「小澤正直」と「窪田啓司」
アベル板より:
「小澤正直」と「窪田啓司」

では、どうすればそのような普遍的な原理が見出されるのだろうか?一〇年間の思索の後に、そのような原理は既に一六歳のときに遭遇していた次のような[光速度の]パラドクスからもたらされた。もし私が速度C(真空中の光速度)で走りながら光線を追いかけているとすると、光線は空間的な振動を示す静止した電磁場と見えることになろう。しかし、経験に照らしても、マクスウェル方程式からみても、そのようなものがあるとは思えない。そのような観測者の立場からみても、すべては地面に対して静止している観測者にとってと同じ法則に則って生じることは、最初から直観的に明らかだと思われた。なぜなら、前者の観測者は、いったいどうして自分が高速の運動状態にあることを知ったり決定したりできるというのだろうか?
私が鏡を持って一定速度でまっすぐに進む列車に乗って旅をしているものとしよう。遠方で二つの落雷があり、一方は列車の先端に、他方は列車の後端に落ち、私の二重鎮はそれらの中央に位置する。乗客である私は、列車を私の座標系として用い、二つの出来事を列車に関連づける。雷が落ちたその瞬間に、同じような二重鏡を持った人がレールのそばの地面にも立っているものとしよう。しかも、その瞬間に彼の位置は私の位置と合致するものとする。彼が観測すると事柄と私が観測すると事柄はどのようになるだろう。レールから見て二つの落雷が同時だというときには、レールのそばの人が持つ鏡にそこから等距離にある光源からの光が同時に達することを意味している。しかし、たとえ私の運動している鏡の位置が、落雷の瞬間に彼の鏡の位置と合致していても、私の鏡には二つの光は同時には達しないだろう。なぜなら、光が鏡に到達するまでの間に、私は先端の光源の方向に向かって進み、後端のところの光源からは遠ざかってゆくからである。したがって列車を座標系として用いている私は、先端からの光を後端からの光よりも先に受け止めるので、先端での落雷のほうが先に発生したと判断するだろう。こうして次のような重要な結論に達する。「レールから見て同時である[複数の]出来事は、列車から見ると同時ではなく、その逆も成り立つ(同時性の相対性)。したがって、個々の座標系にはそれぞれ固有の時間があるのであって、時刻というものは、それが則っている座標系が指定されなければ、意味をもたないのである」。
Posted: 火 - 1 4, 2005 at 11:24 åflå„