051210「新潟県の歴史」井上鋭夫1970山川出版
・越国守として、開発と平定に活躍したのは阿倍野比羅夫である。彼は日本海の波の静まる初夏をえらび、水軍を率いて東北より北海道を討ち、粛慎を征した。ただしこの時期の出兵は、8世紀以降のような血なまぐさい攻防戦を展開したのではなく、武装植民とともに、蝦夷の首長を会同させて供応したり、恩恵をあたえたりする王化政策がとられた。持統天皇の時越の蝦夷沙門道心に仏像・灌頂幡・鐘・鉢などを賜ったのは、仏教までが鎮撫に利用されたことを示す。p33
・越後の建国、日本の北境拓殖という国家的大使命を帯びて活躍した阿倍野比羅夫は、朝鮮半島の風雲急を告げるや、200隻の船団を率いて白村江に出動し、その敗北によって越後国の開発は一頓挫をきたした。この後東北経営が軌道に乗るのは、壬申の乱の勝利で律令体制の確立をみた天武朝(673〜686)のことであった。そして史上はじめて”越後”が姿を見せるのも”越後蝦夷”に物を賜ったという『続日本紀』文武天皇元年(697)12月の記事である。
”越”の称の最終は「日本書紀」持統3年(689)7月で”越前”の初見は同紀6年9月の「越前国司献白峨」の記事であるから、越が越前・越中・越後に分かれたのは、この3年の間のことである。
・この当初の越後国の版図について、「大日本史」は、南境は沼垂つまり信濃川と阿賀野川の海口であり、北方は岩船以北、田川郡、飽田、津軽などの夷境を含むとしている。「正倉院文書」に「越中国蒲原郡」が見え、また菖蒲塚古墳や弥彦神社の位置から見て、この解釈はほぼあたっているといえよう。水俣病で有名になった阿賀野川は、越後を2分する大河で、その北は、”揚北”とよばれるように、気候風土や言語でも、何か華夷雑居の地らしい北越的なものを感じさせ、同時に庄内平野や、米沢盆地とは深い関係を持ち続けた地域である。そしてこの越後の政庁は、文武朝の時越後、佐渡に”岩船柵”を修営させているように、磐舟柵におかれていたと考えられる。
文武天皇の大宝2年(702)3月、越中国の4郡をわけて越後に入れた。この4郡とは、「和名類聚抄」にいう”頸城””魚沼””古志”(三島を含む)”蒲原”のことで、親不知から阿賀野川までの越中4郡であろう。
・この頃”北越北疆”で”蝦虜”に接し、”柔懐鎮撫”にあたっていた人に伊奈大村がある。彼は慶雲2年(705)越後城司となり、翌3年越後守になった。越後国主としては大村が最初の人物である。その政治は徳沢をもってのぞみ、仁風をおくり、刑罰は正しかったが、慶雲4年4月24日、46歳で”越城”で病死した。同年11月21日、大和国葛城下郡山君里狛井岡に帰葬されている。
ずっとのちになって、大和国広瀬郡穴虫山馬場村(北葛城郡香芝町)の農夫が地面を掘って瓶を発見した。瓶を砕くと一つの銅器があり、その形は大きな毬のようで、身と蓋とにまっぷたつに別れ、身の下に丸い足があり、蓋に墓誌銘が書いてあった。口径はそれぞれ8寸、深さも各4寸で、重さは4斤3両あった。いううまでもなく越後守威奈(猪名)真人大村の火葬蔵骨器である。文献と考古資料が一致した珍しい例である。
・次いで慶雲4年11月安倍真君が越後守となった。彼は和銅元年(70899月28日に、新たに越後北部に出羽郡を設置したいと願い出て許された。そして一日おいた30日には、安倍宿奈麻呂が”造平城宮司長官”に任ぜられ、奈良の都が作られることになる。これは出羽地方から見事な鷹の羽を献上したということで、新しい郡の設置と都造りとなったのである。この宿奈麻呂こそは、畿内政権の東北経営の功労に輝く阿倍野比羅夫の長男であった。p35
・こうしたてんからみると、頸城地方の開発には、信濃の労働力がかなり寄与しており、畿内王権が日本海によってすすんだのに対し、開発力自体は、南の信濃からきていたといえる。
