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「...質問4:イエン・サリ」
(旧AML投稿復刻版)Sat,
15 May 1999
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「...質問4:イエン・サリ」
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12190]に続いて井川一久氏への質問,『カンボジアはどうなっているのか』
関連続きです。
2−4)『カンボジアはどうなっているのか』あとがきの参考文献関連なので
すが,お伺いしにくいのですが,井川さんのお仕事も一つも掲げられていませ
ん。
このときまでに井川さんがお書きになったものでは,例えば,朝日ジャーナル
1977.5.13号の「兵営国家の〃平等化〃実験」や,1977.10.21号の「証言・カ
ンボジア集団化の実態 脱出した元クメール共和国官吏は語る(ル・モンド紙
からの翻訳)」の「解説」などがありました。これらは,井川さん御自身が
>ポル・ポット体制(サハコー体制=コミューン体制)の残虐性を日本で初め
>て本格的に紹介するものだったと記憶しています。([aml
11723])
と述べていらっしゃる通りいずれも非常に重要な論文であり,なぜこれが参考
文献に掲げられていないのか理解に苦しむわけです。
(その一方,同じ朝日ジャーナル記事でも1978.6.2号のヘンリー・カム「カン
ボジア第二の収容所群島」は掲げられていたりする)
この点を特にお伺いするのは,『カンボジアはどうなっているのか』が朝日の
刊行物では〈ない〉がゆえに,かえって不審に思うからです。これが朝日の刊
行物であるならば,朝日内部の「正体不明の勢力」による「圧迫」により,す
でに「井川の名前を出すこと」がタブー化しつつあったのか,などと邪推した
りもするのですが,しかし同書はすずさわ書店の刊行物です。まさか同社まで
「正体不明の勢力」が入り込んでいるとも思えませんので。
これは本多氏が何らかの理由によって井川氏のお仕事をあえて重視なさらなか
った(シカトされた(^_^;?)と考えられます。その辺の事情は何なのでしょうか。
結果的に,井川氏のお仕事を参照されなかったことは,本多氏のスタンスにあ
る甘さを生じさせることになりました。私の見るかぎりそれは伊藤正氏のルポ
に対する評価に現れています。
例えば同ルポでは「いたる所でかんがい工事と新田開発が進んでいた。コンポ
ントム州の川ではダムを建設中だった。三〇〇〇人が動員されていたが,...」
などと紹介され,「単に人海戦術で土を盛って川をせき止めているだけ」の写
真が「次々と感慨用のダムが造られている」などと注を付けて掲載されていま
す(同書242〜243ページ),こんなものはダムと呼べるものではないと思うの
ですが。
しかし,「証言・カンボジア集団化の実態」では旧ロンノル政権の技術者だっ
た難民が次のように語るところがあります。
「これは技術を欠いた事業だ。運河はことごとく責任者たちの気まぐれ
な命令によって、むちゃくちゃなやり方で掘られている。大雨が降ると
破壊され、それを修理するとまた破壊されるといったことがしょっちゅ
うある。しかし労働力に不足はない。農業用の水路やダムも同じ方法で
つくっている。堰堤の傾斜角も、運河の深さなどと同様に、責任者に
よってまちまちだ。土木建設事業も、患者の医療も、まったく同じ経験
的方法で行われている」。
このような記述を読んでいれば,伊藤ルポに対して何らかの違和感を抱いても
いいのではないか。私はそう思います。
3)イエン・サリ来日時の印象について
>①私は78年秋に来日したDK副首相イエン・サリの歓迎会(社会党系の日本カ
>ンプチア友好協会を中心とするカンボジア問題国際会議日本組織委員会主
>催)に出席し、そこで初めて本多氏と個人的に言葉を交した。どちらもイエ
>ン・サリという人物の発言と、彼を誰がいかに歓迎するのかということに興
>味を抱いて出席したのであって、主催者に招かれたわけではない。([aml
11723])
このイエン・サリ来日関連ですが,
3−1)井川さんの意見については,『このインドシナ』17ページにこのよ
うに喝破されています。
