プラグマティズム

はじめに

このページでは私が最近もっとも興味を持っている思考形式、つまりは”考えるための方法”であるプラグマティズムについて話してみようと思います。プラグマティズムという単語は、大学受験で世界史を選択された方や授業で倫理・哲学などを学ばれた方には馴染み のある言葉でしょう。しかし控えめにっても一般的に普及したものとは思えません。それは我々日本人にとって、このプラグマティズムがアメリカで生まれ、育った思想であることも一つの原因であるように思えます。しかしそれ以上に、普段生活をする上で、我々が哲学とい うものに触れる機会というものはあまり多くはないと思います。私自身もそうですが、自分が何者であるのか、自分の考えや指向性はどのようにして得られたものなのかなどということは、所与の条件(既に与えられているもの)であって、取り立てて考えなければいけない ようなことではないからなのかもしれません。

我々はよく悩みます。人間ですから、これは当たり前のように思われています。些細なことから、その人にとって重大なことまでその内容はさまざまです。よく悩みは人を成長させるといいますね?それは我々は悩むことによって、そこから何らかの解答を得る必要に迫 られるからだと思います。解答はなんらかの行動であったり、反応であったりします。そのときに、どうやって自分にとってベストと思われる行動を取ることができるのか、どうやったら後で後悔しないで済むのかということが必ずといっていいほど頭をかすめるでしょう。むろん 、本当に重大な困難に見舞われている時に、自分にとってベストであるとか、後悔しないだとかいうことは実際些細なことであって、そんな先のことを考える人はいないと思う人もいるでしょう。

しかし、そのようなときでさえ、自分が何について判断を下そうとしているのか、今何を一番優先的に考えなければならないのか、ということが明確にわかっていれば、自分の取るべき行動はおのずからはっきりしてくるのではないでしょうか。プラグマティズムは「観念 を明晰にする方法」です。そこにあるのは、あらゆるシチュエーションのなかで、何が真実なのか?という問いかけに始まる人間の本能ともいうべき好奇心と、主観を持つがゆえに同じ物事を異なった方法でしか考えることのできない人間が、いかに共有することのできる 結論を導くことができるか、という方法論の提唱です。これを一般の生活の中に適用しようとすることは、拡大解釈でもあり、一種の誤解であるかもしれません。しかし、自分が何を考えているのかを、自分の行動から省みて考えようとすることは、プラグマティズムの考え方 に矛盾するものではないと思います。それをふまえた上で、以下の文章を読んでいただければと思います。

この文章は自分が大学時代になんら専攻を持たず、卒論も書いていないことから、何か自分の考えをまとめるものの1つとして書いています。まだ途中であり、いつになったら完成するのか想像もつきません。今のところプラグマティズムの中心的な思想を、なんとか自 分なりにまとめている段階です。今後さらにそこから発展をさせ、最終的には私の信奉する(笑)「個人主義」に何らかの形で応用させることができれば、と考えているしだいです。

なお、作成にあたっては放送大学教材である「プラグマティズムと現代」 魚津郁夫著 を多大に参考にさせていただきました。哲学に関してまったくの素人である私にとっても、この本は理解しやすいものでした。また、文中にある引用文は全てこの本からのものです。 最後に、テキストオンリーで大変読みにくいことをお詫びするとともに、無学ゆえに語句にたいする誤解や誤使用、思想そのものの恣意的な解釈が多数見うけられるかもしれないことをあらかじめお断りいたします。それに対するご指摘をぜひいただきたいと思います。





「プラグマティズムとは何か」

「3つの根本思想」

 プラグマティズムは現代アメリカを代表する哲学である。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、パースによって提唱され、その後 ジェームズ、デューイへと主に継承され、発展してきた。和訳である実践主義・実用主義にあるように、非常に現実に密着した合理的判 断を重んじる思考方法とされている。哲学など、人間の思考そのものやそれについての方法論を説く学問は、ややもすれば抽象的にな りがちである。それは記号としての言語の限界であるとも言えようが、多分にテーマそのものへの切り口があまりに多種多様であり、法 則性や科学的客観性を欠いたものであるためなのも否定できない。この点でプラグマティズムは、事実に至る探求において弊害となる であろう一切の先入観・固定観念を排し、万人が同意できる真実を現実の中に見出すための方法論を展開する。