さらに蝦夷鎮圧が一段落すると武士の勢力は東北から南下して越後にはいってきた。例えば「城氏系図」には次のようになっている。
つまり秋田城介であったこの家系は、越後奥山(関川村)から奥山荘(黒川村・中条町・築地村など)を開発し、さらに豊田荘(新発田市)を手に入れ、伝えられるように白河荘(水原町・安田町)に本拠を置き、越後に根をはるようになった。p55
・「紅葉狩りと板額」 「時雨を急ぐ紅葉狩り、深き山路を尋ねけん」の名調子で始まる「紅葉狩り」は、華麗な夢の世界と、あやしくもあでやか美女と荒々しい悪鬼とをひとりで演じ分ける趣向とによって、世にもてはやされる謡曲の一つである。
この脇役であるますらおは平維茂(城氏系図での粗)で、余呉将軍と言われ、”極めたる兵”と評せられた武勇の士である。小川荘(東蒲原郡)岩屋の薬師堂を中心に平維茂とその奥方をめぐる伝承がある。
平安時代末期には、城氏は越後一国を支配下におく地方的棟梁であった。源平の争乱が始まると、城氏もこれに巻き込まれるようになり、特に信濃の木曾義仲が勢力を広めて来ると、城氏との間に鋭い緊張が生じた。養和元年(1181)城資永が死去したのち、弟の資職は信濃に侵入、初め華々しく木曽勢を討ったが、やがて反撃されて会津に逃れた。平家はこの資職を越後の守に任じ、奥州藤原氏とともに、頼朝・義仲を挟み撃ちにしようとしていた。資職は”白河の御館”とよばれるようにその本拠は白河荘(水原町)であった。白河荘は、奥山荘とならんで殿下渡領(摂関家領)であり城氏はその開発領主であった。
寿永元年(1182)資職の弟永用(長茂)は小川荘赤田に城郭を構え、源氏打倒をはかったが、大勢を盛り返すことはできなかった。その後長茂は平家に組したために頼朝に捉えられ、梶原景時のもとに預けおかれた。しかしその剛勇を惜しんで罪をゆるし、御家人として召し抱えるようにすすめるものがあり、頼朝もこれを入れて文治4年(1188)9月に御所に召し出して対面した。白の水干に立烏帽子といういでたちで登場した長茂は、畠山重忠・梶原景時ら御家人の居並ぶなかを、臆するふうもなく廉中の頼朝と対面した。頼朝は7尺にあまる長茂をみやるばかりで何もいわず、長茂もまた廉中をみすえるばかりであった。長茂を御家人に勧めたものはただ赤面するしかなく、見かねて景時が廉中に頼朝がいる旨長茂に伝えると、長茂は「存じませぬず」と一言のこして退席してしまった。
翌5年、頼朝が奥州藤原氏征伐に出陣すると、景時はあずかっている長茂を、参陣させるように頼朝に申し出てゆるされた。長茂もよろこんで参陣したが、このとき、自分の旗を掲げれば逃亡の郎党が群集するだろうと公言した。旬月を経ずして200人の郎党が馳せ参じたのをみて、さすがの頼朝も驚かざるをえなかった。
・その後、長茂はゆるされて旧に服していたが、建仁元年(1201)2月、京都大番役で上洛中の小山朝政が、天皇行幸に供奉した留守中を襲い、失敗すると関東追討の宣旨を強要した。これも勅許を得られなくなって逃亡、やがて吉野の奥で党類とともに討たれて、その首は都大路を引き回された。
長茂の反乱に呼応して、越後でも城資茂が鳥坂城(中条町)に兵をあつめて背き、幕府がたの追討軍を追い散らすという事態を引き起こした。越後にはしかるべき御家人がいないため、幕府は上野にいた佐々木盛綱に命じて越後御家人の総大将として、討たせることにした。・・・
資茂の叔母に板額女房というものがあった。p57
・城氏が開発領主として摂関家に寄進し、長く殿下渡料として知られる越後国奥山荘は、木曾義仲追討の恩賞として、和田義茂が地頭職をあたえられた。義茂は侍所別当として幕府の御家人の筆頭の地位にあった和田義盛の弟である。・・・p58
Posted:2005年12月10日 (土)at22:20