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EMLパーソナリティ・阿部桂子さんとの日々


このページは、西村さんの2000年のNHK大阪放送局着任以降、2002年の春までイブニングミュージックラインを共に作ってこられたもう一人のDJ・阿部桂子さんについての内容です。

日付の順に、まず西村さんのお言葉による阿部さんとの日々...

2002/03/25

はい、えー私はー...阿部桂ちゃんと丸、2年です。私がーイブニングミュージックラインを担当するタイミングと、阿部ちゃんが...あの...お仕事をするタイミングがまったく同じで、ほんとにーこの2年間...2人3脚でー仕事をしてきましたー。FMだけでなくて天気予報も一緒でしたしー、他にー泊まりでする仕事もあってそれもー...一緒でした。ただーいつも日がー違って...時に表となって...時にー裏となって仕事をするという間柄でした。こうなんて言うんでしょう...うーん...(間)...パートナー...ですねほんとに支え合ってきた...私にとってベストパートナー...でした。よくあのー...女性同士で仕事...同じ仕事をしてると...大変でしょ?なんて言う方も、いらっしゃるんですけどー...私は阿部ちゃんとお仕事が出来て...あのー...同じ仕事をしてるからこう抱えるー大変さとか...だから分かる大きな喜びとかも...阿部ちゃんと分かち合えてきてほんとにー...よかったなと、思ってます。いつもはこのスタジオの外で、阿部桂ちゃんがこう私の仕事を見守ってくれてるんですが(^^)今日は他の仕事をしていてちょっと今席を外して...いるのでまあ、このタイミングでしか仲々いえないんですが私は...阿部ちゃんと仕事ができてよかったなーと、思ってます。あのー...普段の阿部ちゃんもですね、ラジオでみなさんが...御存知の通りの、やさしい...ほんとにー...やさしい...女性です。阿部ちゃんの放送あと...水・木の2日間だけ、となってしまうのでねっ、私もこう心して...聴こう、なんて、思って...いますっ!その日はこう、リスナーに...徹して、聴こうかななんて、思ってますっ

続いて阿部さんによる、西村さんとの思い出。

2002/03/29

リスナーさんに支えていただいたのはもちろんの事、私はパートナーの西村育ちゃんにもずいぶんと、支えてもらったなーってほんとに、感謝しています。何度かねー、話したと思うんですが、この!FMのスタジオは、話をするしゃべる、だけのスタジオではない!スタジオになっていてですね、CDをかけたりですとかレコードをかけたり6ミリをかけたりといった技術的な操作も必要なスタジオなんですね。もう思い起こせば夏の暑〜い日にですね、お腹が痛くなって(苦笑)しゃべるのもそこそこに、CDをかけ間違えた事も(苦笑)あったなーなんて、えー思い出すんですが、なので、もうほんとにー番組を担当し始めた頃は、そんな喋りながら、技術的な操作なんかできない!なんても〜、育ちゃんに甘えてしまいましてですね、当時は旧会館にいたんですが、その時は今よりもっともっと狭〜いスタジオに、育ちゃんもこう一緒に!実は入ってもらっていたんですね(笑)であのCDの機械と6ミリの機械の狭ーいスペースに、育ちゃんに入ってもらって、もうー...ね、(体が)大きな人だったら入れないようなスペースに入ってもらって、貝のように黙ってもらって(苦笑)あたかも居ないような振りをして、CDの操作をして、もらっていました(笑)えーそれから色んなハプニングもあったんですがほんとに何かあるとこう、育ちゃんが、こう今日もスタジオの外にいてくれるんですがこうダーッ!と、走って!いろんな事にこう、すぐに、対処してもらって、ほんとに、あの支えてもらったなーと、いま思っています。えーこれからもね、あの、楽しく、オンエア、育ちゃん、させていただけたらなって、思いますので、みなさん、これからもこの番組、大いに盛り上げていただきたいと思います。



