしても、一歩「大人」に近づいてしまった“L”にはもう話し掛けるのを止めてしまったかも知れない。俺に出来ることは、ただ気長に彼女の出現を待つことだけだった。
そして、その時が訪れた。それは、俺が朝っぱらから“D”とオセロをして遊んでいた、五月晴れの木曜日だった。“D”が最後の一枚を置き、ぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたと八枚の黒を白に還元して逆転で勝ちを決め、こう言った直後に、二度目に見る2.7秒のあの特殊な表情を通過してちっちゃいミナが現れた。
「タカシ、本気でやってないでしょ・・・」
出てきた彼女がきょろきょろとあたりを見回し、やがて俺の方に顔を向けてにっこりするのを確かめてから、俺はゆっくりと口を開いた。
「・・・やあ・・・ミナちゃん、ひさしぶりだね。」
「うん。ミナね、タカシとあそぼうっておもってきたの♪」
彼女は上機嫌らしかった。それは非常に好ましいことだ。
「そっか。うれしいな。なにしてあそぼうか?」
「あのね、ミナね、おそとにいきたい。」
この身体の三歳児を連れ歩くことを思って俺はくらくらしそうになったが、まだ完全にめげてはいなかった。
「おそとか。きょうはいいてんきだもんね。で、どこにいきたい?」
「ミナね、でずにらんどにいきたい。」
彼女は全く邪気のない満面の笑みを湛え、事も無げにそう言った。俺は、せめてひろいこうえんやかわらにいきたいと言ってくれないものかと淡く儚い期待を抱いていたのだが、やはり現実というのはなかなか思い通りには行かぬものらしい。
「・・・そうか。でずにらんどか。きょうはいいてんきだし、おやすみのひじゃないからすいてるだろうし、きっといっぱいあそべるね。」
「うん♪」
そう言って本当に嬉しそうににっこりする彼女を見て、俺は今自分が打ちのめされたのだということを忘れてしまった。それほどに、彼女の笑顔は素敵だった。
途中の面倒を避けるために、俺達はVWで出掛けた。笹塚から首都高に乗り、東京タワーのすぐ脇とレインボーブリッヂを通って彼女を喜ばせ(しかしそれは最短経路でもある)、一時間ほどででずにらんどに到着した。平日のでずにらんどは、やっぱり空いていた。混んでいたらきっとミナは途中で泣き出してしまい、俺も泣きたくなってしまうだろうが、今日はその心配はなさそうだ。
「わぁ〜、ひろぉい♪」
「うん。ひろいねー。・・・あれ?ミナちゃんは、でずにらんどにきたのは、はじめて?」
「うん、はじめて♪」
そういえば元のミナも、行ったことないよ、だって、女のコ同士で行くようなところじゃないんでしょ?と言っていたのを思い出した。じゃあ今度一緒に行こうか、と俺が言ったら、やあよ、だって、行くと、カップルは別れることになるんでしょ?と言っていた。そんなことを思い出していると、不思議な気分に包まれた。今、俺の隣で心の底からはしゃいでいるミナちゃん・・・但し、みっつ・・・は、やっぱり元のミナとは違う人なのだろうか?そりゃ、動作や発音や声色や語彙や語調は随分違うが、身体は、そして名前も、全く同じなのにな、と。
「まず、なににのろうか?」
「びっく・・・びっくさんだまんてん!」
「えー?ミナちゃん、だいじょうぶかい?びっくさんだまんてんは、びゅーんっていって、こわいやつだよ?」
「だいじょうぶー。ミナ、びゅーん、っていうの、だいすきだもん☆」
彼女の精神は純粋に三歳なのだろうが、身体は、そして顔の造形も大人なのだ。本人が意図しなくてもそこには色気が出てしまうこともある。俺はちょっとどぎまぎした。
「そ・・・そっか。だいじょうぶか。でも、こわくなって、ないたってしらないぞぉ。」
「こわくないもん!あー?ほんとは、タカシがこわいんでしょー?」
「いやあ、おれはこわくないよぉ。こうみえても、せんとうきにのったことだってあるんだから。うしろのせきだけどね。」
俺はこのコに向かって何を話しているんだ?
