フィールズ・オブ・ゴールド  ローラ・ブライ


original article by Laura Bligh
translated by permission of the author


西の風が大麦畑を渡る頃
あなたは私のことを思い出すでしょう
私たちが黄金色の畑を歩く時
あなたは嫉妬の空の太陽に気がつくでしょう



ファンは、はじめてイーヴァ・キャシディーの歌声を聞いた時のことを他の人に教えたがる。たとえば、「車でラジオを聴いていた時だったんだ、涙が出てきてしまって車をわきへ寄せて止めなきゃならなかったよ。」といった具合に。こんな風にファンを感動させた歌は大抵の場合、「フィールズ・オブ・ゴールド」である。スティングのオリジナルのレコードでよく知られているが、イーヴァの歌声とアレンジは、魂をゆさぶる新しい生命をこの曲に吹き込んだ。「フィールズ・オブ・ゴールド」はイーヴァが吹き込んだ曲の中で、ラジオでさかんに流された最初の曲となった。レコード会社はラジオ放送局へピカピカの金色のCDを送ったが、その時一緒に配られた広告用の資料には「はじめてイーヴァ・キャシディーを聴いたときを忘れないだろう!」 と書いてあった。

しかし、大多数の人がイーヴァ・キャシディーを最初に聴くことになるのは、すでにこの歌手が死んで数年経ってからになる。ワシントンポストのエリック・ブレイスが後に述べているが、彼女の生まれたワシントンDCでさえ、イーヴァは「悲惨なくらい不当に」注目されていなかった。イーヴァ・キャシディー・バンドは週のなかばの平日に半分空のバーやクラブで演奏するということが日常となっていた。また、イーヴァが時々ソロで契約を取ってくることもあったが、みんなが演奏を聴きに来るようなクラブといったものではなく、ガヤガヤしているレストランの店先というようなことが多かった。LIVE AT BLUES ALLEYはこのような状況を打ち破ることになると期待されていた。何度もレコード会社と契約しようとして失敗したあとで、ライブレコードを制作するために、イーヴァは、自分のわずかな蓄えや、クレジットカードで現金を借りたり、おばから1000ドルの寄付してもらったりして資金をかき集めた。こうしてでき上がった自主制作アルバムの真ん中くらいに収められいた曲のひとつが「フィールズ・オブ・ゴールド」だった。

クリス・ビオンドは、イーヴァがスティングのソロ・アルバム「Ten Summoner's Tales」のカセットテープでこの歌を最初に聞いたことを思い出す。「車に乗っていた時、彼女がその曲をかけたんだ。それから車に乗るたびにそれをかけるということが3、4日あったね。」 イーヴァは、「フィールズ・オブ・ゴールド」のアレンジを自分のギターで作り上げ、キース・グライムズ(イーヴァ・キャシディー・バンドのリード・ギタリスト)に聴かせた。 グライムズはその時のことを思い出す。「私たちは、それまでに自分たちのバンドでやったことのないような曲でデュオでできるものはないかと探している時だった。イーヴァは私の家へやって来て、台所のテーブルのわきで椅子に座って、その曲を一通り歌ってくれたんだ。イーヴァが歌い終わった時には、涙がこぼれ落ちてしまったよ。」笑いながらグライムズは続る。「こんなふうに反応したのはボクだけじゃないと思うけど。私はスティングのレコードも聴いてる。でも、彼女が歌や演奏で訴えてくるものを聴くと、まさに圧倒されちゃったね。イーヴァは私のところまでやって来て、慰めるようにボクの腕に手を置いてくれた。私は「すごく感動したよ。」とかいって、鼻をかんだりしたけど、イーヴァはちょっと笑っただけだった。すごく充実した瞬間だったね。」

イーヴァとキース・グライムズは、「フィールズ・オブ・ゴールド」をデュオで演奏し始めた。グライムズによると、それは、もっとましなバンドの契約をとるための、たった二本のギターでやって見せるショーケースだった。キースはさらに、「イーヴァのアコースティック・ギターは彼女の素晴らしい声を支え、織りあった。私はエレキギターでソロをやったり、バックのパートを加えて、もっとしっかりとしたり、微妙なニュアンスを出せるように考えた。『ボーカルのパートをメインにうまく組み立てること』というのが私たちが暗黙のうちに掲げていたモットーだった。」と話している。

キース・グライムズは常にイーヴァのアコースティック・ギターのアレンジは彼女のボーカルにとって最高の伴奏となっていたと考えている。「フィールズ・オブ・ゴールド」のアレンジは実に見事にバランスがとれていたので、その歌の構成のすべてができ上がっていた、と彼は考えている。「イーヴァがアコースティック・ギターで何かやる時、彼女のアレンジの発想で実に歌の約95%ができ上がっていた。手際よくすっきりと作り上げられた時でさえも、すごく考えられたアレンジなんだ。私は彼女のこの能力にはいつも驚かされてあきれていた。彼女のギターのテクニックは限界がない訳ではなかったが、そのギターの伴奏は実に良くできているので、ギターのテクニックの限界を意識するようなことにはならなかったね。」

