■M線Y駅七時三十三分(1982年)
−−『彼女』−−
◆1
高校一年の冬、昭和五十三年の冬のことでした。私はいつものように、学生コートのポケットに手をつっ込んで、M駅のM線のホームに立っていました。あの独特の緑色の三両編成の電車は、まだコンコースに進入して来てはいませんでした。
そんな時、私はふと“何か”を感じて、後を振り返りました。そこに、『彼女』が立っていたのです。
この時点では、私は『彼女』のことをほとんど気にかけず、そのまま忘れてしまったようでした。
『彼女』は、色が白く、寒さのためか、若干頬を赤らめていました。あとは、典型的な私立女子校生の服装でした。
さて、当然のことながら、新年をむかえました。昭和五十四年の一月です。八日ごろから学校が始まったわけですが、やはりこのころは朝がつらく、トロトロと通学しておりました。
某日、例によって私が朝のM線、M駅の二番線ホームに降り立った時、右前方を歩いている女子校生のカバンに付いている、直径5cmほどの円形のバッチが目にとまりました。
バッチそのものが私の注意を引いたわけではありませんでした。「このバッチ、どこかで見た。どこだ。この女、誰だ。」 私は、持ち主を確かめる義務のようなものを感じて、連絡通路の雑踏の中から適当な間隔をとって、“尾行”を開始したのです。
環状線のホームに出ると、多少は人もまばらになって、観察が容易になりました。私の注意はあいかわらずバッチおよびその周辺、つまり、カバンに集中していました。後姿を観察していながら、私がふくらはぎに注目しなかったのは、驚くべきことでした。
バッチはどうやら私の少ない知識によりますと、デビッド・ボウイという人物の顔のようでした。−−環状線の外回り電車がホームに入って来ます。−−階段付近で電車の中に入りました。カバンの観察が続きます。学生カバンの方は、しっかりつぶしてありました。重ねて持っているベージュがかったスポーツバッグに、ローマ字で校名が入っていました。ここでやっと、私はドアにもたれる『彼女』の顔に、観察の目を移したのでした。
《あっ。》
私は、すぐに前年の暮の“あの”情景を思い出しました。しかし、あまり凝視するのも問題がありそうなので、乗り越したい衝動をおさえて、G駅で降りました。
−−−これが二度目の『彼女』との出会いでした。
三度目の出合いは、ほどなく訪れました。二月ごろだったでしょうか。朝の気分が快調だったので、Y駅七時三十三分のM線に乗ったのです。−−高校に入学した当初は七時二十分前後の電車に乗っていたのですが、教師があまり早く来ないことを知ると、七時四十〜五十分の電車に乗って、ギリギリあるいは三ないし五分遅刻して行くのが常になっていました。三十三分の電車は、ひとつか二つ前の駅が始発らしく、けっこう空いているのです。−−S駅を過ぎてN駅、−−そう、N駅に来たときです。ホームに『彼女』が立っているではありませんか。乗って来る、乗って来る…。今、『彼女』は、私の隣で、つり革につかまっています。
細い髪の毛、短い、ほんの二、三目編んだだけの三つ編み。その二つの髪の束が、前に行くでもなく、後でもなく。白い襟巻き、かすかに銀の混じった。
M駅の連絡改札で一度は見失ったものの、環状線のホームでは、『彼女』が私の右斜め後方を歩いているのを、気配で感じとっていました。私は、二つの階段の下で立ち止まりました。『彼女』は、ドアひとつ分ほど離れて立ち止まっています。電車が来て、私は、二つのドアの中間ぐらいのつり革につかまります。『彼女』といえば、例によって、ドアのところにもたれています。
今度は、顔も良く見えます。私は『彼女』の顔、姿を記憶の中に焼き付けるため、つぶさにまた観察を始めたのです。通った鼻筋、高からず低からず。瞳、やや冷たい雰囲気を漂わせた、少しきつそうな印象を与えている。眉、「蛾眉」とは、こういうのを言うのだろうか。唇、形は整っているが、あまり血色が良いとは言えない。全体として、かなりやせている。首、細く、指などは、筋ばっているとさえ言える。浅丘ルリ子のような手をしている…。
−−−このようにして、私の七時三十三分の電車に乗る生活が始まったのです。
◆2
「今日、電車の中で“発見”したぜ。」
「ふうん、可愛い子? それとも美人型。」
「うーん。どっちだろう。“素敵”っていう感じだけど、わかるかな。」
「イメージ的には、何となくわかるな。」