「せんとうき?せんとうきって、なあに?」
「せんとうきって、びゅーんってとぶ、ちいさいひこうき。すごくはやいんだよ。」
「ふぅん・・・ねぇ、タカシ、ミナも、せんとうきにのりたい!」
「えええ?こまったなぁ。おれは、もう、せんとうきにはのらないことにしたんだよ。」
「どうしてー?・・・あー、わかった!ほんとは、こわいんでしょー?」
「あはは。ばれちゃったかな?そうなんだ、ほんとは、こわいんだ。」
「タカシのこわがりー!ミナ、こわくないもーん。」
「そっかぁ。ミナちゃん、すごいねぇ。」
「うん♪」
何も知らない、何も覚えていない、故に何も恐れない・・・それは、見様によっては、確かに人間にとって最高の幸せなのかも知れない。これほど幸せな笑顔を持てる大人が、この世にどれだけいるというのだろう?俺は、自分の試み・・・と言って言いすぎなら、自分の願い・・・つまり、全人格を統合して一つの人格に戻すことが、本当にミナにとって良いことなのかどうか、自信を失ってしまった。ミナは、このままの方が幸せなのではあるまいか?今残っている“D”と“E”と“B”だって、それぞれ幸せそうに生きているし、この三歳のミナちゃんは、彼女たち以上に幸せに輝いて見える。それを無理矢理元に戻そうとするのは、自然の摂理に逆らうことではないのか?彼女たちを、俺はそうっとしておいてあげるべきではないのか?俺には分からなくなってしまった。自分が本当に彼女に望むことが何なのか。彼女にとっての最善とは何なのか。俺はどう彼女に接していくのが良いものか。
「どうしたの?タカシ・・・おなかいたいの?」
ミナは、三歳になっても他人の心に敏感な部分を失っていなかった。
「ううん、だいじょうぶだよ。」
俺はそう言って笑顔を作った。
「ほんと?よかったぁ♪」
彼女は笑顔を返してくれた。そしてそれを見て、俺は思った。彼女(たち)がたとえどんな状況にあるにせよ、俺は彼女(たち)の笑顔が心から好きなんだな、と。だったら、それを見られるように、見続けられるように努力すればいいさ、と。
「ねぇ、ミナちゃん・・・」
「なあに?」
「・・・そふとくりーむ、たべよっか?」
「うん♪」
「じゃあ、ほら、あそこでうってるからさ、かいにいこう?」
「うん!」
口の周りをべちゃべちゃにして、この世にこれ以上の美味はあり得ないといった風情でそれを食べるミナちゃんと、楽しげにそれを眺めながら自分も口の周りをわざとべちゃべちゃにして食べている俺を、通り過ぎる人達は不審そうに見やった。だが俺は、そういう彼らが・・・そうやって、空虚な優越感と共に「自分は平凡な幸せの中に生きています。」とでも言いたげな彼らが、実際にどれほどの幸せを実感して生きているのか訊いてみたかった。勿論、人の幸せは測れるものではない。だが、俺がその時感じていた幸せは・・・或いはそう呼ばなくてもよい。名前など、取るに足らぬ問題だ・・・とにかくその時俺が感じていたものは、今までに俺の心に生じた様々のもののどれよりも「純粋」だった、というのは間違いのない事実だろう。
その日は一日中、たっぷりと遊んだ。ミナちゃんの遊びに向けるエネルギーはすさまじかった。最近身体をあまり使っていなかった俺は、音を上げそうだった。それでも、帰りの車の中ではミナちゃんは疲れてすっぽりと夢の中に入ってしまったが。このコは今どんな夢を見ているのだろう?夢の中でもまだ様々なアトラクションを楽しんでいるのだろうか?時折横目でその満ち足りた寝顔を見て、俺は、このままでもいいかな、なんて思っていた。
驚いたことに、それから何日も、ちっちゃいミナ以外の人格は全く外に出てこなかった。といって、俺の方から彼女に「ほかのひとにでてきてもらえないかな?」なんて頼むことも出来なかったので・・・だって、毎日、ミナちゃんは楽しそうに幸せそうに俺を引っ張り回して、後はごはんやおふろの時を除いて寝ちゃってたから・・・成り行きに任せておくことにした。というより、他にどうしようもなかったのだが。
そのまま七日が経とうとしていた。でずにらんどに行った日から数えて七日目の晩、ミナちゃんは布団に入り、上半身を起こした姿勢でこう言った。その時俺はそこから1.5m程離れた床にあぐらをかいたまま、ぼんやりと考えごとをしていた。
「あのね、タカシ、きいて。」
「ん?なんだい?」
「ミナ、もうかえる。いっぱい、あそんでくれて、ありがとね。」
ミナちゃんはそう言ってにっこり笑った。俺は驚いて聞き返した。
「え?かえるって、どこに?」
「・・・タカシ、きて。」
ミナちゃんは俺を手招いた。俺は、ベッドに片膝を置いて彼女の方へ身を乗り出した。
