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余丁町散人(橋本尚幸)
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2002.11.20
ルモンド紙より。今日はフランス料理のお話し。ディジョンで開かれる「食」についてのシンポジウムなどについて。やけに理屈っぽくって訳すのに苦労しました。「たかが食べるもんじゃろうが、理屈はこねるな」というようでは、散人はまだまだ食の修行が足らない。でもまたまたとんでもない新料理が流行りだしたようで面白いことは面白い。どんなものかは読んでのお楽しみ。
Le mangeur du XXIe siècle (2002.11.19)
21世紀の食生活
ディジョンで三日間に渡り、社会学者、歴史学者、経済学者、それに料理人たちが集まり我々の料理の実践について分析を試みる。
ディジョンは、いうまでもなくマスタードの首都であるが、同時に食通文化の首都でもあると彼等はいう。これは、この地で産する多くの薬草と多くの料理法により、料理の古典で「燃えるような葡萄液」とディジョンが高く評価されてきたことを思えば、もっともなことである。ディジョンはスパイスと使ったパンやカシス酒でも王者であり、この地でなされる食通の祭典は、まるで共産党の定例大会のように賑やかである。
更にその上、ディジョンの新しい市長フランソワ・レブザマン氏は「21世紀の食生活」と題した野心的なシンポジウムを開く事を決定した。「21世紀の食生活を描くことで、21世紀そのものを考える」ということだ。90人に上る社会学者、歴史学者、経済学者、料理人たちが参加し、11月20日から三日間討論する。末梢に至る混乱した議論を避けることができれば、このシンポジウムは、将来の料理はどうなるかという現代的な問いに迫るものとなると期待したい。
アングレームでも、11月24日には「食料チェーンの当事者を信頼する」という基本的なテーマでのシンポジウムが開かれる。最後にペリグーで11月28日と30日、食通関係書の展示会と「食通の金言」と題して「甘いデザートの楽しみ」について語るコンフェランスが開かれる事になっている。
ペリグーは、食通はその地名を聞いただけでも唾が出てくると言うところだ。でもいまやフォワグラはハンガリーやイスラエル、ポーランド、ブルガリア、更にフランスの50もの県からもやってくるようになった。牛乳クオーター制度の政治的な補償で農家がガチョウの強制投餌飼育業に向かっているからだ。ロンドン・エコノミスト誌は11月16日付の号で、フランスの「食生活における例外性」が巨大食品スーパーの急速な台頭で矛盾したものとなっていると冷笑的に取り上げ記事を書いたが、彼等は正しいのである。
今日の混乱は、モデルの欠如と言うよりは、お互いに矛盾した多くの思いつきやつかの間の流行などが過剰にありすぎる事によるものだ。この道の権威がいまスペイン生まれの料理かフェラン・アドリアの才能を高く評価しているのは1968年以降のヌーベル・クィジーンのキチガイじみた席巻を思い起こさせる。ヌーベル・クィジーンの時代には、エスコフィエはフランス料理を硬直化させたと非難され、ミロトン(肉の煮込み)からブランケット(ホワイトソース煮込み)までのブルジュワ料理の一切が否定された。
しかし宮廷料理人で料理本「塩漬け鱈の90の料理法」を書いたことで知られるエスコフィエは、逆説的ではあるが、常に新しい数多くの食べ物を開発し続けていたのである。彼が創り上げた(新しい)ブルジョワ料理は大成功を納め、そのおかげで彼のレストランはパリの名所の一つとなった。
「フランス人は、心の底では、料理の美学を最高まで突き詰める気持ちと、やっぱり基本的なシンプルな食品がいいという気持ちの間で揺れ動いている」とシンポジウムに先立ちジャック・ドムガンはいう。このくるくる替わる矛盾した態度が料理の豊富さと質の向上につながってきた。背景にあるのは、ジャン=ポール・アロンが書いた「19世紀の食生活」の中にある「料理人の義務は、文化的な遺産への投資し、記号論的な接近法で、味と質感と香りの調和をもたらすことであり、それを頭にたたき込むことが、芸術的な実践とノウハウの条件となる」という立場の放棄なのである。
頭にたたき込むと言えば、フェラン・アドリアがセルビアの近くに出店を経営していると言うことは忘れてはならない。出てくるものは、ケロッグのパエージャを砂糖で甘くしたもの(これはおいしい)、トリュフで香りを付けたマイスのムース、アニスで香りを付けたウナギの薫製など! このようなとんでもないメニューは近代料理の万華鏡とも言えるのだ。実験的料理は遊びでもある。時には言葉の遊びにもなる。カタルーニャ人が言うように「俺にとって地方色とは真実性なのだ」。
彼は、毎年毎年、新しいテクニックを試みる。すでにムースはやめてもっと歯ごたえのあるものに替えた(真似をしている人は大変だ)。でもまだ盛りつけと味の調合に浣腸器を遣うことはやめない。この意味で、味と香りをいじくり回すと言うことで、彼はまさしく現代的料理人なのである。香りは天然ものか、工業ものか? 家庭の主婦はスーパーに並べてある工業製品の代替品のルーとか、固形スープとか、パセリやエシャロットの香料とか、グルタミン酸ソーダーとかを買っている。
一方で、エコロジーブームで自然食品とローカロリー食品がスーパーで売られている。農業の定型化が嗜好の低俗化を呼ぶ一方で、それらに替えて自分で野菜を作ろうとする挑戦も存在する。
しかし自然から作る香料は、稀少であり高価である。それでどんどん工業性の香料が作られることになる。専門家の推定によれば、ヨーロッパの食品の三分の一が人造香料を使用している。アメリカでは半分以上。香料を使う側は人造香料と天然香料は違うと言うが、生化学的には両者はまったく同じものである。しかし、人造香料を平気で使う料理人と、職業意識が高くそんなものを使うのは倫理に反すると考える料理人との違いは明かだろう。すでに反グローバリストのホセ・ボベの追従者が言っている。「食べるときには、ネッスル社の奴隷になるのはやめよう。夢を見るときには、イメージの奴隷になるのはやめよう」
Jean-Claude Ribaut
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