以来、私には、寝坊による遅刻ということが、ほとんどなくなりました。
冬めいた日は、まだまだ続いていました。
三月初旬のある日、電車がN駅にさしかかった時、『彼女』の姿が見えませんでした。しかし、電車が止まろうとするとき、『彼女』が小走りに現れました。寝過ごしでもしたのでしょうか、急いで来たらしく、頬を紅潮させ、髪が少々乱れていました。肩で息をする様子が、別の新しい印象を与えていました。
四月には、私は二年生になったので、クラス替えなどもあって、ゴタゴタしていました。陽射しも暖かになったので、電車の乗客もコートを脱ぎ始めていたようです。
さて、この頃から『彼女』の学年ないし年齢というものが、気にかかってきました。年下ということはありえないので、同じか、ひとつ上ということになります。カバンの痛み具合など、つぶさに観察してみたのですが、結論は出ませんでした。雰囲気的には十分に年上という感じがしたのですが、自分が多分に子供っぽい少年だったので、良くわからなかったのです。しかし、年なんてどうでもいい、などとも思っていました。
朝はいつもの電車に乗れば、たいがいは会えたのですが、帰りにも会えないかと考えているうちに、土曜日、ちょっと本屋に寄ってから帰ると、ちょうどM駅で出会うことを発見しました。そういうわけで、土曜日の午後に遊び歩くということも、ほとんどなくなりました。もう、コートの季節はとうに終わっていたので、『彼女』も、ただの制服姿になっていました。平凡なセーラー服です。靴下が、黒のストッキングから、白いフレッドペリーか何かに変っていました。
五月のある土曜日、多少腹を空かして、私はM駅に止まっている電車の中で、つり革につかまっていました。斜め前には、『彼女』が座っています。いつもの二つに分けた短めの三つ編み、他の髪型が見たいなあ、あれをほどくと、どうなるのかな、などと思っていると、にわかに『彼女』の手が髪の毛にかかって、三つ編みをとめている黒いゴムをはずし始めるのです。片方ずつ。私は、息をこらして見つめていました。ちょっと首を振って、またいつもの無表情ともいえる顔つきに戻ります。後に、『彼女』のいくつかの髪型を見ることになったのですが、この全くほどいてしまった髪型には、私はかなり圧倒されるので、あまり好きにはなれませんでした。どちらかというと、秋口によくしていた、後でひとつに束ねているのが、とても清楚な感じがして、私には気に入っていました。しかし、たいていは2つに分けた、短めの三つ編みでした。
「何処かに、いいコいないかなあ」
「何よ、それじゃあ、この学校に可愛い子がいないみたいじゃない。」
「あ…。オレ、電車で見つけたんだけど…。」
「へえ、どういう感じ?」
「うーん、オレより少し背が高いみたいなんだけど…。」
「じゃあ、オレの方がつり合うな。今度、環状線、逆回りで行くから教えろよ。」
「やだよう。」
「ほ〜、そうかい。」
「がんばんなさいよ。手紙でも渡せば。」
十七の夏という言葉が、何かを私に期待させていました。絵心でもあれば、モームの「人間の絆」のように、『彼女』のスケッチか何かを手渡したりできるのに、などと考える初夏のころでした。例によって、土曜日、私がつり革につかまって立っていて、『彼女』が斜め前に座っています。M駅に停車中のM線の中でのことです。私の後には、中年の婦人が二人立っていて、話をしています。最近の若い人は老人に席を譲らないということについて、一般論として話していたのですが、その前に座っていた学生が、どうにも居づらくなったらしく、立ち上がります。
「どうぞ。」
「あっ、別にそんな意味で言ったんじゃないのよ。」
「いえ、いいんです。どうぞ。」
「そう、悪いわね。」
二人の婦人の口調には、別に嫌味なところはなく、席を立った学生も、どことなく人が良さそうで、そのひょうきんとも言える態度に、車内は軽い笑いが広がっていました。この瞬間、私はすかさず『彼女』の方に目をやりました。いつも、冷たく、引きしまった、無表情とも言える『彼女』が、微笑んでいるのです。それも、ほんの少し口もとが変化しているだけなのですが、確かに目が笑っていました。『彼女』は、誰か友達と登校することもないようで、表情の変化を見たのは、この時一度だけでした。