マイク・ダブの提案で、イーヴァは「フィールズ・オブ・ゴールド」を1996年の1月のブルース・アレイでレコーディングした歌の1つに選んだ。 彼女はショーの前半にその歌を歌ったので、二晩のライブの後半をビデオに記録していた友人のブライアン・マッカレイのビデオには収録されなかった。技術的なトラブルでブルーズ・アレイのレコーディングの最初の晩の分が使えなくなったこと、イーヴァは風邪を引いていたので声の調子が十分でなかったことは「イーヴァの伝説」の中でも有名な部分である。にもかかわらず「ライブ・アット・ブルーズ・アレイ」が1996年の5月にリリースされると地元では好評をもってむかえられた。

5月20日のブルース・アレイのCD発売記念パーティーで、イーヴァはこの歌を簡単に「次の歌もCDに収められた一曲です。スティングの曲です。シュティングの曲です。」とドイツ訛りを交えて紹介した。これは、この曲を気に入っていたドイツ生まれの彼女の母親が当日会場に来ていたので、多分母親を笑わせようとして言ったのだろう。

それから6か月も経たないうちに、もっとも恐ろしい皮膚癌の黒色腫で命を奪われて、イーヴァ・キャシディーは死んでしまった。世界中にイーヴァ・キャシディーの歌を聴かせなければならないと確信していた、何人かのエネルギッシュで断固とした意志を持った人たちがいなかったなら、話はそれで終わっていただろう。

そういう人たちの中でも中心的だったのは、グレース・グリフィス、クリス・ビオンド、ビル・ストロー、マーティン・ジェニングス、トニー・ブランウェル、ポール・ウォルターズらがいて、さらにたくさんの人たちの協力が有った。

1997年に、スタジオ録音の遺作「イーヴァ・バイ・ハート」が「ライブ・アット・ブルーズ・アレイ」に引き続き地域限定でリリースされた。 1998年、ブリックス・ストリート・レコードという名前の小さなカリフォルニア・レコード会社が、イーヴァのそれまでの全3枚のCDから編集して「ソングバード」というアルバムを制作した。イギリスとオーストラリアに販売網を持つ同じような小さなレコード会社のホット・レコードと提携してブリックス・ストリート・レコードは「ソングバード」を国際的にリリースすることにした。「フィールズ・オブ・ゴールド」は新しいアルバムの最初の曲に選ばれ、主にラジオ放送局をターゲットとした宣伝活動の目玉となった。ブリックス・ストリート・レコードの代表のビル・ストローは「『虹の彼方に』と一緒に『フィールズ・オブ・ゴールド』を選んだんだけど、この二曲はリスナーから一番反応が多かったからなんだ。そんなわけで、この二曲が『ソングバード』の始めの曲と終わりの曲になっているんだ。」と語っている。

BBCラジオ2のマイク・ハーディングは、イギリスで「フィールズ・オブ・ゴールド」を最初に放送した。「私が最初にイーヴァの曲を聴いたのは、ワシントンDCの近くにいて教師をやっている娘のところを訪ねてアメリカに行った時のことでした。娘は何曲か彼女の曲をかけてくれて、私はすっかり気に入ってしまい、CDを一枚買ってイギリスに持ち帰ったんです。それから毎週、BBCラジオの私の番組で彼女の曲を流しました。私の番組では主にフォーク系統の曲やアコースティックな曲が多かったので、『フィールズ・オブ・ゴールド』はまさにピッタリでした。リスナーからの反応は驚くほどでした。手紙やら電子メールやら電話がかかってきて、それが何週間も続きました。」しばらくするうちに、BBCのハーディングの同僚もイーヴァ・キャシディーを見いだすことになった。テリー・ウォーガンはたくさんのリスナーのいる彼の朝の人気ラジオ番組「ウェイク・アップ・ウィズ・ウォーガン」で彼女の曲を流したし、ボブ・ハリスは土曜日の夜の彼の番組のやや知的な層の聴取者にイーヴァの曲を何曲か紹介した。「フィールズ・オブ・ゴールド」はイギリスでシングルとしてリリースされた。そしてその美しい声をしたワシントンの無名の歌手は、死後の成功を収めたのだった。2001年、アルバムSONGBIRDはイギリスとアイルランドでアルバムのヒットチャートで一位となった。

