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余丁町散人(橋本尚幸)
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2002.12.2

ルモンド紙。今般、アレクサンドル・デュマの遺体が、国家的な偉人をまつるパンテオンに移され、葬られましたが、ルモンドの社説はこのことの意味について述べています。ちょっと感動してしまいました。排他的な日本の純血主義者達は、この論説を読んで、少しは考えて欲しいと思います。

L'éditorial du Monde
La France métisse (2002.12.1)


混血のフランス

11月30日、アレクサンドル・デュマがパンテオン入りをしたが、デュマと共に一つの強い風がこの殿堂(パンテオン)に吹き込んだ。文章が無限の言葉となり、生命が肥沃な小説となるような、激しい抵抗しがたい生命のほとばしりが、この殿堂に入ったのだ。この偉大な人間を通じて生み出された巨大な作品を、祖国が評価したのは明かである。デュマの悪口を言う連中はご愁傷様。この無限のユーモア感覚を持つ作家によってもたらされた大衆ベストセラー文学が、その復讐を果たしたのだ。しかし、忘れてはならないことは、この一体主義の世の中で、この人気がどれだけの征服と復讐の意味合いを持つかと言うことである。好意的であればあるほど、後世の人間は、作品の中で大活躍するマントと剣の英雄達があまりにも有名すぎるからか、この「作家」を作り出した人間(デュマ)そのものについて、何も知らないまま、見過ごしてしまいがちなのである。

なぜなら、彼は、三銃士やモンテ・クリスト伯などの、フランス文学の必須の作品群の作者としての永遠の神話的存在ばかりではないのだ。デュマは同時に、共和党員であり、社会改革に激しく取り組んだ人間であり、ガリバルディの赤シャツを着たバリケードの英雄を支持した人間なのである。そういう人間としてシラク大統領は今回デュマをパンテオンに入れたのだ。彼は同時に、ヨーロッパ人でもあった。精力的にコーカサスからチェチェンまで旅行し、世界に、またその雑駁さに好奇心を示した人間である。最後に、もっとも大事なことだが、彼は白人と黒人の混血児であり、人種差別主義の犠牲者であり、奴隷の子孫であり、奴隷売買の目撃者であったのだ。要するに「混血のフランス」のシンボル的存在なのである。この「混血のフランス」こそが、デュマと共に、本来あるべきところ、すなわちフランスの国家アイデンティティーの心臓部分(パンテオン)に受け入れられたのである。

2世紀前、1802年7月24日、デュマは生まれた。1794年にハイチの奴隷反乱をなだめるために一時禁止されたの奴隷および奴隷売買を、ナポレオンが1802年5月20日にちょうど復活させたばかりの時であった。この歴史こそが、植民地主義と人種差別主義、混血と排他主義、圧政と反抗の歴史こそが、パンテオン入りしたアレクドル・デュマの生々しい小説の原点なのである。アフリカ奴隷女の孫、アレクサンドル・デュマは、同じ名前のアレクサンドル・デュマ将軍の息子であるが、父のデュマ将軍は、奴隷小屋に生まれ、1776年に身分証明書なしでフランスに渡り、ルイ16世に仕える一介の竜騎兵となったが、その能力と勇敢さが飛び抜けており、「革命の将軍」にまで出世した人間であった。

クロード・リブがその著書『女王陛下の竜騎兵』で、デュマの父のことについて雄弁に詳しく書いているが、この共和党員で人文主義者であった混血の将軍の運命は、我々に我々の歴史の暗い面を思い起こさせるものである。1802年5月29日、混血の士官は陸軍から追放されることになる。1802年7月2日には、フランスの内地領土には黒人と混血児は入国禁止となる。1803年1月8日には、異人種間の結婚は禁止されるなどなどである。1806年、悲嘆の中で死んだデュマ将軍は、この人種差別主義の勃興が引き起こした多くの犠牲者の一人であったのだ。この家族の悲劇こそが、作家デュマをして復讐をはじめさせる起点となったものだ。混血のデュマとしての、多様で入り混じったアイデンティティーのシンボルとしてのデュマの復讐である。






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