衣替えの季節になると、女学生の制服が変っていくのは、見ていて実に興味深いものでした。昨日まで紺色だった車内に、にわかに白が増えて、まぶしかったりするのです。私は『彼女」の学校はどんな夏服なのかと、とても楽しみにしていました。期待に反することなく、『彼女』の夏服姿は、非常に素敵なものでした。グレーと白の襟もとが、すっきりしたセーラー服は、私にとって、まさに鑑賞に値するものでした。
文化祭で映画を作ることになったので、夏休みの前後、かなり帰りの遅くなる日が多くなりました。学校の近くの地下にある喫茶店が、主要なスタッフの打ち合せ場所になっていたのですが、ここのスパゲッティは、かなりひどい代物で、閉口していました。
いつもの店で打ち合せをしていると、『彼女』が入って来ます。私はドアに背を向けていて、気付きません。前に座っている友人が、気付いて言います。
「おっ、この店には珍しい美形だね。声かけちゃおうかな。」
その言葉に私は振り向いて、『彼女』の存在に気が付きます。
「じゃ、オレが声かけてくるね。」
あっけにとられているみんなを後目に、私はアイスティーを持って席を立ちます。
「どうした?」
「別に、ちょっと来てみただけ。」
ここで、みんながざわめき始める。
この空想パターンには、この段階に至るまでの過程がないわけで、片手落ちとも言えるのですが、積極的アプローチを考えるのはどうも苦手で、何か偶然に、むこうから来てくれないか、などと思っていました。結局、自分で何かして、傷付くのが怖かったのです。初夏の城趾公園はとても気持がいいので、お堀でボートに乗るとか、芝生に寝転がるとかいう場面を想像して、ひとりで楽しんでいました。つまりは、そういうことに憧れていただけで、登場人物として『彼女』が最適の対象であったというだけのことだったのかも知れません。実際、私は毎朝『彼女』を見られること、そして他愛のない空想をするだけで、結構満足していて、今日は会えたの会えなかったのと騒いでいました。何か行動に移そうなどというつもりは、全くありませんでした。
いつの間にか、季節は秋になっていました。私の好きだった夏服は、もう終っていました。もし、『彼女』が年上だったら、おそらく今年いっぱいで会えなくなる、そんな思いが私を刺激していました。
『彼女』はある日、テストが近いのか、カバンから英文法の本(New Guide)を取り出して、読み始めました。私は、何気なく靴下を直すようなふりをして、しゃがみました。教科書には、名前が書いてある、と思ったからです。
C.Y×××××××
「C」で始まるのは「チ」だけなので、「チ」で始まる名前をあれこれ考えてみたのですが、そうも『彼女』のイメージに合うものが思い浮かびません。そのうち、友達の教科書ではないかなどと、とりとめのないことを考えたりしていました。
昭和五十四年も、終りが近付いていました。『彼女』を見い出してから、ほぼ一年が過ぎようとしていました。私の斜め前では、『彼女』が「科学II」の教科書を開いています。ここで私は、『彼女』はひとつ年上であるという結論を下すことにしました。その結論は正しかったらしく、新年になると間もなく、『彼女』の姿はほとんど見ることができなくなりました。おそらく、エスカレーター式に、上の短大にでも行くのでしょう。しかし、うまく時間帯を発見できれば、また会えると楽観していました。ところが、その後『彼女』に会ったのは、一度だけでした。
二月、なぜか昼ごろ、私は学校に行くため、M駅で環状線の電車を待っていました。目の前をひとりの女性が通り過ぎて行きます。私は、頭の中が空白になったように感じました。はじめは、それが『彼女』であることに、気が付きませんでした。電車に乗ってからも、「あれは『彼女』だろうか」、「いや違う」などと自問自答していたのですが、それは確かに『彼女』だったのです。しかし、それは私が知っている『彼女』ではなく、遠いものに変っていました。ウェーブのかかった髪、まるで初めてしたというような“化粧”。私は混乱したまま、G駅で電車を降りました。
五月の中ごろ、体育祭のマスコット作りのために、かなり遅くまで、数人で学校に残っていました。私はマスコット係でもないのに、いろいろと手出しをしていました。一年の女子生徒が、何か連絡をするために、工芸室に入って来ました。
「いまのコ、いいと思わない?」
「オレより背が高そうだよ。」
「でも、あこがれの人も、あなたより背が高いんでしょ。」
「ああ、あれ、終ったんだ。」
「そう、終ったの…。」
折中 良樹