2001年の秋、チャンピオン・アイススケーター、ミシェル・クワンが自分のエキジビションのルーティンの音楽にイーヴァの「フィールズ・オブ・ゴールド」を使用したため、新しく世界中のたくさんの人がイーヴァの曲を知ることになった。クリス・ビオンドはこの時の模様をテレビで観ていて、イーヴァのボーカルにあわせて滑るクワンの演技に深く感動した。「ボクは赤ん坊のように泣いちゃったよ。」と彼は認める。「その後、母親に電話したら、お袋も泣いてたよ。みんな、感動して泣いてた。」 

その冬「フィールズ・オブ・ゴールド」に合わせて滑るミシェル・クワンの姿を数回見ることが出来た。はじめ数回滑った後で、クアンはベラ・ワンがデザインした金色に輝く上品な新しいコスチュームを着て演技をするようになった。彼女は明らかに音楽を楽しんでおり、あるテレビで放送された演技では彼女が滑りながらイーヴァに合わせて歌を歌っているのが写っていた。ギタリストのキース・グライムズは彼のギターの演奏が、クアンの芸術的表現の一部になったことで誇らしく感じたと認めている。「ワクワクさせるソロのスケート演技が飾り気の無い演奏にピッタリとあったんだ。この組み合わせは効いたね。おまけに、大きなアリーナだったから、イーヴァがとっても気に入っていた残響もたっぷりとかかったしね。」

2002年のソルトレークシティーのオリンピックのフィギュアスケート競技で、ミシェル・クワンは再び「フィールズ・オブ・ゴールド」で滑ることに決めた。期待された金メダルの代わりに銅メダルで終わったことは残念であったが、彼女は世界中の何百万という視聴者を、壮麗で表現力豊かな、感情を込めた「フィールズ・オブ・ゴールド」の演技で深い感動を与えた。

春から夏にかけて「氷上のチャンピオン」ツアーを行う時、ミシェル・クワンは新しいプログラムを披露するのが恒例であったのだが、彼女は「フィールズ・オブ・ゴールド」で滑り続けて、85都市におよぶツアーをこなした。「氷上のチャンピオン」がメリーランドのボルティモアへやって来た時、イーヴァの両親は、他の家族や友達と一緒にスケーターを楽屋に訪れた。その時の一人キャシー・マッケイブは思い出す。「ミッシェルは非常に丁重でずいぶん長い時間つき合ってくれたわ。どうしてこの曲を選ぶようになったのかとか、曲に合わせて滑る時どんな気持ちがするかとかいろいろ話してくれたの。彼女お母さんの友達がCDを持ってきてくれて、この曲に合わせて滑るようにアドバイスしてくれたらしいわ。聴いたとたんに彼女は分かったんだって。今までに滑った曲の中で最高の曲で、この曲に合わせて滑っているとストレスが消えてとても自由になれたって言ってたわ。その時彼女は美を意識して、美しいスケーターとして、彼女は滑り続けたのね。」

「その後でショーを見たの。イーヴァの歌が会場に流れて、ミッシェルのスケートはそれは見事だった。涙が流れるのをこらえられなかった。曲が流れて演技が続いている間、ビル・ストローとヒューがバーバラの手を握っていた。バーバラはとっても誇りに思っていたけれど、すごく感激していたのも分かったわ。」

ブリックス・ストリート・レコードのビル・ストローはそのスケーターのために特別の贈り物をもって訪れた。それは新しくプレスしたアルバムSONGBIRDのゴールドレコードで、その頃、アメリカでそれに見あった売り上げを達成していた。

イーヴァが「フィールズ・オブ・ゴールド」を書いたスティングと知り合いであったかどうか訪ねられることがよくある。 彼女はまだ知り合いという関係ではなかった。無名の歌手として経歴が始まったばかりで音楽界の有名人の仲間入りはまだであった。今はもうソングライターやポップスターの中でイーヴァを知らないものはいない。2001年にスティングはワシントンポスト誌のリチャード・ハリントンに語っている。

「イーヴァの友人が彼女が亡くなった後で、そのレコーディングしたものを送ってくれた。素晴らしい演奏だよ。あんなにきれいな声は聴いたことがなかった。彼女が亡くなってしまったと聞いてとっても残念だ。だけど、そのことでなにかこの曲がいっそう感動的なものになっている気がする。彼女の歌が日の目を見ることが出来てとてもうれしいと思っている。それも途方もない成功だよ。」

後に、彼は付け加えている。「この声を聴いた時、すごく美しく、すごく澄んでいた。次にボクが聴いたのは、一年くらい経ってからだけど、テリー・ワゴンがラジオ2で曲を流している時だった。それからあれよという間にイギリスで第一位になってしまった。彼女のことを考えるとすごくうれしいよ。すごく悲劇的なことだとは思うけど、何か詩的な情感がイーヴァの生涯には感じられるんだ。」




Posted: (火) - 7 15, 2003 at 04:51 AM        


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