080807「蒼穹」梶井基次郎 青空文庫ファイルより



「蒼穹」梶井基次郎 青空文庫ファイルより

 ・・・そんな風景のうえを遊んでいた私の目には、二つの渓(たに)をへだてた杉山の上から青空の透いて見えるほど淡い雲がたえず湧いて来るのをみたとき、不知不識(しらずしらず)その中へ吸い込まれて行った。湧き出て来る雲は見る見る日に輝いた巨大なすがたを空の中へ拡げるのであった。

 それは一方からの尽きない生成とともにゆっくり旋回していた。また一方では捲きあがって行った縁がたえず青空の中へ消え込むのだった。こうした雲の変化ほどみる人の心に言い知れぬ深い感情を呼び起こすものはない。その変化を見極めようとする目はいつもその尽きない生成と消滅の中へ溺れ込んでしまい、ただそればかりを繰り返しているうちに、不思議な恐怖に似た感情がだんだん胸に昴まってくる。その感情は喉を詰まらせるようになって来、身体からは平衡の感覚がだんだん失われて来、もしそんな状態が長く続けば、そのある極点から、自分の身体は奈落のようなもののなかへ落ちてゆくのではないかと思われる。それも花火に仕掛けられた紙人形のように、身体のあらゆる部分から力を失って。——

 私の目はだんだん雲との距離を絶して、そう言った感情の中へ巻き込まれていった。そのとき私はふとある不思議な現象に目をとめたのである。それは雲の湧いて出るところが、影になった杉山のすぐ上からではなく、そこからかなり距りを持ったところにあったことであった。そこへきてはじめて薄っすり見えはじめる。それから見る見る巨きな姿を現す。——

 私は空の中に見えない山のようなものがあるのではないかというような不思議な気持ちに捕えられた。そのとき私の心をふとかすめたものがあった。それはこの村でのある闇夜の経験であった。

 その夜私は提灯を持たないで闇の街道を歩いていた。それは途中にただ一軒の人家しかない、そしてその家の燈がちょうどとの節穴から写る戸外の風景のように見えている、大きな闇の中であった。街道へその家の燈が光を投げている。その中へ突然姿を現した人影があった。おそらくそれは私と同じように提灯を持たないで歩いていた村人だったのであったろう。私はべつにその人影をあやしいと思ったのではなかった。しかし私はなんということなく凝っと、その人影が闇の中へ消えてゆくのを眺めていたのである。その人影は背に負った光をだんだん失いながら消えていった。網膜だけの感じになり、闇の中の想像になり——ついにはその想像もふっつり断ち切れてしまった。そのとき私は『何処』というもののない闇に微な戦慄を感じた。その闇の中へ同じような絶望的な順序で消えてゆく私自身を想像し、いい知れぬ恐怖と情念を覚えたのである。——

 その記憶が私の心をかすめたとき、突然私は悟った。雲が湧き立っては消えてゆく空の中にあったものは、見えない山のようなものでもなく、なんという虚無!白日の闇が満ち充ちているのだということを。私の目は一時に視力を弱めたかのように、私は大きな不幸を感じた。濃い藍色に煙りあがったこの季節の空は、そのとき、見れば見るほどただ闇としか私には感覚できなかったのである。


Posted:2008年08月07日 (木)at10:43