| 「詩は、そう、それは言葉の現われるひとつの形式で、その本質からして対話的なのですから、ひとつの投壜通信 (eine Flaschenpost) なのでしょう。それは──もちろん、いつも希望に満ちてはいないにしても──信念のもとに投げ出され、いつかどこかの岸に打ち寄せられることがあるのかもしれません。おそらくは心の岸辺に。」 (Paul Celan )
このように詩人パウル・ツェランは、詩がひとつの「投壜通信」でありうると語っています。投壜通信、それは危機的な状況のなかから、ひそやかに、未知の他者へ向けて投げ出されるものでしょう。いつかその「心の岸辺」に流れ着くことへの祈りを込めて。狭義の詩ばかりでなく、あらゆる言葉がひとつの投壜通信として差し出されうるのかもしれません。いや、今日世界を覆っている情報の喧騒のなかでは、もしかすると、あたかもひとつの投壜通信のように、ひそやかに投げ出される言葉だけが、自分がなり代わることのできない他者とのあいだで応えあい、響きあう言葉でありうるのではないでしょうか。ここには、わたしが折に触れて、ひとつの投壜通信であることを求めて書いたものたちが差し出されています。もし、ほんの一瞬でも立ち止まって、手に取っていただけるなら、これにまさる幸いはありません。
2005年1月1日 柿木 伸之
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