 プラグマティズムが基礎とするのは、科学に携わるものすべてが共通とする仮説「実在仮説」である。現実の問題を解決するため に繰り返し「探求」を重ねるとき、究極において、実在と言う「外部の力によってひとつの同じ結論に導かれる」という信念がそれである。 一方でこうした仮説は探求の前提であるがゆえに、探求それ自体によって証明することはできない。「実在仮説」はいわば超越的存在 に対する信仰ともいうべきものである。

 このことを背景とした、もう1つのプラグマティズムの基礎にあるのが「可謬主義」である。プラグマティズムの基礎を確立したパース (C.S.Peirce 1839-1914)は「自分を正しいと思いこむ病気ほど、確実にその人の知的成長を止めてしまうものはない。」とその著作の中 で述べている。我々は何にせよ直感的に物事の真実を見極める能力を持ち合わせてはいない。ゆえにどのような探求においても、その 入り口において誤った前提を設定してしまう危険が常に存在する。こうした自分の考えが誤りをおかす可能性があることを自覚すること が「可謬主義」である。

 そして最後にこの「可謬主義」からは当然のごとくに、常に自分と異なる思想的立場を認めるという「多元主義」がうまれる。これは 「たとえどのような観念でも、それを信じることがある種の人々に宗教的な慰めを与えるならば、−その限りにおいて−という限定つきで はあるが、これを真理として認めなければならない。」というジェイムズ(W.James 1842-1910)の著述にも明確に表されている。プラグマ ティズムはこれら「実在仮説」・「可謬主義」・「多元主義」を根底に、人間の「考える」根拠を明確にするために発展してきたといえる。



「プラグマティック・マクシム(Pragmatic-Maxim)」

 プラグマティズムの特徴は、要するに、思考を行動(行為)との関連の元にとらえる点にある。すなわち、どのような思想も、それに 基づいて行動した結果がどうであるか、という観点からとらえられることになる。言いかえれば、我々の抱く思想は、現実の問題を解決 するための道具であり、たとえば科学の用いる概念図式は、過去の経験にてらして未来の経験を予測するための道具に他ならない。し たがってナイフの良し悪しがその切れ味によって決まるように、思想や概念図式の良し悪しは、その道具としての有効性によって評価さ れることになる。パースの言葉によれば、これは以下にあらわされているような方法によって達成することができる。

「自分が何を考えているかを知り、自分が用いている概念の意味を自由に使いこなせるようになるということは、優れた重みのある 思想を形成するためのしっかりとした基礎をつくるだろう。この方法は概念の蓄えが貧弱で、狭い範囲に限られているような人々でさえ 、きわめて容易に習得することができるが、もしそれができれば、概念過剰の泥沼の中で、むやみにもがいているような人に比べて、は るかに幸せとなるだろう。」

 これはパースの論文「観念を明晰にする方法」に述べられているものである。思考・信念を行動・行為の前段階におき、それによ って引き起こされる結果を考えるとき、出発点である思想(そのものに関する概念)をいかに明確に規定されたものにできるかということ は、その思想全体を考えるうえできわめて重要である。ここにいたってパースは1つの守るべき格率(規則)を提唱する。

「私たちの概念の対象が、実際的なかかわりがあると思われるどのような結果をおよぼすと私たちが考えるか、というこ とをかえりみよ。そのとき、こうした結果に関する私たちの概念が、その対象に関する私たちの概念のすべてである。」

 これは、観念は行動の前段階であるからこそ、その観念につながる実験という行動と観察可能なその結果を考えてみることによっ て、その観念を明晰にしようという提案に他ならない。これをプラグマティック・マクシム(Pragmatic-Maxim)と呼 び、この格率こそがプラグマティズムの思想を代表するものだといえる。



「思考と行動」

 我々の思考は行動の前段階であるというプラグマティズムにおける基本姿勢については既に述べた。では思考から行動、そして 検証可能な結果へのいわばプラグマティックな過程とはいったいどのようなものであるのか。パースによれば、思考の働きは疑念(dou bt)という刺激によって生じ、信念(belief)が得られたときに停止する。したがって信念を固めることが思考の唯一の機能である。そして また疑念とは、問いの大小にかかわらず「何らかの問いを発すること」であり、信念とは「問いの解決」である。このような、「疑念が刺激となっ て、信念に達しようとする努力」をパースは探究(inquiry)と名づけた。疑念の内容がいかに些細なものであったとしても、これはあらゆる 深遠な思考や、学問的な探究の原型にほかならない。そしてこのことから想定される我々の行動にもある種の法則が認められる。

