081018黒い聖母マリア(その2)



081018黒い聖母マリア(その2)

 旅の途中偶然寄った鶴岡市の<黒い聖母マリア、山形県鶴岡カトリック教会天主堂>について以前書いた。

 それぞれ別な不思議な信仰が三つ同居していているのだが、意外に何らかの関連があるかも知れないと書いた。

(1)黒い聖母マリア、山形県鶴岡カトリック教会天主堂(2)漁民信仰で有名な三山のうちの一つに数えられる善法寺 、数年前人面魚騒動でおなじみのお寺がある(3)羽黒山、月山、湯殿山に近く、修験道、即身成仏の木乃伊が安置されているお寺がある

 「常世論」谷川健一著 1989年 講談社学術文庫を読んでいて気になる一文があった。

琉球では神に使える女が着るのは、ほとんどが白衣であり、まれに黄色な神衣がある程度で、青い衣はまったくない。そこでこの詩句(『おもろさうし』にある「青御衣・みしょ」という語)は比喩にすぎないのだが、それにしても青衣が霊魂を司る神女にふさわしい者だという感じは出ている。同じように、航海の守護神で「海の星」と呼ばれるサンタマリアは青い衣を着ている。p238
 

 「サンタマリア」!・・・山形県鶴岡カトリック教会のホームページで、心やすらぐ「アベマリア」が流れていたことを思い出した。「黒い顔」という一点に興味があったのだから、マリア様の衣装などには着目してなった。

 で、早速、鶴岡カトリック教会から持ち帰ったチラシの写真で確認すると、黒いマリ様の衣装はまさしく「青い衣」だった。

 単なる偶然か?はたまた世間一般におわしまするマリア様は青い衣を着て鎮座しているのかについてまったくうんちくを持ち合わせてないのだが・・・

 「黒い顔のマリア」様は原始キリスト教の意識が残ったあらわれだと云うし、原始キリスト教は漁民から始まったという説を聞いたことがある。

 谷川さんのご本のこの一節は「丹後の浦島伝説」につづく「美濃の青墓」に書かれており、「美濃の青墓」の章は、東大寺二月堂のお水取りにまつわる「青衣の女人」のエピソードから書き起こされている。

 お水取りと云えば、東大寺の井戸と若狭の小浜あたりにある井戸が繋がっていると云う伝承があって、今でもその小浜の井戸でくみ上げられた水が二月堂のお水取りで使われているらしい。もちろん小浜は漁民に関係の深い土地柄である。

 鶴岡には漁民信仰で有名な善法寺というものがあるのだが、鶴岡市自体は海岸線から砂丘と庄内平野に隔てられてかなり内陸にはいった、ぱっと目、漁民信仰とは関係あるのかな?という位置にある。もちろん近在の海岸線には漁村がづっと並んである。近在には酒田市という小浜とおなじように北前船の寄港地として栄えた港がある。

 五来重さんは「遊行と巡礼」角川選書のなかで、「海の修験」ということをいっておられる。解説の山折哲雄さんは次のように書いている

 四国の巡礼は古くから「四国遍路」と呼び慣わされてきたが、それは本来四国の「辺路・へじ」修行を意味していた。しかもその「辺路」とはほとんどの場合、波浪の打ち寄せられる海辺をたどり、岬に突き出た巌をめぐって行道することから成り立っていた。そういう難所はむろん、たんに室戸岬や足摺岬のような突端の辺路にとどまらなかった。四国の札所にはしばしば奥の院と称する霊地が付属しているが、その多くは洞窟や岸壁に近接し、潮の香を真っ向からかぶる行場であった形跡を残しているという。・・・

