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2002.12.30

ルモンドの東京特派員ポンス記者の報告。荒木経惟の写真集についてです。荒木経惟が浄閑寺で写真を撮り始めたとは知らなかったです。浄閑寺は荷風も大好きなお寺でした。

Le journal intime et impudique de Nobuyoshi Araki (2002.12.29)

荒木経惟のみだらな私日記


この日本の写真家の多彩な側面を表す千枚ほどの写真を集めた本が出た。浮世絵絵師の作品に連なる、縛られたり思わしげなポーズを取る紋切り型の写真にくわえ、彼はたくさんの花や雲の表情も写真に撮っている。

この本への献辞として、荒木はデッサンを描いている。丸く線を描き、その中に小さな二つの丸。下のジグザグの線は口。大きな丸の上に二つ、禿頭の上の前髪として閃光が飛び出している。まるでわんぱく小僧の雰囲気だ。これは彼、荒木経惟の顔である。小さなまあるい眼鏡と薄い灰色の口ひげ。自分で自分に「アラーキー」とあだ名を付けているが、これは荒木経惟の字を置き換えて、日本語の「無政府主義者(アナーキー)」をもじったものだ。彼は、最も饒舌で、かつ裸や縛られた女の写真をあまりに撮りすぎるというので、最も議論を呼んでいる写真家の一人である。快活で、キラキラ輝いており、元気いっぱいで、これはと思う女に対しては俄に大胆になる。荒木経惟は自分の幻想に生きるだけではなく自分の幻想と共に生き続けうるという、非常に恵まれた人間の一人なのである。61才にして、かれはまだこの幸運と共に生きている。二百枚ばかりの写真集を発表したのである。

この最終作品は、豪華で大部(約15キログラム?)なものだ。タッシャン社から「アラキ」のタイトルで発売されるこの写真集は、何千枚に上る彼の写真から編集者が選りすぐったものだ。これは彼の仕事の多様性を物語るものである。荒木経惟は、けだるい格好や、変態ポーズの女体に魅せられているばかりではないのである。かれは同じく雲が好きで、嵐で空が変化する様や花、町やそこに住む普通の人々、街路や遊ぶ子供達、またチロという自分の猫なども大好きなのである。「この本は自分の60才の墓碑銘みたいなものだ」と荒木は、彼が好きな新宿のナイトスポットにおいて、言う。「写真は、自分にとって私的な日記みたいなものだ」と続け、そして彼は大笑いした。

荒木経惟は、「日本の顔」というタイトルの写真集に向けて、巨大な仕事に取りかかっている。日本列島の北から南まで、東から西に、彼は普通の人々の写真を撮り続けている。「20歳の時、写真は顔写真から撮り始めた。顔は人生の凝固であり、写真を通じてその凝固したものを引き出したい。京都的な日本や茶道なぞには興味はない。三島由紀夫も読んだことはない。人生がかたち作った顔を写真に撮るだけだ。あらゆる年齢層の人のあらゆる状態の写真を。それは今世紀の初めの時期の日本の年代記となるだろう」という。

東京は下町の中の下町、三ノ輪の下駄屋の息子として生まれ、荒木は浄閑寺のそばで育った。浄閑寺とは1946年に閉鎖された遊郭吉原の記憶と密接に繋がっているお寺である。寺には25000柱もの遊女達のお骨が供養されている。行き倒れの遺体を埋める「投げ込み寺」としても知られていた。「僕はここで仲間達と遊んで過ごした。墓石の蔭でかくれんぼをした。お焼香の匂いは、僕にとって化粧の白粉の香りと微妙に入り混じっている。この死と楽しみが結びついたお寺は、僕にとって、一番大切な記憶なのだ。この浄閑寺で花の写真も撮り始めた」と。父親は大のアマチュア写真家であり、十代の荒木に写真機を買い与えた。この界隈で、いたずらっ子として、彼は写真を始めたのだ。今でもいたずらっ子のままだ。この三ノ輪で、ずっと後になるが、わんぱく小僧を題材とした「さっちん」という写真集を作り、それが雑誌「太陽」の賞を貰うことになる。日本の最大の広告会社である電通に入って仕事を始め、そこで未来の奥さんとなる陽子と出会う。「僕が今あるのは陽子のおかげだ。モデル次第で写真の質は決まるものだ。レンズを通して対象物と写真家の間に交流が生ずる。陽子が僕をして写真家ならしめたのだ」と荒木は言う。

最初に自費出版した「センチメンタル・ジャーニー」という写真集で、既に、以後広げられる彼の多様な才能が現れている。荒木は、時として執拗なまでに情感的であるが、常に感傷的であるのだ。これは彼の陽子との新婚旅行の写真集だ。彼女は裸で、愛の行為の後のけだるい姿を見せている。陽子が42才で1990年1月に死んだ時、彼は最後のアルバムとして「冬旅行」という写真集を作った。陽子の死ぬ直前の写真、病院のベッドのシーツの上で握り合わせた手と手、窓際で待っている猫、誰もいなくなったベッド・・・。その後、彼は花や雲の写真を撮り始める。何時間も雲を撮影し「その止まることのない動きと変容は女性の心臓のようだ」という。

今日、雲はいくつかのアルバムの主題となっている。例えば「去年(2001年)」というアルバムでは、次々と続く束縛衣裳の女とかセックスとか女性の体毛とかの写真に混じって、雲がある。「もちろん女性に気を引かれる時はあるが、陽子以上の女性に出会うとは思わない」と写真集「愛人(2001)」のページをめくりながら荒木は言う。この写真集は、戦前の世界へタイム旅行をしたいという若い日本女性に刺激されて作ったものだ。「僕はその旅行について行くだけだが、大島渚の映画「帝国」のような、熱情がナショナリズムと憎悪と快楽とすれすれで入り混じったあの世界に。現代は感傷は追放されてみんな品行方正になってしまった」と。

そのモデル達と親密な関係になることはあったが、荒木は、陽子や、または昔の女性達、たとえばこの写真集にも出ているあの時の恍惚の表情を浮かべた女優、との関係にまでは決して進むことはなかった。この写真はまるで歌麿の浮世絵のようだ。「恍惚の表情を浮かべた女性ほど美しいものはない」と荒木は、考え深げに写真を見ながら言った。

1970年から1980年まで、日本の検閲は恥毛を写真に撮ることを禁じていたので、荒木は警察とたくさんのもめ事を起こした。「結局のところ、愉快なことだった。自分は決して政治的参加(アンガジエ)をしたわけではないし、芸術観なぞも持っていない。検閲のおかげで想像力がもっと要求された。とにかく、写真家というものは、もともと不良なんだ。今日でも、僕はまだ見てはいけないものを覗き見する悪ガキのままなのだ。でもトラブルはもうない。日本のお役人は僕のことを人間国宝みたいに見なしてくれる」と。さらに、荒木のもとにはモデルになりたいという女性が続々詰めかけている・・・。

Philippe Pons

『アラキ、ジェローム・サンスとの対談』(タッシャン社)。豪華版、四カ国語翻訳、荒木書名入り。632ページ。1750ユーロ

ARTICLE PARU DANS L'EDIITON DU 29.12.02






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