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石山合戦
織田信長VS本願寺顕如
元亀元年(1570)〜天正八年(1580)
 
 元亀元年の姉川の戦いの後、信長が岐阜に戻ると。畿内での勢力回復を狙い三好三人衆が兵を

挙げ浅井・朝倉そして石山本願寺に働きかけた。信長は三好三人衆が浅井・朝倉・本願寺と結ぶ

事を警戒し、河内枚方に出陣し、本願寺の法主顕如に石山本願寺の破却を迫った。さらに、信長

は天王寺に進出し石山本願寺を囲む形で布陣した。事ここに至って、本願寺は信長と全面対決を

決意し、各地の門徒に激を飛ばし信長打倒の戦いに決起するよう要請した。これに応じ、各地で

一向一揆が立ち上がり、浅井・朝倉も三万の兵を率い山科の辺りまで進出した。これに対し信長

は一旦、本願寺の囲みをといて、浅井・朝倉と戦う姿勢をとった。しかし、丁度そのころ長島で

一向一揆勢が蜂起し、信長が京都で動きのとれない間に、尾張小木江城を攻め信長の弟の信興を

討取った。事に窮した信長は朝廷を動かし、一旦本願寺と和睦した。信長は、全面戦争の不利を

悟り、本願寺側の勢力を一つづつ撃破する戦術にでたのである。
 
 
 元亀二年五月、信長は弟の弔い合戦を兼ねて、長島一揆討伐に乗り出した。しかし、この時は

一揆軍の応援にきていた雑賀の鉄砲衆に散々にやられてしまい、討伐できたのは三年後の、天正

二年のことだった。このとき、信長は約二万の一揆勢を焼き殺している。翌三年には越前の一揆

討伐をおこない、この時は三〜四万の一揆勢を殺したといわれている。越前の一向衆が撲滅した

ことにより、石山本願寺は本願寺の領国である、加賀国と遮断されていまい、信長に和議を申し

入れた。しかし本願寺顕如は翌天正四年足利義昭、毛利輝元らと結び再び信長に戦いを挑んだ。

今度は信長も本腰をいれて石山本願寺攻撃にでたが、城さながらの本願寺は難攻不落で、織田軍

は攻めあぐねていた。しかも、籠城で兵糧が尽きかけていた石山本願寺に毛利が水軍をつかって

兵糧を運び込んでいた。織田の九鬼水軍もこれを阻止しようとしたが、毛利水軍に破れ去った。

この水軍戦の敗戦後、信長は日本初の甲鉄船を建造して水軍を強化し、毛利水軍を撃破し、石山

本願寺に寄せつけなくした。こうなると、石山本願寺は孤立してしまい、頼れるのは、雑賀孫市

が率いる雑賀の鉄砲衆だけとなった。その雑賀衆も信長に制圧されてしまい、おまけに加賀国も

織田の宿将柴田勝家に制圧され、顕如は降伏せざるを得なくなった。天正七年十二月二十五日に

朝廷が間に入り信長と顕如は講和に至った。講和といっても、本願寺側の降伏で、顕如は翌天正

八年四月九日に、石山本願寺をでた。顕如の子の教如は徹底交戦を主張し石山本願寺に居座った

が、八月には石山本願寺を出て、信長と本願寺の戦いは終結した。