「一九七八年にポル・ポト政権のイエン・サリ副首相が来日したとき
持ってきた『ベトナムの侵略』という映画を本多さんも見たでしょう。
あのときポル・ポト軍につかまったベトナム軍の将校が画面に出て、
「われわれはカンボジアを併合するために侵略した」と供述していまし
たね。あれと同じ顔が囚人の写真の中にあった。映画の訊問場面は、あ
の政治犯収容所で撮られたものです。ベトナム人の捕虜たちはみんた青
ざめてやせていたけれども、それもそのはずで、何も食べさせないで拷
問ばかりやっていたんですね。余談ですが、あの映画はポル・ポト政権
の宣伝がいかに欺瞞に満ちたものだったかを、実に雄弁に物語っていま
したね。あれは、私が調べた限りでは中国の機関が撮影し編集したもの
で、現像は日本の横浜で行われた。内容は大半がでたらめです。例えば
カラー映画なのに白黒画面が出てくる。「ベトナム軍が破壊した民家」
とか「戦場に残されたベトナム兵の死体」とかいうナレーションがつい
ています。どうも前に何度も見た場面だなあと思って考えてみたら、こ
ういうのはすべてロン・ノル時代の一九七一年ごろにロン・ノル政権が
「北ベトナム・ベトコンの侵略」を非難するために撮影した映画なんで
すね。当時二年間もカンボジアにいて、たいていの戦場を見た私には、
どこで撮影したのかも一目瞭然です。それをポル・ポト政権下の事実で
あるかのように見せかけるために使っている。この程度のインチキは、
ポル・ポト政権下では日常茶飯事だったと思う。七八年に日本政府を代
表してプノンペンを訪問した佐藤駐北京大使の質問に対して、イエン・
サリ副首相が「フー・ユオン(カンボジア王国民族連合政府の内相)と
フー・ニム(民主カンプチア国政府情報相)は、元気に重要な任務を遂
行している」と答えた。この二人は、七五年と七七年に殺されていまし
た。そういう人間離れした鉄面皮さ、野蛮さのある政権だった」
しかし,朝日ジャーナル1978.6.30号の「ニュースの目・人」でのイエン・
サリ紹介記事は,このような井川さんの印象とはおよそ相いれない,つぎの
ような「礼賛調」でした。
日本に立ち寄ったカンボジア副首相 イエン・サリ
ややはげあがった大きな額。背も高く、肩幅もあって堂々とした体格。
メガネの奥できらめく目が鋭い。
国連軍縮特別総会に出席した帰途、東京に立ち寄り、日本の指導者とイ
ンドシナ半島情勢について意見を交わした。彼は三年前にも、国連出席
の途中立ち寄ったが、あのときは隠密行動で、人目を避けて東京を去っ
た。だが、こんどは違った。成田に着くなり、早速東京・九段会館の歓
迎集会に出席、「日本人民の支援に感謝する」と、愛嬌をふりまいた。
七五年四月、ロン・ノル政権を倒して解放に成功したカンボジアは、そ
の後、思い切った社会主義改造を進めているが、これまで西側に伝えら
れた情報では、国内建設は順調とはいえないようだ。それに加えて、隣
国ベトナムとの国境紛争で内外ともに多難な局面を迎えている。カンボ
ジア支援国を一国でもふやし、国際世論を自国に有利な方向へ持ってい
きたい状況にある。外交担当副首相として、終始笑顔をつくり、記者会
見にも応じるサービスぶりは、カンボジアを取りまく国際環境を熟知し
ているからであろう。
青年時代の八年間、フランスで過ごし、左翼思想の洗礼を受けた。
キュー・サムファン元首は留学中の学生運動の同志。帰国後、高校、大
学の教壇に立ったが、シアヌーク政権の弾圧にあい地下にもぐる。だ
が、ロン・ノル政権誕生で内戦が激化すると、カンプチア民族統一戦線
特使として北京へ渡り、そこで亡命のシアヌーク殿下と行動をともにす
る運命に遭遇した。「殿下が元首の地位をおりたのは御自身の意思によ
る」殿下の近況についての記者団の質問に、落ち着いた口調で答える姿
には、試練を耐え抜いた革命家の自信がのぞいていた。
この記事は無署名記事なのですが,まああえて誰が書いたとまでは聞きませ
ん。ともあれ当時の朝日ジャーナル編集部には,この種のクメール・ルージュ
礼賛調の(つまり「招かれて記事を書いた」)記者がいたということでしょう
か。
3−2)このとき「初めて本多氏と個人的に言葉を交した」とのことですが,
本多氏はイエン・サリについて,またカンボジア情勢についてどのような印象
を語ったでしょうか。
(続く)
Posted: 月 - 1 3, 2005 at 01:31 åflå„