081005黒木門に小柴垣



081005黒木門に小柴垣

 「黒木門に小柴垣」は嵯峨野にある野宮神社にある。平安時代以降この神社は斎宮が
<斎宮→垂仁紀は「天皇、倭姫命を以って御杖(みつえ)として、天照大神に貢奉(たてまつ)りたまふ」とも述べており、以後斎王は天照大神の「御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)」として、長く伊勢神宮に奉仕することとなった。(ただし古代においては、斎宮王は必ずしも歴代天皇すべての御世に置かれたわけではなく、任期などもそれほど明確ではない) wikiより>

が伊勢神宮に赴く前に、潔斎のため籠る場所であったらしい。もちろんこの頃(神話時代)の伊勢神宮(天照大神)は今の伊勢にさだまっていたわけではないのだが・・・

<『源氏物語』の「賢木(さかき)」の巻や謡曲『野宮』(室町時代の作)に出てくる有名な対句である。そんなわけで他の神社には見られないこの風景には、いろいろな逸話が残されている。p26>「垣根」額田巌著 1984年 法政大学出版局

 紫式部は、斎宮となって伊勢に下った徽子(きし、または、よしこ、後醍醐天皇の皇子重明親王の女)の生涯に共感したらしい。六条御息所を書くにあたって徽子がモデルになったと云われている。

 「賢木」の巻に野宮ついて書かれている。その物寂しい風景は、野宮は斎宮の交代のときに使われるのみだったからだろうか。その交代の時期というのは、天皇の崩御のときと斎宮の父母の喪の時だけだった。

 「垣根」の筆者、額田巌さんは嵯峨野の野宮神社を訪ねて、黒木門に小柴垣の作り方を懸野宮司に訊いておられる。

垣の材料は、昔は裏の清瀧の山に生えていたクロモジの木 (楊枝を作る木)をとってきたが、今日ではクロモジの木が少なくなったので、ツツジの木で代用している。垣の杭は杉または檜を用い、押さえ(横木)は竹を用いる。縄は昔は「わらび縄」であったが、現在では「棕櫚縄」を用いている。そしてこの小柴垣は五年に一度取り替えることになっている。
 一方「黒木の門」とは、櫟(くぬぎ)の皮付きの丸太で作った鳥居のことである。年が建つと雨水のため樹皮が朽ちて黒色となるのでその名がついた。この樹は現在でも裏の清瀧の山からとってくるのである。この門の方は二十年に一回作り替えることになっているが、これらは「みあれ」(再生)の思想に立脚したしきりであろう、とのことであった。
 見学のあとで、懸野宮司から『小柴垣草紙』という秘画について耳よりな話をうかがったのである。p28

 『小柴垣草紙』は斎宮が野宮においての潔斎期間中にあってはならぬ恋に落ちるという筋の<高貴な方を対象としたわが国最初の枕絵>つまり春画絵巻物らしい。原本は元々伊勢神宮の徴古館にあったが、敗戦後アメリカに渡っているらしい。

 春画の方にも関心はもちろんあるけれども、今回のエントリーの興味は、『小柴垣草紙』の写しで現在、甘木市の大蔵家蔵の写本『小柴垣草紙絵図』に描かれている小柴垣を示す図と、現在野宮神社にある小柴垣とは形式の上で<想像もつかないほど相違しているのである。p30>という点にある。

 「垣根」額田巌著の図版は少し見ずらく細部は判然としないけれども、現在の野宮の小柴垣は石垣上に板塀の板のかわりに竹の枝をを使っているような(つつじだそうだけれども)現在でもたまにみることのできる形式。

 一方、『小柴垣草紙絵図』に描かれている平安時代のものと思われる野宮の柴垣は、切り妻屋根状の土台にクロモジの枝が垂直にさされている。絵で見るかぎりその大きさは、およそ塀とか垣根とかの大きさではない小さなものである。

 (以上のエントリーの内容、引用は、「垣根」額田巌著 1984年 法政大学出版局に多くを負っています。)

 ぼくは、この写本の図版から「トンド焼き、鳥追いのグロ」 を思い出し、それから、殯屋(もがりや)産小屋をおもいだしてしまった。

越南浮游さん に以下のようにあった。

銅鼓に描かれた「殯屋」は棟の両端に鳥のクビがついた舟形の屋根に覆われている。それは屋根倉式の高床建物で壁は描かれていない。その屋根の内部には人が描かれている。おそらくそれは死者と、死者を祈祷する人物であろう。鳥の首をもつ舟は「鳥舟」にほかならない。霊魂や神霊を天に送り届ける乗り物である。舟は水面を水平方向に移動する交通手段だが、船首と船尾に鳥の首をつけることで、それは垂直方向に動く交通手段となる。換言するならば、鳥舟はこの世(地上)とあの世(天上)を往来する乗り物なのである。とすれば、高床の「殯屋」はいったい何を表現しているのであろうか。わたしは、これを鳥舟を宙に浮かせている状態だと解釈している。死体=霊魂をのせた鳥舟が宙に浮いている。この世とあの世の中間に存在しているのではないか。霊魂があの世にわたりきってしまった時、「殯屋」=鳥舟はこの世から見えなくなる。だから、取り壊す。「殯屋」は、死者の魂が生者たちの認識の範囲内にあるあいだだけ存在する仮設の建物なのである。どこか大嘗祭に似た祭儀である。

 斎宮は天皇の死ごとに新しく立つわけだから、斎宮の潔斎のための場=野宮も大嘗宮と同じように元々は仮設だったんじゃなかろうか?そして、その仮設の記憶を留めているのが「小柴垣草子」の小柴垣の絵ということにはなりはしないか?

