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余丁町散人(橋本尚幸)
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2002.11.13
11月11日は第一次大戦休戦条約締結の日だったですね(1918年)。ルモンド紙は当時の軍人でまだ生きている方のインタビュー記事を載せています。106歳の方ですが頭はしっかりしていて話が面白いし、何よりの当時の戦争の雰囲気を物語るものとして、とても興味深い内容です。読者オンライン人気投票でもこの記事が一位となっています。
鉄、砲火、それに泥
1918年11月11日にフランス史上で最多の死傷者を出した戦争が終結。1914年9月、当時17歳だったモーリス・ブルジョワは志願兵となった。その彼はいまや106歳で退役将軍となって、アルゴーニュ、ヴェルダン、シュマン・デ・ダームでの体験を次のように
語る。
モーリス・ブルジョワは、突然いたずらっぽく目を輝かせ、頭を上げて咳払いをし数秒間合いを取って、まだまだいい声で当時のフランス兵たちが塹壕の中で歌っていた歌を歌い出した:
「恋は嘘つきだよ/綺麗なマドレーン/真心は取って置いて/そう取って置いて、僕の綺麗な人」
その時まで、彼はパリ12区のアパルトマンで椅子に身を沈め、ヴェルダンでの恐ろしいエピソードを話してくれていたのだ。「食事当番兵が塹壕から出て移動台所までスープを取りに行ってね。そこに砲弾が炸裂し木っ端みじん。翌日探し回って髪の毛がついた頭蓋骨のかけらを見つけた。それでそいつだと分かったんだ。合掌」
この106歳のモーリス・ブルジョワは、非常に緻密な記憶で、恐怖と日常が入り交じった当時の出来事を淡々と話す。兵隊たちは「頭ぶっ飛ばされても酒をこぼすんじゃない」と酒を取りに行く当番に怒鳴るのが通例だった。そういうことにはすぐに無感覚にならないとやっていけない。当時の鉄と砲火と泥の時代を、彼は感情を交えずに語ってくれた。
17歳の時に戦争が始まった。当時陸軍兵学校の予科に在籍していたモーリスは当然のこととして志願兵となる。18歳以上が条件であったが、親の同意を無理矢理取得して17歳で兵隊になった。当時の若者たちはとても愛国心が強かったので、それはごく自然なことであった。1914年9月、フォンテンブローの兵営に行く。途中負傷兵を輸送する列車をはじめて見た。
そこで兵隊としての訓練を受け、曹長待遇の陸軍学校生徒兵となる。アルゴーニュの前線に向かうが「戦争というものがまるで分かっていなかったので、恐怖感は全然なかった」。でもすぐ知ることとなる。はじめて弾が飛んできたり、はじめて塹壕に入ったり、はじめて突撃したりするうちに。最初の突撃は「酒だ、酒だ」と喚きながら敵が陣取る高地によじ登った。突撃は成功したが、振り返ってみると付いてきたのはほんの数人だけで残りの連中は逃げてしまっていた。「彼等はちょっとばかり臆病だったのね」とモーリスは寛容にコメントする。
モーリスは戦場になれてくる。「戦争が日常ルーティーンになるのだ。6日間は前線、その後で後方に移動。その繰り返し。初めのうちはそんなにしんどくなかったよ」「でも凍傷で15日間休んでまた前線に帰ってきてみると戦争はとてもひどくなっていた。双方に死傷者続出。戦争ってものは結局相手を破壊し尽くすことだって分かるようになる。やがてそれにも慣れてくる」。「塹壕戦では(炭坑が多い)北の方の連中が穴を掘る役目だ。25メートルぐらいの深さに穴を掘る。敵のすぐ近くまで。掘りながら敵の動向を壁に耳を当てて探る。そこに爆薬を仕掛ける。爆破すると数十メートル前進できる。ドイツ軍も同じことをやるので、死傷者がどんどんでる。
1915年になって、毒ガスが使い始められる。ドイツ軍は早くから催涙性の毒ガスを使用。砲弾に入れて敵の陣地に打ち込む。ガスは塹壕に流れ込む。マスク替わりの布地が支給され、それをハイポに浸してから鼻と口に当てるのだが、効果はあまりなく咳と涙でとても苦しかった。気管支をやられた連中は悲惨だった。
やがてそういう生活が日常化する。「メシ(スープ)は上等とは云えないけれど、食えないことはなかった。ただ配給方法がいい加減なので、往々にして食べるときには冷たくなっている。それには困った」「ある時伍長が残り物の酒をどうにか手に入れてきたが、ひどい味だった」「暇つぶしにトランプなどやった。一方、本格的にミサのお祈りしている塹壕区画もあった。ときには歌の上手い兵隊をテーブルに上げて歌唱コンサートなども開いた。でも蚤と虱には閉口した。いつでもどこでも蚤と虱はついて回った」
1916年、モーリスはヴェルダンの反攻作戦に参加。「ヴェルダンってのはどんなところだったんですか」との質問に「巨大な戦場だよ」。砲弾が炸裂し臀部に負傷。明け方まで砲弾で出来た穴に横たわっていたが、やがて「担架兵が苦労しながら近くの救護所まで運んでくれた。砲弾がどんどん飛んでくるのだが、そうするとドイツ兵に見えるように担架を高く掲げる。そうすると敵は撃つのをやめる。当時はお互いに負傷兵は撃たないというのがルールだったんだ」
「救護所では外科医が『大して痛くないよ』と言ってゾンデをゆっくり傷口に突っ込み、そして一気に切開した。まるでビフテキみたいに。4人がかりで押さえつけられての手術だった。外科医は内部をきれいに洗ってから包帯を巻いてくれた。4ヶ月の入院生活」
1917年には再び前線に戻る。ある朝、敵がとても静かなので偵察に行った。驚いたことに敵は退却していた。「敵の塹壕は我々のより格段に住みやすいようになっていた」。翌年また前線に出る。機関銃での撃ち合いで二カ所に負傷。捕虜となる。動けないので最初荷車で運ばれたが、ドイツ軍の将校は、それは将校に対してはふさわしくない方法だといってすぐちゃんとした傷兵運搬車に乗せ替えてくれた。収容所の生活が始まったが、ある日ドイツ軍の将校のひとりがこっそり「6月1日までに戦争が終わらないとドイツでは革命が起こる」と囁いた。
やがて、ドイツの捕虜収容所にキール軍港で反乱を起こした水兵たちがやってきて解放してくれた。「休戦協定締結の日にはドイツ軍兵士もフランス軍捕虜と一緒になってマルセイエーズを歌った」
モーリスはその後、捕虜たちの帰国管理業務を志願し各地を転々とした後、1919年2月にフランスに帰る。帰ってきたときは捕虜となったときの血で汚れた軍服のままだった。
モーリスは陸軍でキャリアを続け、1951年に将軍として退役、現在に至る。「ドイツ人を恨んでますか」との質問に「いや恨んでいない。彼等は命じられて戦争しただけだから。お偉方が彼等の領土を広げようとして戦争を始めた。現在みんな『ドイツ人』という表現を使うが、当時は『プロシア人』と呼ぶ人が結構多かった。あいつらが戦争を始めた。彼等(プロシア人)はちょっと野蛮な考え方の持ち主だということはできる」と。それからちょっと間を置いてから微笑と共に退役将軍は次のように締めくくった「フランス軍も同じようにひどいことをやり返したからね」と。それが戦争。
José-Alain Fralon
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