そしてリスナーさんで、阿部さんの印象的なエピソードを書いて下さった方の文章を御紹介。こちらには、阿部さんが最後の放送で’大切にとっておきます”と言っておられた一文で、本来的にはメールマガジンに圧縮して掲載させていただいたものでした。

 私はリクエストというものにある種のトラウマを持っていた。はるか20数年も昔、受験生だった頃は(中略)リクエスト族だった。そのころの苦い記憶なのだが、受験勉強のさなか、映画『イルカの日』を見た。その映画音楽の哀愁のメロディの感動がさめやらず、リクエストを送った。そのはがきに、同じ受験生である同級生の女の子に励ましのメッセージを添えた。もちろんラジオネームなどを使う習慣は無かったから、ある日、実名でそれはとり上げられた。それに対して、約一週間後、返事は、『実名を出さないで欲しい』と、その番組と私への抗議のメッセージとして同じ放送の中で読み上げられた。そのメッセージ自体を聞いたときにもショックを受けたが、次の日から学校で"公共電波で告白をしてふられた男"と噂されたときは、やりきれないものがあった。それ以来、私と公共電波とのつき合いは、一方向だけのものとなった。(中略) EMLにリクエストしてみよう。そう考えたのは、いくつかのきっかけがあった。(中略)それまで、リクエストと言えばはがき。これが定石であり、永遠のDJとリスナーの橋渡し。メールでリクエストなど、邪道なのだろう。そう思っていたが、世は既にIT時代を迎え、EMLもFAX、メール、フォームメールでのリクエストに対応していた。一歩を踏み出すことができたのは(中略)いただいたメールだった。『リクエスト曲が無くっても、メッセージだけでいいんですよ。番組を盛り上げましょう!』 なるほど、なにもリクエスト曲にこだわることはないんだ・・・。そう思うと、なんか急に肩の力が抜けてしまい、板に投稿するようにEMLへフォームメールを書き始めていた。おりしもその日は、映画音楽の特集の水曜日。20数年前のあの日『イルカの日』を収録したテープは捨ててしまった。それ以来、聴いたことがない。でも、できることならもう一度リクエストで聴きたいとそのとき、正直に思った。
 しかしながら、20数年ぶりのリクエストがそう簡単に取り上げられるはずはない。わくわくしながら聴いたその日のEMLでは、私のメッセージが読まれることはなかった。番組の最後にとどめの一発。『ただいま、EMLホームページのフォームメールは機能しておりません・・・』ありゃぁ、やられた・・・。それを伝えた阿部さんには、なんの罪もないのだが、20数年前の悪夢とが重なって、一気に不満がでてしまった。フォームメールで送った内容を添付して番組への抗議文を電子メールで書き送った。今から思えば、それはやってはならないはずだったのだが。  しかして、次の日、阿部さんはそのメールを採用した。抗議の部分をさらりと流し、本来の20数年ぶりのメッセージを読んでくださった。そればかりか、映画音楽へのリクエストは、次の水曜日に取り上げることを約束して。ああこれが、プロのDJ、配慮あるDJというものなのだろう。20数年前に私への抗議のはがきを取り上げてくれたのが阿部さんだったら、私のエアチェック人生は、きっとリクエスト人生だっただろうに。それから次の水曜日まで、反省とそわそわの毎日が続いた。こんなことは何十年ぶりだったろうか。とりわけ、リクエスト曲がレアものだっただけに、はたして本当にかけてもらえるんだろうかという半信半疑もあったからである。しかし、約束は果たされた。おそらく、阿部さんはNHKのレコードライブラリのかなり奥まで探して下さったのだろう。レコードジャケットのライナーノーツまで読んでくれるほどの力の入り様。そして、あの哀愁のメロディ『イルカの日』がラジオから流れた。それは、私が長くこだわっていたトラウマの消えた日でもあった。
 それからというもの、私は阿部DJファンの一人となったのです。

お二人の初登場の日の模様