 仮設で黒木造?<大嘗宮は、大嘗祭のためにあらたにたてられた黒木造りの建築物で、東西に悠紀殿、主基殿、廻立殿(かいりゅうでん)という三つの建物がつくられ、外部を柴垣でかこみます。「諏訪春雄通信 27」より>

 黒木造について折口信夫は以下のように書いているが、大嘗宮は仮設なのですぐ取り壊すわけなので、べつに「強い」長持ちしなくてもいいはずで、黒木造には別の意味があると思う。野宮が「黒木の門に小柴垣」で語られている事と関連があるかも知れない。

 悠紀殿・主基殿は、おなじ囲ひの中にあつて、両殿の界は、目隠しだけである。後世は、立蔀を立てゝ拵へられた。立蔀というても、椎の青葉で立てられたもので、此は、昔の青柴垣の形である。南北に御門がある。御殿は、黒木を用ゐる。黒木といふのは、今考へる様に、皮のついたまゝの木といふ事ではなくて、皮をむいて、火に焼いた木の事である。かうすると、強いのである。昔は京都の近くの八瀬の里から、宮殿の材木を奉つた。此を八瀬の黒木というた。後世には、売り物として、市へも出した。此黒木を出すのが、八瀬の人々の職業であつた。とにかく、此は、神秘な山人の奉る木で、此の黒木で造つた御殿の周囲に、青柴垣を拵へたのである。

「大嘗祭の本義」 折口信夫著 青空文庫より

 廻立殿での儀式は外部からは一切訣ぬ秘事らしい。

 大嘗祭の時は、大殿祭は既に済んで居るので、卯の日には、其行事が見えないが、お湯へお這入りになる事は、屡行はれる。本来は、此湯へ這入つて居られる時に於て、一方では、御殿のほかひが行はれて居るのである。大嘗宮は、紫宸殿の前で、南に建てられる。東には廻立殿が造られる。そして、紫宸殿から廻立殿への出御は、廊下を渡つてなされる。
 廻立殿といふのは、悠紀・主基両殿へお出でになる御用意の為に、設けられた御殿で、いはゞ祭事の為に、お籠りになる御殿である。
 此御殿の名称が、何の故に廻立殿とよばれるか、其は訣らぬ。そして、此廻立殿の御儀式は、外部からは、一切訣らぬものにされて居る。廻立殿は、東西五間、南北三間の御殿である。西側三間を、天子様の居られる所とし、東側二間は、竹の簀子にしてある。此所が、茶の湯所となつて居るが、なにか、忌斎の場所らしい。天子様は、大嘗祭の卯の日の儀式にも、始終、この廻立殿へ出御なされる。

「大嘗祭の本義」 折口信夫著 青空文庫より

 諏訪春雄通信 27 さんには、大嘗祭の秘められた核心「真床襲衾マドコオスフスマ」についての4つの諸説がわかりやすくまとめられていた。
(ただ、上記、折口信夫によれば、廻立殿には「お湯にはいる」(禊する)場所と「真床襲衾マドコオスフスマ」がおかれた部屋とがあったようであり、諏訪春雄通信 27 さんは「大嘗宮の悠紀と主基のあいだに寝具が用意されてありました」としている。)

1. 亡くなられた先帝と新帝との共寝 2. 新帝と采女(うねめ)との聖婚 3. 死者をほうむる喪屋 4. 新生児のための産屋

(1)については、折口らの説らしく、衾(ふすま)をかけた神座として設営されている寝座は、天孫降臨神話でニニギノミコトがくるまって天降りした真床襲衾(まどこおふすま)であり、新しい天皇はこの寝座に籠って、天皇霊を身につけて天子としての資格を得る、と解した。

(2)については岡田精司氏(『古代王権の祭祀と神話』塙書房・1970年)の説らしく、<大嘗祭は新嘗祭の延長とかんがえ、マドコオスフスマは、これにつつまれて祖神と一体化した天皇と、国々の神の資格をもって奉仕する采女との神婚がおこなわれた衾の遺物であろうとします。>とある。天孫族と国神の一体化と云う事だろうか。

(3)については谷川健一さんの説で<南島のモガリの習俗を論拠に、先帝の死にさいして死者が完全に死者になりきるまえに、死者と共寝して、その活力をうけつぐ儀礼が、喪屋としての大嘗宮でおこなわれたといいます。>

(4)については、<産屋説は、折口信夫がはじめにとなえ、いったんすてたのちに、晩年また採用した説で・・・おなじ考えは、西郷信綱『古事記研究』(未来社・1973年)にもみることができます。マドコオスフスマの儀礼は、子宮の羊膜につつまれた胎児の状態にもどり、新生児として誕生しようとする模擬行為であったといいます。>とあった。

 古代のヒトは、たぶん生まれてくる前の世界と死んでからゆく世界を同じ場所と考えていたのではないだろうか。そうだとすると、実は殯(もがり)屋と産屋は同じものだという事が云えるかも知れず、また斎宮が伊勢に赴く前に潔斎した野宮は大嘗祭の仮屋とおなじで、大嘗祭で行われた秘密の儀式と同じ性格のものが行われていたかもしれない。

 天武天皇になってはじめて「天皇が神だ」と云われるようになったとされるが、この時代に、斎宮が伊勢神宮に送られる事が制度化された。それまでの斎宮が天照大神の「御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)」だった事の形骸化が起こった。(生きている天皇が神なのだから、神から神意を受けるもの斎宮は必要ないであろう)そして本来、野宮で行われていた斎宮の儀式(神の依り代となるための儀式、神との同衾)が大嘗祭の秘密の儀式になっていった。

 たった一枚の写真から、大風呂敷拡げちまったもんだ。


Posted:2008年10月23日 (木)at23:26