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「...質問5:カンボジアへの入国申請」
(旧AML投稿復刻版)Sat,
15 May 1999
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「...質問5:カンボジアへの入国申請」
ひきつづき井川氏への質問。
4)カンボジア入国申請
>4.ヴェトナム・カンボジア間の国境戦争は76年の首脳会談でいったん終息
>しましたが、中国の支援を得たカンボジア側の攻撃により数カ月で再燃、77
>年後半に全面戦争の様相を呈し、12月31日にカンボジア側が断交、78年には
>中国がカンボジア側に立って事実上参戦するに至りました(軍事援助急増、
>軍事顧問団増強、空軍派遣、中越国境への兵力集結と軍事行動など)。私は
>78年9月、ヴェトナムがすでにポル・ポット政権打倒の軍事行動を決意して
>いると推測し、それは必然的に中越戦争をもたらすに違いないと考えて、同
>国に全国統一後初めて取材のための入国を申請しました。しかし、入国が許
>可されたのは、ポル・ポット政権倒壊後の79年l月です。私は同月末にハノ
>イを初めて訪問、唯一の西側無党派記者として中越戦争に立ち会いました
>が、カンボジア取材は容易には許されませんでした。
>
>私は79年5月、ポル・ポット政権の残存軍事組織が最終的にタイへ迫われた
>のちに、日本人記者団(朝日、読売、日本電波ニュース、石川文洋カメラマ
>ン)の一員として、サイゴンからポル・ポット政権倒壊後のカンボジアに人
>り、同国東部とプノンペン周辺を約10日間取材しました。事態は予想通りで
>した。大量殺戮の跡は随所にあり、生き残った人々は例外なく病み衰え、
>ヴェトナムの緊急援助で辛うじて衣食住と医療の保障を得て、これまた例外
>なくポル・ポット時代の「地獄の平和」を口にしていました。しかし、その
>惨状を伝えようとした私のルポ4篇は、すべて写真もろともボツになりまし
>た。([aml
11723])
4−1)本多氏の入国申請
ここなんですが,
井川さんがベトナムへ入国申請する半年前の78年3月に,本多氏はベトナム側から
カンボジア国境を取材,『カンボジアはどうなっているのか』にまとめられたわ
けですが,その際中国にあったカンボジア大使館にカンボジアへの入国申請をし
ています。その手続きにちょっと疑問があります。同書の「はじめに」にこう記
されています。
今春(一九七八年三月)のベトナム取材は、私にとっては七回目に当るけれど
も、これまでとはやや事情が違っていた。すなわち報道写真家・石川支洋氏
(朝日新聞社出版写真部)と私の二人は、ベトナム滞在約一カ月のうち初めの
一〇日間(三月七日まで)は「ベトナムに写真集を贈る運動委員会」代表とし
ての行動だった。......三月八日以後は「代表」としての行動を終り、石川氏と
私はそのままベトナムに残って、こんどはジャーナリストとしての取材活動に
移った。
今回も中国経由でハノイに向かうべく、イラン航空で北京へ着いたのは二月二
二日だった。私たち二人が北京を素通りせずに二拍したのは、ここのカンボジ
ア大使館を通じてカンボジア取材を申請するためである。朝日新聞北京支局
長・田所行彦記者とともに大使館をたずねると、東京で用意してきたカンボジ
ア語の申請書を提出した。同時に石川支洋氏の写真集『ベトナム解放戦争』
(ベトナムに写真集を贈る運動委員会刊)も贈呈したが、これはあとで返され
た。ここの大使には入国査証(ヴィザ)を出すような権限は全くないようだ。
申請書はそのままプノンペンに伝えるとのことであった。いうまでもなく、こ
れから私たちはベトナムを取材すること、できれぱそのあとでカンボジアも取
材したいことを書いておいた。敵国としてのベトナムを取材した記者に現カン
ボジア当局が入国を許すことは、残念ながらまずほとんどありえないであろう
が、本当は取材させる方がカンボジアのためにも良いことになるだろう。ベト
ナムはその点利口だから、ベトナム戦争中でも敵国・アメリカ合州国の記者を
入国させた。今度の場合も、カンボジアを取材したユーゴのテレビ班を、その
直後にベトナムヘ入国させている。また私たちとしても、ジャーナリストとし
てどちらの国をも取材する努力をすべきだし、実際問題としてカンボジアを敵
視する理由はない。白紙の立場からまず事実を見たいと思うばかりである。
しかし,この時点ではもはやカンボジアはベトナムと断交,戦争状態に突入して
いたわけですから,このようにさも「ベトナムより」であることを見せびらかさ
んがばかりの態度を見せられては,これはカンボジア側が入国させるわけがない。
口さがないある友人の意見によれば,
>これって、丸っきりケンカをうっているようなもんじゃないですか、カ
>ンボジアからみて敵国であるベトナムの奮戦ぶりを載せた写真集を贈呈
>したんだから(いかに抗米戦争中の写真とはいえ)。そりゃカンボジア
>大使館もそんなもの受け取らないでしょうよ、うっかり受け取ったりし
>たら責任を問われて後で殺されるかもしれない。またまた邪推すると、
>本多さんはむしろなんとかしてカンボジアに行くのを避けたかったから
>こうやって相手が拒否するように仕向けたのではないでしょうか。
まあ,これは失礼な邪推ですが,そんなふうに言われてしまいかねないほどに
も不自然な入国申請の仕方だと思います。
「入国できた」ユーゴのテレビ班の場合は,「初めにカンボジア,後からベト
ナム」の順で取材して,両国とも取材できたわけですから。
どうなんでしょうか,78年の本多氏の入国申請に当たって,例えば井川さんの
ようなカンボジア情勢に明るく,人脈も豊富な方に事前に根回ししてもらう,
すくなくともその相談をする,ぐらいのことはあってもいいと思うんですが。
そういう事はなかったんでしょうか。
逆に,井川さんの原稿が没にされたとき,本多氏ならば『すずさわ』その他い
ろいろ朝日以外にも出版してくれるルートを持っていると思うのですが,井川
さんの原稿が陽の目を見る事ができるよう協力してくれなかったんでしょうか。
なんとなく78年ごろの本多さんと井川さんは「あたかも別々に極点を目指して
いたアムンゼンとスコットのごとく」ばらばらに動いていたようですが。その
へん,もうすこし社内的な連携はできなかったでしょうか。
4−2)
>しかし、その惨状を伝えようとした私のルポ4篇は、すべて写真もろともボツ
>になりました。
いかがでしょう,今『インパクション』等の雑誌で,これを掲載してくれると
いうお話がありましたら,公開していただけますか?
(私としては「井川復権運動」を強力にプッシュしたいと思っておりますが。)
(続く)
Posted: 月 - 1 3, 2005 at 01:33 åflå„