071120あたらしい南極観測船もやはり”しらせ”という名前になるらしい



・軍関係や官庁関係の船の名前には”丸”がつかないのはどうしてだろう?
・「三代目の南極観測船”しらせ”が退役する」なんて云う記事にどうして目が止まったのだろうと考えてみると、”白瀬”の”しろ”というのはおいとくとして、一つには少し前に当ブログで「地球温暖化実験」という記事を書いた こと、もう一つは、「革命」大野芳著(2001年祥伝社刊)「三無事件」という1961年に起こった事件をあつかった本の中で一行だけ南極観測船”宗谷”について触れていたからかもしれない。
・そもそも北極南極観測が始まったのはいつ頃からなんだろうかと思って調べはじめた。
・1909年4月6日アメリカ探検家ロバートピアリー北極点到達(極点にどちらが先に到達したかフレデリークックとの間で裁判があり、真実は闇のなからしい)
・1911年12月14日ノルウエーの探検家ロアールアムンゼンが南極点到達。(イギリスの探検家ロバートスコットとの間で極点初到達が争われた。スコットはアムンゼンに遅れること一月で到達するも遭難死した。)
・1912年1月16日白瀬 矗南極大陸上陸も極点踏破はあきらめる。(<白瀬の功績をたたえ、南極観測船「しらせ」が彼に因んで命名された(海上自衛隊は人名を艦名にしない為、公式には、昭和基地近くに存在する「白瀬氷河」に因んで命名したとしている)>)。以上Wikkiによる。
・この時期はロシア革命とも重なっていて、つまり帝国主義絶頂期に相当し、もはや極点以外に帝国諸列強が開拓すべき処女地は残ってなかったのかもしれない。
・もっとも革命といっても大野芳著「三無事件」のほうの「革命」はロシアの赤色革命の意味でなく、「予防革命」の意味の革命らしかった。東西冷戦時における共産主義国化に対する予防といういみあいで、1960年に朝鮮半島で起こった朴正煕クーデターをイメージし、「三無事件」の首謀者とされる河南豊作らは「赤化予防革命」として1961年クーデターを計画した。事件は未遂に終わって、破防法適用第一号事件となる。
・この河南豊作という人は第2次世界大戦中軍部と結びついた新興財閥で長崎市で三菱重工と肩を並べるほどの造船業者だった。
・1936年は川南が造船を始めた年だ。1936年(昭和11年)10月31日 ソビエト連邦からの発注で耐氷型貨物船の3隻のうちの一隻として川南工業株式会社香焼島造船所にて起工(このときの船名はボロチャエベツ、他ボルシェビキとコムソモーレツはしかし、ソ連には引き渡されず、商船地領丸として竣工する。戦時中は特務艦として測量にあたる。宗谷である。)
・1961年は川南が三無事件で逮捕された年だ。1961年5月4日樺太犬タロー、ジロー南極から四年半ぶり(宗谷で)帰国。<ついに、“宗谷”最後の南極観測となった第6次観測は、昭和36年(1961)10月30日‥‥東京を出発しました。第6次は主に、昭和基地の閉鎖に伴う撤収作業でした。>
・宗谷は”奇跡の船”とよばれるほど、太平洋戦争のきわどい戦場になんどとなく赴いては、沈められることなく戻ってきた。宗谷については日本財団のこのリンンクにむちゃくちゃ詳しい。
・「軍関係や官庁関係の船の名前には”丸”がつかないのはどうしてだろう?」という疑問は次のエントリーでとりあえず、「丸」とは何か?から調べてみよう。

Posted:2007年11月20日 (火)at17:14