 パースはこれをカントの「純粋理性批判」から導いており、その法則とは「実用的(プラグマティッシュ)な法則」「道徳的(モラーリッ シュ)な法則」の2つである。この場合、我々の思考の根底にあるものとは、私たちのすべての自然的欲求を満足させること、つまり幸福 である。前者は「幸福という動機に基づく思慮分別の規則」を意味し、「私たちが幸福を求めるならば、私たちが何をすべきか」 を勧告する。これに対し後者は「幸福であることに値することだけを動機とする法則」であり、「私たちにいかなる態度をとるべ きか」を命令する。この2つの法則の決定的な違いはその成立過程に見い出すことができる。すなわち、プラグマティッシュな法則が経 験的な諸原理を基礎とし、そこから満足を望むという傾向を導くのに対し、モラーリッシュな法則はまず理性的存在を仮定し、そこに到達 すること、つまり満足するための必然的な条件を導く。ゆえにプラグマティッシュな法則は常に仮言的に勧告し、モラーリッシュな法則は 絶対的・定言的に命令することになる。

 パースが考察したのは当然後者である。意思決定の過程にあって、我々のなす選択(信念)は、実証可能な経験によってのみ得 られるものであり、信念がいつかは行動へと向かうとする基本的な立場を取る以上、いわば万人にとって明らかな合理的目的のために 導かれる。しかしカントのいう超越した理性の存在のもとでは、選択は必然的になされることから、信念と行動との間に合理的、つまり実 証可能な目的を見いだすことはできない。こうした信念を行動へと向かわせる「合理的目的」が、信念によって表明される「合理的認識」 とわかちがたく結びついているとする思想は、既に述べたプラグマティック・マクシムにも色濃く反映されている。



「探究の方法」

 さて、疑念から信念に至る努力はパースによって探究と定義されたわけだが、ここにも現実から段階に応じていくつかの型が考え られている。これらは個人的・閉鎖的な方法から、より社会的・開放的な方法へという発展段階を示している。

(1)「固執の方法」(the method of tenacity)

 もっとも原始的な方法がこの固執の方法である。疑念に対する解答として、自分の気にいったものだけをとりあげ、それを絶えず 心の中で繰り返すことによって信念を固定する方法がこれにあたる。この方法では自らと異なった意見は恣意的に排除されることにな るが、完全に排除することはできず、いずれ破綻するとされる。

(2)「権威の方法」(the method of authority)

 次の段階では個人から集団への拡大が考えられる。固執の方法を個人ではなく集団的に行うことによって信念を固定するのが権 威の方法である。国家やそれに類する権力を用いることで、人々を盲目状態に置くことで成立する。こうした方法は神学的・政治的ドグ マを正当化する主要な方法になってきた歴史がある。しかしこの方法においても、人々を完全に外界とその情報から遮断することはで きず、やがて破綻する。

(3)「先天的方法」(the a-priori method)

 権威の方法にかわる新しい方法としてこの先天的方法は考えられる。それは、いかなる命題が信ずるに足るかを決定する方法で あり、観察される事実には依存せず、ただ「理性にかなう」ことを基礎におき、そこから体系的に信念を固定する。この方法は権威の方 法にくらべればはるかに洗練された方法といえる。しかしモラーリッシュな法則の項でも述べたように、「理性にかなう」とは、現実とは関 係なしに単にそれを「信じたい気持ちになる」ということに過ぎず、そこに万人が共有できる普遍性を求めることはできない。

(4)「科学の方法」(the method of science)

 これまでの諸段階では、信念を固定する根拠は人間の思考そのもの、つまり「理性」などのきわめて流動的なもの の中に求められてきた。しかしそこからは万人にとって明晰な思考は見いだせず、思考が抽象的な領域を出ることはない。そこで、信念 を人間的なものではなく、人間の外部にある永延のもの、すなわち人間の思考によって左右されないばかりか、むしろ絶えず影響を与 えるものによって固定する方法が求められた。こうした永遠のものとは「実在物(Reals)」ないし「実在(Reality)」である。それは万人に 同じ作用を及ぼすゆえに、この方法をとるとき、究極において全ての人の概念が同じものへと導かれることが可能となる。そしてこの方 法こそが科学の方法である。


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