071215メジロ、ロシヤ、ヤァバンコク、クロポトキン、キンタァマ〜



・多分ロシアを馬鹿にした唄だろうけど、ボックらテレビのない子供時分があったので、その頃覚えて、今でも唐突に口ずさむことがある。思うに、よほど金玉がうれしかったんだろうなあ、そういうところは今も変わらないな。
・学生時代に、「世界の名著 53 プルードン・バクーニン・クロポトキン」中央公論社ってのを古本屋で見つけて、ああ、謎のクロポトキンПётр Алексе́евич Кропо́ткинって無政府主義者のことだったんだあ〜すげぇ高尚な唄だったんだ〜とこの頃まで思い込んでいた。
・しかし、いくら大杉栄が「相互扶助論」を翻訳してたからったって、そのクロポトキンが登場する俗謡が第二次世界大戦終了10年以上たったボックらみんな知ってるってのか?なんでそんなにポピュラーだったのかがどうも解せなくはあった。
・やっぱり別人のクロパトキンがいたのだ。Алексей Николаевич Куропаткин

中国は、1840〜42年にイギリスとのアヘン戦争に敗れ、5港開港を認めさせられて以来、アヘンの輸入と、クーリとよばれる中国人奴隷の輸出、キリスト教の布教を柱にした欧米人の本格的な侵入を受けてきた。1856年には中国の官憲がイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検をおこなったアロー号事件で、言いがかりをつけられてイギリス、フランス連合軍を相手にした、第1次アヘン戦争にひき込まれた。その結果、1858年のロシア、フランス、イギリス、アメリカとの天津条約で内陸まで彼らの侵入を認める屈辱的貿易を承認すると、ロシアとの愛琿条約で、黒龍江北岸の広大な領土を割譲させられた。続く1860年の第二次アヘン戦争敗北による北京条約で、香港市外の割譲と続き、この1898年には、ロシアが遼東半島南部の大連、旅順を租借しただけでなく、ドイツが膠州湾、フランスが広州湾、アメリカが粤漢鉄道と次々に支配権を握って、我慢ならないところにきていた。そこへ、ロシアの武力による土地の強制収用が起こったのだから、到底見過ごせることではない。



クーデターによって復権したばかりの清朝独裁者、西太后がこれを支援して、1900年には列国対清国の全面戦争になった。義和団の乱に始まった北清事変である。列強は、イギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、イタリア、オーストラリアだったが、そこに日本軍も入っていた。中国がこの強大な連合軍に勝てるはずはなかった。とりわけロシアの陸軍大臣アレクセイ・クロパトキンは、満州全土を支配する絶好の機会と見て、容赦ない攻撃を指令し、黒龍江で中国人老若男女5000人あまりを虐殺した。「アムール河の流血事件」だけではなく、全土で凄惨な殺戮を繰り返したのである。



だが、ロシア人が悪かったのではなかった。なぜなら、ほどなく日露戦争が勃発し、1905年1月、ロシアの首都ペテルブルグに起こった「血の日曜日」事件が物語るとおり、その日に食べるパンさえ事欠く労働者の半数以上が決起してストライキをおこない、日露戦争の中止を訴え、憲法の制定と、基本的人権をニコライ2世に求めていた。だが彼らは、警察隊によって虐殺され、数千人の民衆が犠牲となっていた。<「持丸長者・国家狂乱篇」広瀬隆著 2007年ダイヤモンド社刊 p162>



・Wikiに、このクロパトキンは日露戦争敗戦の責任を取らされて田舎に帰り、終生釣り竿をはなさなかったとあった。
・最初に書いた歌詞しか覚えてなくて、その続きはどうだったんだろ?というのも長い疑問だったが「クロパトキンの歌」というページにこの歌の続きがちゃんと書いてあった。

Posted:2007年12月15日 (土)at12:13