痛みが再発したのは大学に入ってからの事です。前述の通りハンドボール部に入っ
た私は週3回の練習にできるだけ参加して、ボール拾いやらスコアリング、水くみ
なんかをいそいそとやってました。大学では一番キツイ学部といわれていて、ほと
んど毎日講義がつまっていました。一人暮らしを始めていて、自分で何でもやろう、
と頑張っていたし、アルバイトで家庭教師や塾講師もしている多忙な毎日でした。
そんなある日、また早朝の痛みからはじまり、何日かすると消えて・・・が繰り返
されるようになりました。しかし、保険証は親と分けていなかったため、病院にか
かろうとも考えていませんでした。また考える余裕もないくらい忙しい毎日でした。
そうして痛みをごまかして毎日を過ごしていたのがよくなかったようです。
2年生になって、親から「実家に戻って、実家から通うように」と命令が下りま
した。これはわたしの病気とは関係なく、実家が建て直しをすることになり、余計
な支出を減らしたい、という事からでした。通える距離とは言え、3つの会社線を
乗り継いで、さらに最寄りの駅からバスに乗り、所要3時間。さらに2年生のカリ
キュラムは鬼のようでした。つらいときは友人の家に泊めて貰い、電車では宿題を
やったり仮眠をとり、アルバイトをして、部活にできるだけ参加して・・・我なが
らよくやっていたと思います。
しかし無理が来たのか、再び関節が痛むようになり、ある日気づくと右膝の上部
が腫れて赤くなっていました。熱ももっていました。自分の判断で通院を中断した
過去もあり、なかなか家族にも言えずにいたのですが、父に相談したところ、父の
主治医の方に相談したようです。その主治医の先生のご紹介で東京大学医学部付属
分院の方へ通うことになりました。ご紹介いただいた際に、その先生からお電話を
頂き、「その症状はおそらくリウマチではないか。リウマチは悪性の物になると命
に関わる病気だ。あなたのお父さんは仕事仕事で忙しい人だとはわかっているが、
必ず両親と病院に行きなさい。自分一人で判断してはいけない」などと忠告いただ
き、両親と病院へ出向きました。整形外科にかかり、レントゲン写真を撮ったり血
液や尿検査をしました。関節の可動域を調べたりもしました。すぐには診断が出な
いので、何度か通うことになり、2回目からは一人で車を運転していくようになり
ました。大学1年の時に親に世話になって運転免許をとったのですが、それが却っ
て迷惑を掛けずに通院できることになったのでよかったな、なんて都合よく考えて
いました。東大分院は護国寺にあるのですが電車では遠回りになるので、割と忙し
い学生生活を送っていた私には、車で通うことができたのはラッキーだったのです。
そうして何度か通った後にはじめて「慢性関節リウマチ」という病名をもらいま
した。まだごく初期の段階で、関節も全く変形がなく、きれいな状態だということ
でした。リウマチ患者では陽になることが多いリウマチ因子も反応がマイナスで、
これは全てのリウマチ患者の約1割くらいなのだと言われました。おそらく、だか
ら高校生の時に行った病院でリウマチ、とすぐに診断されなくても仕方がなかった
のかもしれません。
その日はすぐに自宅へ電話をしました。母が電話口に出ました。
「お母さん?病気ね、リウマチだって」
「・・・そう・・・。」
「でも、死ぬ病気じゃないから」
「・・・・もう帰るの?」
「うん」
「じゃあ、待ってるね」
なんとなく、重い沈黙が流れました。いつもは明るい母の声が沈んでいました。
それが申し訳なくて、努めて元気な声を出していましたが、ホント、泣きたい気持
ちでいっぱいでした。よくドラマであるシーン・・・『あなたの病名は・・です。』
『そんなっ』ガガーン、目の前真っ暗・・・を身をもって体験しました。
まだ関節の変形が進んでいないということから、物療内科にかかった方がよい、
と分院から本院へ移り、しばらく本郷の東大病院にお世話になるようになったので
す。
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