090407”少なくとも私だけは、神道という語を使わないことにしている”<神道にあらわれた民族論理>「古代史研究Ⅱ」折口信夫著
090407”少なくとも私だけは、神道という語を使わないことにしている”<神道にあらわれた民族論理>「古代史研究Ⅱ」折口信夫著 中公クラシック
講演筆記。昭和3年10月「神道学雑誌」第5号
・・・概して云うと、今日の神道研究の多くは、善い点ばかりを、断片的に寄せ集めたものである。どうも、これではいけない。われわれ現代人の生活が、古代生活に基礎をおているのは、たしかな事実であるが、その中で善い点ばかりを抜きだして、それだけが、古代の引き継ぎであるとするのは大きな間違いである。
今日でも、沖縄へ行くと、奈良朝以前の上代日本人の生活が、ほとんど如実に見られるが、そこには深い懐かしさこそあれ、はなはだむさ苦しい部分もあるのである。もし上代の生活が、こんなものだったとすれば、若い見学旅行の学生などには、あまり好ましくない気がして、日本人の古代生活は云々(しかじか)であった、ということを大声で言うのは気耻(は)ずかしく感ずるであろう、と思うほどである。しかし、それが古代人の生活であるならば、そしてまた、今日の生活の由って来るところを示すものとしたら、研究者として耻じることなしにこれを調べて、仔細に考えてみる必要があろう。p92
・・・私は、神道なる語自身に、仏教神道・陰陽師神道・唱門師神道・修験神道・神事舞太夫・諸国鍵取り衆などの影の、こびりついていることはもとより、語原それ自身からして、一種のいとうべき姿の、宿命的につき纏うているのを耻ずるのである。だから、今日の神道のないようをもる語ではない、と信ずるので、
近来、少なくとも私だけは、神道という語を使わないことにしている。p96
記・紀もしくは祝詞などを見ると、中には、古語・神語などいうべき古い語が、ずいぶんある。それらの言葉は、不思議にも、たいていこれを現代語に書き改めるのとのできるほどに、研究は積まれているが、
私の経験では、真にそれが不思議である。私のこれまでもっと苦しんだのは、祝詞であった。すでに、今までに、半分くらい、2度までも、口訳文を書き直してみたが、その結果、祝詞の表現法をよほど会得した。少なくとも、私自身としては、胸の億・心の底から感得したと思うておる。p96
こういうことを公言するのは、あるいは敬虔な先達に、礼を失することになるかも知れぬが、
私は式の祝詞を、それほど古いものとは思っていない。それは言語史の上から立証できることである。もっとも文ン中の一部には、かなり古いものを含んだものもあるが、新しいものがもっとも多くて、その上に、用語が不統一を極めている。第一義とか、第二義・第三義というような関係ではなく、口の上で固定した、不文の古典の中から、かってに意味を抽き出してきて、面々の理合に任せて、使っているのである。さすがに、古い神聖な信仰を伝えている箇所では、妄りに意味を変えるようなことはしないで、たとい意味がわからずとも固定のまままたは、まがりなりに使っているが、それでも時代が重なると、替らざるを得ないことになる。p100
日本人のものの考え方が、永久性をもつようになったのは、もちろん、文章ができてからであるが、今日のところで、今日のところで、
もっとも古い文章だ、と思われるのは、祝詞の型を作った、呪詞であって、それが、日本人の思考の法則を、種々に展開させてきているのである。私はこの意味で、およそ日本民族の古代生活を知ろうと思う者は、文芸家でも、宗教家でも、また倫理学者・歴史家でも皆、呪詞の研究から出発せねばならぬ、と思う。
<つづく>
Posted:2009年04月07日 (火)at19:13