 ・・・それでは熊野詣でで知られる紀伊の「辺路」修行の方はどうであったのだろうか。・・・紀州の巡礼が熊野九十九王子とかたく結びつけられてきたことはよく知られている。それではその「王子」とはいったい何か。本来この正体不明の神はいろいろに説かれてきたが、著者は本書においてはじめて、王子は熊野の神の子などではなくて、それこそ辺路に祀られた海洋の神すなわち夷神であったとしている。そしてこの紀伊の辺路において「王子」信仰の急所をなす聖地が、現在新宮に鎮座する速玉大社の摂社すなわち阿須賀(あすか)社であったという。ここは伊勢から和歌山・友ヶ嶋(紀伊海峡)に及ぶ「大辺路」海岸ルートの要をなし、王子の中でも一の王とされ、若く荒々しい若宮というところから「若一王子」と呼ばれてきた。この阿須賀神社がやがて隣接する那智と一本化されて「結早玉神社(ゆいはやたま)」一社として祀られるようになり、そこを拠点として「海の修験」すなわちこの場合は「海の熊野」の信仰が生み出されることになった。のみならずこの「海の熊野」信仰は、「山の熊野」としての本宮信仰とはまったく別個の発祥をなす伝統を持つという。もしそうだとすると、一般に云われてきた本宮・新宮・那智を一つにくくる三所権現組織は、平安時代中期になって形成された後発の信仰形態であったということになるだろう。熊野においては、もともと「海の修験」と「山の修験」という二つの系統があってそれが後に三山組織へと統合をとげたのではないかといういうわけである。
那智では補陀洛渡海で有名な浜の宮も、浜の宮王子が祀られてきた聖地であり、ちょうど那智山への登り口にあたっていた。かつて紀伊の辺路を歩いてきた辺路修行者たちは、那智の大滝で水垢離をとり、那智の浜すなわち浜の宮で潮垢離をとったのであろう、彼らはまさに水浴する裸行上人でもあったのである。p239〜40

 ここからは大胆?仮説、「遊行と巡礼」には出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)についての言及はない。しかし、黒いマリアのお導きでひょっとしたら、海の巡礼に関連する何かがこの地にあったかも知れないと思いはじめた。

 鶴岡のある庄内平野は出羽三山と砂丘に挟まれている。その北辺に酒田港がある。庄内平野は現在水田地帯になっているけれども、たぶん、新田開発が本格化する前、江戸時代初期以前には潟湖がたくさん存在したはずだ。船は今よりずっと内陸まで入り込んでいたに違いない。

 それから天変地異で地形が変わってしまったということも考えられなくはない。

 山形県の北の秋田県の江戸時代の話だけれども、司馬さんの「街道をゆく・秋田県散歩」に象潟の地形変化について書かれている。芭蕉は象潟で「象潟や雨に西施が合歓(ねぶ)の花」という句を詠んだらしいのだが、現在の象潟は地震によって陸地化している。

芭蕉は海であるころにこの地にきた。入江は大きくて芭蕉によれば縦横一里ばかりあったという。・・それにしても、縦横一里の入江にたくさんの島が浮かんでいたというのは奇勝だったに違いない。それが今大地が盛り上がって、田園の中に散在している。これも妙趣というほかない。実は、芭蕉がこの地を去ってから115年後の文化元年(1804)6月4日、大地が盛り上がってしまったのである。当時象潟地震といわれた。その結果象潟の海の底が2.4メートルも隆起し、陸地になった。

 残念ながら今はこれ以上はネタがない。しかし以上の思いを念頭に再び鶴岡を訪れることになるとになるような気がする。「黒いマリア」の旅はまだまだはじまったばかりなのである。

 ちょっと気になったので、アベマリアの祈祷文和訳をウイキより

めでたし、聖寵(せいちょう)みちみてるマリア、主(しゅ)御身(おんみ)と共にまします。
御身は女のうちにて祝(しゅく)せられ、御胎内(ごたいない)の御子(おんこ)イエズスも祝せられたもう。
天主(てんしゅ)の御母(おんはは)聖マリア、罪人(つみびと)なる我らの為に、今も臨終(りんじゅう)の時も祈り給え。
アーメン

 サンタマリアについては、コロンブスがアメリカ大陸を発見した際の3隻のうちの一隻がサンタマリア号だったことくらいしかわからなかった。


Posted:2008年10月24日 (金)at10:51