081013暗峠(くらがりとうげ)と墨坂



・081013暗峠(くらがりとうげ)と墨坂、『隠された物部王国「日本(ヒノモト)」』谷川健一著を読みながら

 奈良盆地への神武(神話上の人物ではあるけれど)東征は2度行われている。


 一度目は、大阪河内湖(難波潟)から生駒山と二上山の間の暗峠(孔舎衛坂・くさえのさか)を越えようとして、「日下(くさか)」を支配していた土着の長脛彦と物部連合軍に敗れた。

 2度目は、一度目の失敗で神武の兄「五瀬命」が深手を負い亡くなったのは、太陽に向かって戦争を仕掛けたのがいけなかったのだから、今度は太陽を背にして戦おう、と海上を大きく迂回して熊野那智浦から北上し、奈良盆地の東南、墨坂(榛原〜長谷寺間の峠で、宇陀から奈良盆地に抜ける主要道路)から侵攻し、長脛彦と物部連合軍を攻め打ち破った。

 神武の東征というのは、九州の「倭国」が近畿の「日本」を攻め、「倭国」が「日本(ヒノモト)」という国号を奪って自身が「日本」を名乗るようになった過程だと谷川さんはいい、日下という地名から「日本」を解読している。

 当Netslaveでは、「日本」という用語をなるべく使わないできた。結構不自由なのだけどそうしてきた。ユーラシアのブラインドアレー吹きだまりとして「この列島」とか「この島国」とか書き綴ってきたわけだけれども・・・

 先日、「日本海」 に面する県でコリアからやってきた友人としばらく一緒にいることがあって、海をみたいという。ああ、「East Sea」ね、それなら・・」というと、その友人はギョッとした顔をした。あちらのお国では、「独嶋」こちらの列島で云うところの『竹島」問題のキャンペーンの最中らしかったので、慮ってイーストシーといってみたのだけれど、それはそれで彼にとって、この列島の住人が「東海」と言うことが不思議な感じだったらしい。

 で、彼の反応を見て、こちらももう少し考えるところとなってしまった。どういうことかというと、この列島に住んでいるぼくが、もし、「日本海」とか「東海」という用語を知らなかったとしたならば、海を見たいという友人には「北の海ね」とか「西の海ね」と答えていたかもしれない。

 で、そうすると、例の有名な「日の出る処の天子」という聖徳太子が随の皇帝に宛てた書簡の言葉もちょっと不思議な言葉のような気がしてきた。もしこの列島に住んでいるなら、目に見える風景としてはオヒサンは東の山か海から出るのであって、この列島から出るとは感じないはずだ。

 もちろん聖徳太子は一度に7人からの話を聞けるような賢人なので、海の向こうの随の皇帝の立場になって語ったのだろうけれど・・・もし太子のまわりに、大陸や朝鮮半島にあってこの列島に臨んだ経験のある人々がいたとしたら、また、「日の出る国」ということに何らかの伝承を持つ人々がいたりしたら、容易くこの言葉も出てきただろうな〜などと考えたりした。

 この発言で相手の中国の皇帝は激怒したのに相違ないけれども、すくなくとも太子は中国、または朝鮮に自身を仮に置いてみて、この発言をしたことになる。やっぱし聖徳太子は偉かった。昨今のこの列島に住む人々はみならうべきである。


Posted:2008年10月24日 (金)at09:42