「タカシ、あいしてる☆」
どこで覚えたのか、そんなことを言ってミナちゃんは俺に口づけをした。俺の頭を両手でぎゅっと押さえて引き寄せ、乱暴にぎこちなく、そして・・・今までの誰のどれよりも優しく。
「じゃあ、おやすみ・・・」
天使の口づけで石にされてしまった俺をそこに残し、彼女は前に一度だけ見せた消える時の特別な表情を通過して、いなくなってしまった。ミナちゃんの抜けた身体は、そのままぱたりと後ろへ倒れ、眠りについてしまった。その寝顔は、無垢で、神秘的で、繊細で、柔らかく、満ち足りて、無邪気で、艶かしく、不安定で、穏やかで、透明な深みを帯びていた。
俺は、“D”と“E”と“B”にお別れを言いそびれたことを、石にされたまま悟った。
それからミナは一度も目を覚ますことなく66時間以上眠り続けた。俺は66時間一睡もしなかったことはあったが、少なくとも身体的には健康なままの人間がそんなに長い時間眠り続けることが出来るとは知らなかった。このまま死んでしまうのではないかと途中で心配になったが、彼女はその不可思議な寝顔のまま規則正しく呼吸を続けていた。俺はミナが目覚めるまでずっと起きていようと思っていた。でも結局それは無理で、何度かベッドの横でうとうとしながら、彼女の目覚めを待っていた。ときどきトイレに行ったり、水を飲んだりした。
そして、66時間と41分目に、ミナは目を覚ました。
目を開けてむっくり起きあがったミナは、不安げにあたりを見回し、それから自分の方を注視している俺の目に彼女の視線を合わせて、言った。
「あの、ここ、どこですか?それから・・・あなたは、どなたですか?」
彼女は俺に関する記憶を一切失っていたのだった。俺は、それを認めざるを得なくなった時、心も頭も全て空っぽになってしまった。石から、張りぼてになったというわけだ。張りぼての俺は、彼女に・・・本当のことを話すことは出来なかった。どうしてだかは分からない。でも出来なかった。俺は彼女に、もっともらしいでっち上げを吹き込んだ。キミは道で酔っ払ったまま寝込んでたんだよ、俺が通りがかって、こんなとこで寝てると危ないよって言って、ここに運び込んで、そのままそのベッドに寝かせておいただけだ、人道に悖るようなことは一切してないからさ、心配しないで、ははは・・・と。
状況を把握すると、彼女は家に帰ると言った。練馬に両親と三人で暮らしているそうだ。玄関で、別れの挨拶をした。
「じゃあ、ホントにすみませんでした。ご迷惑をお掛けしてしまって・・・」
「いえいえ・・・これからは気を付けた方がいいですよ・・・」
「そうですね。ホントに・・・」
「じゃあ・・・あ、駅までの道は分かりますよね?そこを真っ直ぐ向こうに行けば、ガードが見えますから・・・」
「はい、ありがとうございます。それじゃ・・・」
「それじゃ・・・」
彼女は帰って行った。俺は、そこに立ち尽くしてしばらく彼女の後ろ姿を眺めていた。やがて彼女の姿も見えなくなると、張りぼてのまま部屋に入った。そして、床にぺったり座り込み、思考と感情と時の流れの全てを失った。見慣れた部屋の景色だけがそのままそこに存在し続けた。
どれくらい経ったろうか。俺は夢を見ていた。そこには・・・視界の真ん中で、「統合されて一人になったミナ」がにこやかにこちらを見ていた。正確には、彼女の視線がこちらを向いているように見えた。俺は手を伸ばして彼女に触れようとした。だが俺の手は全く動いてくれなかった。俺は・・・こんなに近くにいるミナに手が届かないことを知って、愕然とした。1mも離れていないのに、俺は彼女に触れることが出来ない。そこで俺は考えた。そうだ、手が動かないなら身体ごとミナの方に動いて行けばいいのだ。そして、足を動かしてミナに近寄ろうとした。だが、足も動かなかった。ちくしょう・・・どうしたらいいんだ?俺は、闇雲に身体を動かそうとした。けれど、身体のどの部分も動かすことが出来なかった。俺は自分の身体を呪った。この役立たず め・・・しかし俺は更に考えた。そうだ、何か喋ればいいのかも知れない。ミナに、自分が動けないことを伝えれば・・・でも、やっぱり、言葉を発することは出来なかった。それどころか、声を出すことも、瞬きをすることも、何一つ出来なかった。そして、やがて、自分が呼吸すらしていないことに気付いた。呼吸をしていない・・・のか。ということは、俺はもう生きてこの世にいるんじゃないんだな・・・そう思った。だから、ここにいるように見えるミナに触れることも、それどころか俺の存在を知らせることも出来ないんだな・・・そういう夢だった。
そして今でも、俺はその夢の中にいる。俺は永遠にこの悪夢から抜け出せない。
(終)