村上春樹からムラカミハルキへ



土曜日にNHK BSで放送(実際は1ヶ月前の再放送)されたBSフォーラム「世界はムラカミハルキをどう読むか」を見た。

『ノルウェイの森』の二番煎じと一部で酷評された『国境の南、太陽の西』か、それとも『ねじまき鳥クロニクル』だったか、ともかくそれ以来、彼の作品は手に取ったこともない(直近の話題作、『海辺のカフカ』も)。
そんなぼくだから、あるいは見当違いのことを書くかもしれないが、それはそれとお許しを。

さて、番組は、世の中のシンポジウムというものがそうであるように、司会は退屈で、パネリストはそれぞれ勝手なことを言っていた。
それでもぼくが──あたかもタイムマシンで突然現代にやってきた人間のように──驚いたのは、村上作品が(国や文化を超えた)普遍性をもっている、ということに気づかされたからだ。
パネリストはみな外国人(フランス、ロシア、台湾、韓国、アメリカ)で、どうやらいずれも村上作品(というより日本文学)の研究者であり、翻訳者であるらしかった。
彼らがそれぞれ流暢な日本語で日本文学と村上作品を語る。その光景に少しめまいがした。

しかし、約15年前のぼくらにはそんなことはどうでもよかったのだ。

ぼくらはぼくらのことしか知らず、あるいはぼくらのことすら知らなかった。
今日でさえも。

ぼくらは「ぼく」に姿を重ね合わせ、「直子」に涙し、「緑」に恋をした。
しかしそれ以上に、どの作品のなかでも「ぼく」のもつ深い孤独に感じるものがあったのだ。
いわゆる「純愛小説」への、あるいは青春そのものへの郷愁にすぎないではないか、と揶揄されても構わない。
流行に乗せられて『ノルウェイの森』を手に取った人ですら、こういう資格はある。
村上春樹はぼくだ、ぼくらだって「ぼく」なんだよ、と。


ああ、疲れた(笑)。文体を変えると、こうも不便なものなのか。
っていうか、「ぼく」なんて言わへんし(笑)。ですから↑はフィクションです(笑)。
村上作品が翻訳されて読まれ始めたのは、結構早い時期だった気がするなあ。『ノルウェイの森』の大ヒットから数年のことだったと思う。TVにも出ていた、ルービンさんの訳で米ランダムハウスから出版されたように記憶している。
上では『ねじまき鳥〜』以降読んでないと書いているけど、実はエッセイはいくつか読んでました。それでも『やがて悲しき外国語』くらいまでかな。
でも村上春樹が翻訳に力を入れ始めた頃から、作品を読まなくなったのは間違いないけどね。
あ、でも村上春樹訳の『カーヴァーズ・ダズン』は読んだ気がする(笑)。
『アンダーグラウンド』以降は読んでないのは確か。

ともかく最近、小説なんて読んでなかったから、良い刺激になったよ(笑)。
とりあえず『海辺のカフカ』から村上ワールドに復帰するとしようか。
文庫版も出たし、夏には「讃岐・うどん・モダニズム建築・アメフラシ・ツアー」(意味不明なうえに長いな(笑))が予定されていることだしね(笑)。


Posted: 日 - 5 月 28, 2006 at 12:06 午前